文字数 8,993文字

ひと昔前、COVIDなんちゃらとかいう感染症があったあと、政府はその経験を活かして新種ウイルスに対する緊急対応マニュアルを作り上げた。
仕事はほとんどがテレワーク、授業は完全オンライン化、物流は自動運転のAIが行い最低限の人間しか外に出ない。それ以外の人間が外に出られるのは10日に1時間の外出時間。そして、このマニュアルは新種ウイルスの存在が確認されたときのみただちに社会に適応される。歴史の教科書で習う感染症の歴史を見ると、感染症が起こるたび対応が早くなっているようだ。けど、今新たな感染症に直面している僕らには関係ない。この閉塞的な生活を作った昔の人間のことを、無責任にも憎んでしまう。感染症が拡がり始めたときにすでに下宿を始めていた大学一年生の僕は、一人狭い部屋でこう思った。

「はやく明日が来ないかな」



明日は9月15日。外出日だ。

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ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今13:00から14:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
「大学の授業と被ったんラッキーすぎる…!」

僕はすでに済ませた荷物、一切れのホットサンドをただ放りこんだだけのカバンを手にして、意気揚々と玄関に向かう。外出日は唯一の休息なので、授業が公欠扱いになるのだ。つまらない授業をサボったって無罪放免。本当にラッキーである。

「今日も公園でいいか。ご飯食べて歩いとったら時間経つやろ。」

ちなみにこの制度について説明していないことが二つある。まず一つは、この時間に外に出られるのは一地区に一人(同居している場合は一家族)で、出歩けるのはその地区の中でのみ。そしてもう一つは外出をキャンセルした場合に振り替えの時間が与えられるということだ。子供の振り替え時間を確保するために、18歳以上の人間は21:00以降に振り替えられることが多い。
夜風を感じて歩くのも粋だが、せっかく外に出るのだからやはりお日様の光を浴びたい。だから僕は絶対に振り替えたりしないのだ。
公園で軽食をとり、いつもとは趣向を変えて遠くの方まで歩いてみる。10日ぶりに歩く外。本来であれば賑やかな商店街も、今は人っ子ひとりいない。こうして歩いていると、自分がこの世界の主なのではないかという気さえしてくる。その考えは近くの家から出る生活音でかき消されるのだけれど。

「あ、もう境界線か」

いつのまにか地区と地区の境界線まで来てしまった。隣の地区のマンションがすぐ近くに見える。ここを越えたら怒られてしまうので、自分が行けるのはここまでだ。家へ帰ろうとした、その時だった。

「なんや、あれ…」

境界線の端、ちょうどライン上に落ちている封筒。なぜこんなところに。わざわざこんな境界で落とすことがあるだろうか。もしかして。

「もしかして、置いてる…?」

茶色い普通の封筒が、いやに目を引いた。何も刺激のない日々の中でこんなイレギュラーが起こるなんて、めったにあるものではない。置いていくこともできる。しかし、10日後もここにあるという保証はない。

これを持っていけるのは、今だけだ。

そう思った瞬間、僕はその封筒を手にとっていた。


13:45、家へ帰りつく。普段なら一時間きっちり粘るが、今日は気持ちが急いて早くなってしまったようだ。足早にデスクへ行って、封を切る。出てきたのはこれまた何の変哲もない白い便箋だった。感染症が広まる前でさえ郵便は電子メールに圧倒されてなくなりそうだったのに、少し古風に感じる。その古風さもまた、自分の好奇心をくすぐるのに十分だった。僕はその便箋を読み始めた。


誰かさんへ
誰がこれ読んでるんやろうか。隣地区の人間やったらええな。そう願って書いたから。俺はB地区に住んでる者です。もしかしたら誰かが拾ってくれるんじゃないかと思ってこの手紙を書きました。今そっちはどんな感じ?っていっても俺とそんな変わらんか。いつもパソコン向かって仕事して…あ、学生かもしれへんな。まあ言うて変わらんやろ。
これを読んでる誰かさんへ。もしこの手紙が面白いと思ってくれるんやったら、返事を書いてくれませんか。君がこれを拾ったすぐ傍に、そこのマンションの植木鉢があると思います。その下に手紙を残してくれたら俺が取ります。そっちの地区には感染症が広がる前もあんま行ったことないから、どんなところとか教えてくれると嬉しい。な、面白そうやろ。こんな生活してんねんから、そういう遊びがちょっとくらいあっても俺はええと思うねん。B地区の公園の写真を同封しておきます。どうか、君がこの手紙の返事を書いてくれますように。

