第19話

文字数 1,294文字


 しょぼいおっさん。

 そりゃそうだ、そうに違いない。なのに、ヤングマリーは僕をけっしてそうは扱わない。

 僕は彼女と会っている時、自分がいい歳をしたおっさんであることを完全に忘れている。

 彼女がそうさせてくれる。

 ヤングマリーは僕をしょぼいおっさんとは絶対に言わない。

 鏡さえ見なければ僕もあの頃の若者でいられた。

 ヤングマリーに会いたくなった。

 ヤングマリーに会いに行った。

 誰もいないオフィスに僕は会いに行った。



 繰り返しになるが休日出勤は珍しいことじゃない。

 仕事だと言えば本妻は何も疑わず僕を野放しにしていてくれた。

 だから本当に仕事であればそんなことも思わないんだろうけど、この日僕は仕事があることにして出社をする。

 本妻の凍りつきそうな目は変わらなかった。

 靴を履く時、いつもなら左足からいくのに、背後の視線に(おび)え常ならぬ右足から突っ込んでしまった。

 この違和感を背後の人物と共有していたならば、もはや休日出勤の嘘はバレたも同然だ。

 けれどもここで振り返るわけにはいかない。

 僕は前を向いて()げるように扉を開けた。

 いつもの如く(いってらっしゃい)はなく突き放した無言の圧力みたいなものが感じ取れた。

 僕は(いってきます)をごにょごにょ口籠(くちごも)った。

 家の外でヤングマリーに会うのは初めてだったので、本妻の桎梏(しっこく)から逃れられる境界線を越えた時(それは社屋に潜るまで訪れなかったんだが)、僕の高揚は最高潮に達した。

 例えは正しくないかもしれないが、風俗嬢をホテルの一室で待っている時のあのドキドキ感に近い。

 オフィスの電気をつけて、自分のデスクに腰を下ろした。

 仕事する気などないのに習慣行動は怖い。

 ついパソコンを起動させログインしてメールをチェックしてしまった。

 パワハラの苦情メールが入っていた。

「馬鹿馬鹿しい」

 独りごちてシャットダウンする。

 その余計な行動を後悔した。

 静まりかえったオフィス。

 あたりに誰もいないことを今一度確認する。

 鍵を握る手が震えている。

 シェルターでない場所での逢瀬(おうせ)への不安がまだ僕を追っている。

 それでも彼女に会える喜びに勝るものはない。

 僕は引き出しから紙袋を取り出した。

 ズボンのなかがもう窮屈になっていた。

 何日隔たろうが、どこで会おうが、ヤングマリーはヤングマリーだった。

 雑然とした事務所にそこだけ(まばゆ)い光が立っているみたいだった。

 先ほどの鬱陶(うっとお)しいメールのことなどすっかり忘れさせてくれる。

「おはよう耕太郎」

 泣きそうになった。

 すぐに彼女を抱きしめたかった。

「おはよう」

 会えば必ず夜が明けている。

「仲直りしようね」

 昨晩喧嘩したことになっているのか。

 いつのことだっけ? 

 僕の曖昧な記憶は何の喧嘩だったかまったく覚えていない。

 けれどそんなことは大したことじゃない。

 少なくとも彼女の目は穏やかで凍りつきそうでない。

「ごめん僕が悪かった」

 そう言っておけばいい。

 こんな万能な(・・・)交渉術が僕にはある。

 彼女の頭に乗っているもみじにそっと手を伸ばすと、()んだ瞬間にそれは消えてなくなった。

 彼女だけはこのまま永遠に消えないでくれと祈った。
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