文字数 1,473文字

 「厚さ1ミリの霊」という桜金造の怪談話がある。冷蔵庫と棚のたった1ミリの隙間に女の幽霊がいる、という話だ。1ミリ。想像できなさそうでできそうなぎりぎりのビジュアルの異様さが脳に染みついて離れず夢に見るほど怖かったものだが、なぜいま思い出したのかというと、この部屋にも同じ幽霊が棲んでいるかもしれないと疑いはじめたからである。
 一週間前に越してきた1DK。間取りや駅に近い点が気に入ったし、前の入居者が冷蔵庫から本棚から家具をそっくり残してくれているので即決したのだが、徐々に妙な点に気づいた。煙草の煙がいつも同じ方向に流れていくのだ。
 ふつう煙は空中に霧消するものだ。だがいまおれが手にしている煙草の煙は、ゆるやかなカーブを描きつつ左手の先の壁の、前入居者が残していったオーディオラックと本棚の隙間に吸い込まれていっているように思える。
 この隙間に何かある。まさか、薄い幽霊がいる? おれは金造の話を思い出し身震いした。しかし女の霊で危害を加えないのならよいではないか。金造の話でも女に惚れてアパートから出てこれないんだっけな。そんな魅力的な女なら逢ってみたいものだ。……ああ、幅が1ミリしかないなら何もできやしない。
 冷静に考える。壁に孔が空いているとかで、こっちの温まった空気が隣室の冷たい空気に流れているのかもしれない。だとしたら欠陥物件だ。そう安くもない家賃なんだぞ。管理人に訴えて修理させよう。
 おれはオーディオラックを、次いで本棚を少しずらした。……あった。本棚の裏、しゃがんだ目の高さの位置の壁に直径一センチほどの孔が開いている。
 隣室は男子大学生だ。入居した日にいちおう挨拶した。真面目で大人しそうな青年だった。やれやれ。修理となると彼にもひとこと言っておかなきゃいけないのは面倒だな。というか、向こうはこの孔に気づいていないのか?
 孔を覗くと重なり合った植物の葉が薄暗い空間に見えた。
 細い葉が放射線状に延びている。観葉植物だろうか? ……おいおい、まさかクスリの葉っぱかよ。あの大学生、真面目そうだと思ったのにもしかしてやべぇ奴だったか。だまっててやるからおれにも吸わせろって言ってみようかな。
 しだいに目が慣れてきた。よく見ると、葉陰の先の床がフローリングではない。ごつごつした岩だ。岩の間から何本かの蔓が延びている。まるで山中だ。
 と、葉の向こうでガサッと、何かが動いた。まずい、大学生に気づかれたか。孔から顔を外した。ガサガサと、複数の人間が葉をわける気配がする。そのままじっとしていると、声がした。
「隊長殿、この小屋であります。隙間から人の目が動くのが見えました」
「一人か?」
「わかりません。同じ班に英語のわかる者がおります。呼んでまいりましょうか」
 大学生じゃない。声の感じからもっと年のいった男だ。
 そろそろと、再び孔に右目を当てた。痩せた男がこちらを凝視している。こけた頬に無精髭、ぎらぎらに光った双眸。色褪せた襤褸襤褸の戦闘服。同じ格好の男が二人。戦争の実録動画で見た日本兵そっくりだ。
 何だこれは。いったいどういうことだ?
 正面の小柄な男が近づいて提げていた銃を構え、孔に銃口を当てた。あっという間で逃げる時間はなかった。ダアン、と爆音がして、おれの頭は木端微塵となり、血と脳漿がフローリングと壁いっぱいに飛び散った。
「捕虜に食わせる食料がねえが。こうするしかないじゃろが」
 うすれゆく意識のなか、男の嗄れ声と、銃音に驚いて上下左右の住人が開けるドアの音をおれは確かに聞いた。それから視界が真っ暗になった。

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