同封されていた写真は大きなタコの遊具のある公園の写真だった。そういえば感染症が広がる前に、近所の子供達が話していた気がする。隣町に面白い遊具があるから、今度遊びに行こうと。そのあとすぐに町が封鎖された気がするが、あの子供たちはこの公園に行くことができたのだろうか。

10日後
僕がこの手紙に返事を書くかどうかなんて言わずもがなだった。読み終えてすぐネットで便箋を注文し、家の窓からスマホで外の写真を撮った。わざわざ公園の写真を撮りにいくと、この手紙を出すのは20日後になってしまうからだ。家のプリンターで印刷し、手紙とともに封をする。手紙には、自分はB地区の者ではないこと。自分は学生で、同じように暇な生活を送っているということ。この地区には小さい公園しかなく、外に出ても退屈なこと。そして送ってくれた写真の公園に近所の子供達が行きたがっていたことを簡単に書いた。何を書けばいいか迷ったが、しょうがない。まだ相手のことは何も知らないのだ。この手紙の返事で、相手のことが少しはわかるかもしれない。普段は外でなにしようか考えるのに、今回はこの手紙を植木鉢の下に入れることしか頭になかった。
 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今10:00から11:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」

30日後
 今日はあの植木鉢の下を覗く日だ。10日前に植木鉢を覗いたときには植木鉢はなにも入っていなかったので、相手の人は手紙を読んでいるに違いない。ただ、僕はちょうど10日で外に出ているが、相手の人はそうとは限らない。よって、手紙が置いてある保証はない。けれど、僕の胸は期待でいっぱいだった。今日の荷物は便箋と筆記用具。手紙を見つけたらすぐに返事を書くつもりでいる。
 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今15:00から16:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
出かけないわけがない。絶対に振り替えたりするもんか。早くあの手紙が読みたい。
待ちきれなくて、小走りで境界線まで行く。胸の高鳴りは抑えられない。興奮と、緊張と。この生活になってからこれほどドキドキしたのは初めてだ。震える手で植木鉢を上げた。


誰かさんへ
よかった!ほんまに返事来た!手紙無くなってるの確認してから、ずっと楽しみにしとった。そっか君は学生さんやったんやな。楽しいはずの時期にこんなんでかわいそうや。公園の写真もありがとう!久しぶりにそっちの方の写真見たわ。町の封鎖が終わったら行ってみたいもんやな。近所の子らも、もし来れてへんのやったら早く遊びに来てほしいし。そういえば、誰かさんは名前は教えてくれへんのか?でもそっちのほうがおもろいから、それでええわ!俺のことも好きに呼んでくれ。よし、書くことなくなったし、ちょっとした自己紹介でもするな。俺は…


手紙を無心で読み終えてふと顔をあげる。植木鉢を背に僕は一人で手紙を読んでいた。こんな状況を他の人が見れば、外にいるのになんてもったいない、と言うだろう。けれど、それでよかった。家からこの境界線まで15分程度かかるので、帰りの時間を考えるとあと30分で返事を書き上げねばならない。地面に便箋を置いて、そのまま鉛筆を滑らせる。内容は相手の人と同じ自己紹介。そういえば、自分の名前を書くのをすっかり忘れていた。しかし相手の人も喜んでいるから、それでいいだろう。最後に、自分はあなたのことを社会人さんと呼ぶことにします。と書き添えて、便箋を植木鉢の下に入れた。

40日後
 今日もドキドキしながら便箋と筆記用具を用意する。思いがけず口元がゆるんだ。一人で笑っているなんておかしいやつだと我ながら思う。が、仕方がない。今日は10日に一度の外出日だから。
 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今17:00から18:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
出かけないわけがない。絶対に振り替えたりするもんか。早くあの手紙が読みたい。
今日も急いで境界線へ向かう。誰にも見られていないのだから、ゆっくり歩かなくたっていい。ただこの喜びがあまりにも大きな声の鼻歌になってしまわないように気を付けるだけだ。
しかし、そこに手紙はなかった。

