第2話 太陽暦の町

文字数 1,152文字

 国文学者池田弥三郎は、銀座を「太陽暦の町」という。
 俗に「銀座火事」と言われた明治5年2月26日の大火によって、江戸時代末期の姿をことごとく失った銀座が、煉瓦街として生まれ変わろうとしている最中に、新政府によって太陽暦が採用したからだ。
 「古き銀座のほろんだ年である明治5年は、12月2日をもって終り、12月3日は明治6年の1月1日となった。つまり、西洋式の煉瓦の町、石の町となった銀座の歳月は、太陽暦とともに始まった。銀座という町は、災害が特にその町造りに働きかけている。明治5年の「銀座火事」、大正12年の大震火災、昭和20年の戦災がそれである。そして、そのたびに、町の外貌が変わるとともに、住民の入れ替わりがその背後にはあった」(エッセイ「ひと住まぬ町」から)
 銀座のまちが、新しい時代の幕開けの一つの象徴として捉えているのだろう。

 「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど火事の多い江戸だったが、市街の防火策と言えば、火消し制度の充実と火除け地の拡大が中心だった。そのため、明治の世となって、政府は再三にわたって防火建築である土蔵塗家を奨励し、政令も発してきた。そうした背景の中で、銀座大火が発生した。 
 大火後の政府の対応は早かった。火災から4日目の2月30日(太陰暦)には太政官から東京府へ、府下の家屋建築に関しては、火災を免れるため、追々、煉瓦をもって建てるよう指導している。これを受けて3月2日東京府知事・由利公正は、火災のあった地域に対し、本家作を見合わせるよう制限するとともに、道路を拡張し、煉瓦家屋の建設に取りかかる旨の通達を出している。
 そして、道路の拡充と不燃化された西洋風の街並みとする銀座の煉瓦街計画が、トーマス・J・ウォートルスの案で進められることになる。

 築地の外国人居留地の開設と新橋・横浜間の鉄道の開通も、銀座煉瓦街の建設の背景として忘れてならない要因だ。
 1868(明治元)年、開港場の横浜などから訪れる外国人が東京での貿易を許される場所としての開市場として、築地に集団居留地区が開設される。居留地には、住宅・学校などの生活コミュニティとともに、築地ホテル館など外国人の宿泊・交易場としてのホテルや遊郭も造られた。
 ただし、港を持たず、横浜港を貿易港としての開市場であったことから、商業地としては不振であったという。
 1870(明治3)年から始まっていた新橋・横浜間の鉄道が1872年9月に正式開業となり、新橋―横浜間は53分で結ばれることになる。
 銀座は新橋停車場に直結し、霞ヶ関官庁街、日本橋の商業、金融街、築地外国人居留地に囲まれた位置関係にある。銀座煉瓦街の建設は、外国人から見ても帝都にふさわしい街とする一連の文明開化施策の帰結点であったのかもしれない。
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