なんとなくがっかりして、まだ時間もたっぷりあるのにトボトボと家路につく。どうして手紙がなかったのか。でもよく考えればわかることだった。ただ社会人さんは僕のようにせっついて手紙を書くセットを持って来なかっただけなのだ。手紙がなかったということは、社会人さんは今家で手紙を読んでいるに違いない。きっとびっくりしただろう。手紙がないことを確認する日のはずなのに手紙が入っているのだから。自分のあまりの子供っぽさに少し恥ずかしくなった。

50日後
 社会人さんの手紙を見つけてから随分と長い時間が経った。今まで家での生活は退屈でなかなか時間が経たなかったのに、この一か月は驚くほど速かった。人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが何事かを為すにはあまりに短いという言葉を思い出す。この言葉が今は少しだけ胸に沁みた。

 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今12:00から13:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
出かけないわけがない。絶対に振り替えたりするもんか。早くあの手紙が読みたい。
植木鉢の下には、ちゃんと手紙が入っていた。安心して手紙を取り出す。10日に一度の、至福のひと時である。

誰かさんへ
いやーまさかもう入ってるとは思えへんかったわ!わざわざその時間中に返事くれたんか?確かに、そっちのほうが10日毎に手紙が読めるしええな!今度から俺もそうしよう。
君もこの手紙を楽しんでくれてるって分かって、俺はうれしい。ネット上で友達を作るんは悪いことじゃないけど、やっぱりちょっと寂しいなって思う。こういうのって同じ趣味やから、とかで仲良くなるやん。でも趣味が一緒やからって性格が合うとは限らんし、趣味の話しとっても相手のことってそんな分からんのよな。やから、趣味とかなんにも繋がりの無い君とこうやって話せるのめっちゃワクワクするし、君という人間を知れるのも楽しいねん。これ俺がもう古い人間なんかな?(笑)おかしいよな、顔も見たことないやつにこんなに自分のことベラベラ話して。封筒置いてみたんは好奇心からやけど、もしかしたら俺も寂しかったんかもしれへんな。…ほんまに何言ってんやろ、この話おしまい!!君も愚痴でもなんでも書いてええからな!じゃあそういうことで!


心が揺れた。社会人さんの話は今の僕に刺さった。今まで家で一人退屈していたのは、喋る友達がいないから。受験が終わってSNSを始めたら会ったこともない同じ大学の人が大勢フォローしてくれた。けれどこれといった趣味がなくて、話のきっかけもなくて。名前は知ってるけどどんな人かは全然知らない。気づけばフォロワーばかり増えて友達は全然いなかった。そのまま大学生活は始まって、何の輪にも入れないまま町が封鎖されてしまった。こんなにも社会人さんとの話が楽しかったのは、僕も寂しい人間だったからだ。友達が欲しかった。趣味の話とかじゃなくて、お互いのことが分かる相手が。
僕は急いで便箋を取り出した。早くこの気持ちを社会人さんに伝えたかった。僕も同じだと。あなたのことが分かるのだと。視界がぼやけ、便箋が濡れた。泣いたのなんて町が封鎖されて以来だろうか。いや、そうじゃない。ここまで心が揺れたのでさえ、きっと、町が封鎖されるずっと前以来だろう。
僕は社会人さんの気持ちが分かったつもりだった。少し滲んだ、この書きなぐられた言葉を見たら、社会人さんも僕の心からの同意をきっとくみ取ってくれるだろう。けれど、どうだろうか。大学生になってもこれほど子供っぽい僕を、社会人さんは理解してくれるだろうか。社会人さんの心の穴埋めに、僕はなれるだろうか。
 手紙を書き終えて植木鉢の下に入れる。今の時間は12:50。まずい、走って帰らなければ。今回手紙に書いた内容を、僕はあまり覚えていない。ただ、少し迷惑をかけてしまう気がする。まだ二回しか文通していない相手に、自分は何をしているんだろう。


60日後
 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今15:00から16:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
今日は外に出るのが少し怖い。もしかしたら、こいつはやばいやつだと思われて、もう手紙を書いてくれていないかもしれない。それを確認しに行くのが怖い。落ち着く暇もないまま自分の言葉を書き連ねてしまったのが、恥ずかしい。足取り重く、それでもちゃんと境界線まで歩いていく。植木鉢の下を覗かないという選択肢は、僕にはない。
手紙があることを、僕は確認する。いつも社会人さんが使っている便箋だ。僕のとは少し違う。ちゃんと筆記用具を持ってきてその場で書いてくれたんだということに喜びを覚えた。


誰かさんへ
ありがとう、俺の気持ちを分かってくれたみたいで、すごい嬉しかった。なんで泣いてるん?何でも書いてええって言ったんは俺やねんから、別に俺は嫌ちゃうで。俺と誰かさんは、もしかするとすごい気が合うんかもしれへんな。いつか会えたらまた喋ってみたいわ。まあ今回の町封鎖はなかなか長いから、いつになるかは分からへんけど…
そうや、実は次の君の手紙は返事できひんかもしれへん。俺はいつも10日に一回等間隔で外に出てんねんけど、次俺が出るはずやった日のその時間は大事な会社の会議があって、どうしても家におらなあかんくて。それで振り替えしたら、24日の21:00からになってん。君がいつ外に出てんのか知らんから、もし君より後に外出ることなったら、返事返されへんわ、ごめんな。



よかった。社会人さんは僕のことを嫌いにはなっていなかった。一つのことにこんなに心を乱されているなんて、ばかばかしい。きっとこれ以外になにも刺激がない生活だからだ。しかし、次の社会人さんの外出が24日の夜というのはいただけない。11月24日は僕が外に出る日。標準の外出時間は昼なので、社会人さんは僕よりあとに外へ出ることになる。これでは僕が次に行ったときに社会人さんの返事は読めない。せっかくなので、手紙は家に帰ってゆっくり書くことにした。


70日後
今日は手紙を入れる日。前とは違って丁寧に書いた。そういえば夜に手紙は読めないが、社会人さんはどうするんだろう。もしかしたら家に持って帰るかもしれない。次の返事は期待しないでおこう。
 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今9:00から10:00までがあなたの外出時間となっております。諸事情により出かけられない場合は、今から10分以内にこのアドレスにその旨をお伝えください。」
出かけないわけがない。絶対に振り替えたり…。




振り替える?

振り替えるやつなんて滅多にいない。夜風なんて窓を開ければ感じられるんだから、お日様の光を浴びて外を歩きたいやつのほうが多い。雨の日に仮病をして振り替えるやつもいるとは聞くが、今日は晴れ。天気予報でも一日中晴れ。こんな日に振り替えを希望するやつなんていない。そんな日に急ぎの用事を申し出ればどうなるか。今日の夜に振り替えできるに決まっているのだ。
18歳以上の人間の振り替え時刻は21:00以降。

-それで振り替えしたら、24日の21:00からになってん-

普段なら振り替えなんかするわけない。けれど、今回ばかりは違う。
いつものアドレスに、初めて返信をする。なんて書いたらいいのだろう。けれど、悩んでいる暇はない。10分以内に返信しなければならない。

 「すみません、今日の講義はどうしても出なければならない講義なので、振り替えお願いできませんか。体調は優れているので、今日の振り替えでも大丈夫です。」

変に時間を指定したらその時間に出たいのかと勘繰られるかもしれない。しかもちゃんと今日に振り替えられるかさえわからない。だからこれは、賭けだ。




 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「了解しました。振り替え時刻は、本日21:00から22:00までになります。指定時刻に再度通知いたします。この時刻が可能でない場合は、今から10分以内に-」




このチャンスは絶対に無駄にできない。僕はそう確信した。


 ピコンピコン。スマホに着信が入る。
「外出の時間です。ただ今21:00から22:00までがあなたの外出時間となっております。これは振り替え時刻ですので、再度の振り替えはできません。ご了承ください。」

21:00になった瞬間、僕は懐中電灯を手にして家を飛び出した。
社会人さんは僕より境界線の近くに住んでいて、植木鉢の下に手紙がないのを見たら帰ってしまうかもしれない。もし社会人さんと会うために振り替えたなんてばれたら、もう二度と、偶然でさえ同じ時間になれないかもしれない。こんな機会、二度とない。

僕は走った。メロスもびっくりの走りっぷりに違いない。外へ出てもゆっくり歩くぐらいしかしていない僕に、久しぶりの運動はきつかった。
でもどうしても、どんなに息が切れても、喉の奥に血の味がしても、この足を止めるわけにはいかなかった。

あともう少しで境界に着く。普段15分かかる道のりは、全力疾走して5分くらいだ。どうか、どうか間に合ってほしい。僕を、唯一の友達に会わせてほしい。
あともう少し。僕は身体に鞭打ちながら走った。


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俺はいつも通り境界線まで行く。家から近いため、だいたい歩いて3分くらいだ。今日は誰かさんの手紙を取りに行く。それをその場で読んで返事を…
「今日暗いから読めへんやん」
いつもはその場で読んで返事を書く。一旦家に持ち帰って置きに来るのが面倒だからだ。しかし夜、人出の無い道路を照らす街灯はない。明かりがなければ、その場で読むことはできないだろう。足を止めて逡巡する。懐中電灯を持ってくるべきか、はたまた一回持ち帰るべきか。少しの間悩んでから、一回持ち帰ることに決めた。足を止めてしまったが、自宅は近いので大丈夫だ。手紙を書く時間はたっぷりある。
 暗い通りを進んで、いつもの植木鉢に向かう。そっと植木鉢を上げると、そこに手紙はなかった。
「あれ、おかしいな。無いわけないんやけど。」
少し寂しい気がしたが、仕方ない。無いものは無いのだ。誰かさんが風邪をひいたのかもしれない。そういうこともある。植木鉢を戻して、帰路につこうとしたその時

「はあっ、はあっ」

境界の向こう側から誰かの声がする。ヘッドホン越しでない、久しぶりに聞く人間の声。そちらを見れば、人影が走ってきているのが分かった。

「誰?」

聞いてはっとする。境界に向かって一直線に走ってくるなんて、もしかして。





僕は境界上に人影を見つけた。きっとあの人が社会人さんに違いない。植木鉢をあげるなんて動作、僕か社会人さんしかしない。
待って、と言おうとしたが無理だった。走ることに必死で、声を出そうにも喉が言うことを聞いてくれない。どうか自分に気づいてくれれば…



「誰?」

僕は安心して走るスピードを落とし、乱れた息を整えた。心臓がバクバクとなっている。人に会えた興奮からか、全力疾走の代償か、きっとそのどちらもだろう。

「君、もしかして誰かさんか。」

肯定の意味をこめて、持っている懐中電灯を相手へ向けた。

「うわっ何すんねん!眩しいやろ!」

「…声、出なかったんです。」

相手から2mほどのところで足を止める。怪訝な顔をする相手から自分に、懐中電灯の明かりを向けなおす。

「ソーシャルディスタンス、です。」

にこっと笑うと、相手の笑い声が聞こえた。

「その懐中電灯切ってくれへん?どっちかしか顔が見えへん。」

懐中電灯を切る。辺りが真っ暗になるが、すぐに目が慣れて見えるようになった。こんなに会いたかったはずなのに、いざ会うとなにも出てこない。しょうがないだろう。まだお互いのことを何もしらないのだ。結局何も声をかけられずに、笑いが漏れる。

「ふっ、なんやろこれ…」

「さあ…分からへんけど、めっちゃおもろいな」

二人は笑った。ひとしきり笑った上で、誰かは紙飛行機を社会人に飛ばす。

「手渡しできないんで、飛行機にしときました。」

「なるほどな。ありがとう。」

社会人は紙飛行機を捕まえてポケットにしまう。

「家でちゃんと読んでくるわ。今明かり持ってないし。」

「社会人さん。」

「どうしたん。」

「今度会える日が来たら、タコの遊具の公園連れて行ってください。あそこの公園広そうなんで。」

「もちろん。待ち合わせはここでええな?」

「はい、もちろんです。」

彼らの約束は直に果たされるだろう。ちょうどその時間、ワクチンの開発に成功したという速報が全国民のスマホに入ったが、手ぶらで出てきた彼らはまだ知らなかった。
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