第21話 あんぱんと優等生(4)
文字数 2,569文字
「こちらで食べていかれます? それともお持ち帰りにします?」
美華は蒼にそう聞かれて、イートインコーナーが店内にあるのに気づいた。
といってもテーブル席が二つ、椅子が四つあるだけで規模は小さかったが。
イケメンで興奮していた美華だったが、急に空腹を覚えた。というか適当にパンをトレイに乗せた為、あんぱんばっかり取っていたようだ。自分の頭のネジが抜けていた事の自覚を覚え始めたが、もうカウンターまで持ってきたのでどうしようもない。
とりあえず半分持ち帰り、半分イートインで食べる事にした。ドリンクはオレンジジュースにした。ブラックコーヒーなどがパンに合う事は理解していたが、やっぱり味覚がまだ子供の美華は、オレンジジュースの方が飲みたくなった。
「お代はいりませんよ」
「は? タダ?」
びっくりして変な声が出てしまった。
「私達のパン屋は、ちょっとだけ特殊なんです。ドリンク代はいただきますが」
「えー、意味がわからない」
そう言いつつもドリンク代だけトレイに置いた。オレンジジュースは一杯で100円だった。なぜタダでパンを配っているか謎だったが、悪い話ではない。まだまだ子供である美華は、人を疑う癖はない。その上、今作イケメンだ。悪い事をしているはずがない。
きっと何かわけがあるのだろう。物凄く金持ちで、慈善活動をしているとか。どっかの国の王子で、パン屋をしながら潜伏しているとか。そんな妄想をしつつ、イートインコーナーの椅子に座る。
安っぽいパイプの椅子だったが、店内は春の花畑のように暖かいので問題ない。
なぜか、蒼は美華にパンとオレンジジュースを持ってくると、席に座った。
目の前に王子様のようなイケメンがいて、美華はドギマギと落ち着きが無くなってしまう。
「えー、店員さん。仕事しなくていいの?」
「いや、いいんだよ。それよりも美華と話してみたい」
「何で私の名前を知っているの?」
蒼は美華の質問に答えない。ニコニコと笑っていた。少し不気味に思うほど、綺麗な笑顔だった。このパン屋の不可解な点は、何一つ答えるつもりは無いという意志も伝わってくる。
「このあんぱんは、美味しいですか?」
「美味しいよ。美華は、あんぱんの起源は知ってる?」
美華はオレンジジュースを啜りながら、首を振った。
「明治時代、木村屋が酒種を使って何年もかけて開発したんだって。西洋のパンに餡子入れちゃおうなんて普通思いつかないよねぇ」
「確かに」
艶々の表面のあんぱんを見ながら、美華は頷いた。今はあんぱんなんて普通に根付いているが、明治時代の事を想像すると和洋折衷のパンは衝撃的だっただろう。当時の人が、なんとかして西洋の文化を取り入れようとした地道な努力も想像できて、何ともいじらしいパンに思えてしまった。
「そういえばパンって面白いもの一杯あるよね。カレーパンとか、メロンパンとか。焼きそばパンも。何でそういうの思いつくの?」
「パン屋は、いろいろとマニュアルやルールが通用しない仕事だからね。パンの焼き上がりも天候に左右されるし、お客様の流行廃りも読めないしね」
蒼の言う事は、納得出来る。確かにマニュアルやルールだけ守っていれば何とかなる仕事ではないだろう。そこから珍しいアイデアが生まれやすい環境である事も理解できる。
「実は、飼い犬がちょっと病気になってね。店を開くかどうかは悩んでところだけど、自分でなんでも臨機応変に決めないとね。飼い犬の様子をたまに見ながら、営業するという事にしたよ」
「へぇ」
やはり、パン屋の経営は一筋縄では行かないようだ。マニュアルもルールも通用しない世界なんてちょっと怖い。確かにあんぱんのような、良いアイデアが浮かびそうな環境ではあるが。
学校の勉強はまだ楽なのかもしれない。答えが全部決まっている。先生が言う事を暗記していれば何とかなる。別に頭も使っていないし、何かを生み出しているわけでもない。校則を守っているだけで、優等生にみられる。今の自分の環境は楽以外の何ものでも無いだろうと思えてくる。
「あんぱん、食べていい?」
「どうぞ」
美華はあんぱんを半分に手で割り、齧ってみた。意外と餡子がどっさり入っていて、満足感がある。薄皮というのも、柔らかくて舌触りがいい。市販のあんぱんは、ぺちゃんこに潰れているが、このあんぱんは空気も入っているようなフワフワ感もあった。
美味しさや満足感を感じ始めたころだった。なぜか頭の中に奇妙な声が響き始めた。
『「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』
その声はどこから聞こえてくるのかは、わからない。声とううより、スピーカーからの声が、ふっと頭に響いた感じだった。
ついに自分の頭はおかしくなってしまったと美華は目を白黒させていた。
「ど、どういう事?」
「マタイ5章の17節だね」
蒼はニコニコしながらそう言った。まるで自分の心を見透かされているようだった。
「それって何?」
「新約聖書だよ。調べてみると面白いと思うよ」
頭が混乱してきた。蒼は、イケメンだが、超不思議ちゃんだった。たぶん彼の不思議ちゃんな状態に影響を受け、幻聴みたいのが響いたんだ。そう思う事にする。それ以外は納得できない。
「か、帰ります」
「ありがとうございました。また、来てね。待ってるよ」
異次元レベルのイケメンにニコニコしながら言われたが、全く嬉しくはなかった。それどころか、怖い。背中がゾクゾクしてきた。
きっと夢でも見ていたんだ。そう思うのが一番筋が通っているが、腕の中には持ち帰り用にもらったあんぱんがある。紙袋に入っているが、そこには柴犬と赤ちゃん天使の絵が印刷されている。
こんな現物がある限り、夢ではない。
どう言う事?
美華は蒼にそう聞かれて、イートインコーナーが店内にあるのに気づいた。
といってもテーブル席が二つ、椅子が四つあるだけで規模は小さかったが。
イケメンで興奮していた美華だったが、急に空腹を覚えた。というか適当にパンをトレイに乗せた為、あんぱんばっかり取っていたようだ。自分の頭のネジが抜けていた事の自覚を覚え始めたが、もうカウンターまで持ってきたのでどうしようもない。
とりあえず半分持ち帰り、半分イートインで食べる事にした。ドリンクはオレンジジュースにした。ブラックコーヒーなどがパンに合う事は理解していたが、やっぱり味覚がまだ子供の美華は、オレンジジュースの方が飲みたくなった。
「お代はいりませんよ」
「は? タダ?」
びっくりして変な声が出てしまった。
「私達のパン屋は、ちょっとだけ特殊なんです。ドリンク代はいただきますが」
「えー、意味がわからない」
そう言いつつもドリンク代だけトレイに置いた。オレンジジュースは一杯で100円だった。なぜタダでパンを配っているか謎だったが、悪い話ではない。まだまだ子供である美華は、人を疑う癖はない。その上、今作イケメンだ。悪い事をしているはずがない。
きっと何かわけがあるのだろう。物凄く金持ちで、慈善活動をしているとか。どっかの国の王子で、パン屋をしながら潜伏しているとか。そんな妄想をしつつ、イートインコーナーの椅子に座る。
安っぽいパイプの椅子だったが、店内は春の花畑のように暖かいので問題ない。
なぜか、蒼は美華にパンとオレンジジュースを持ってくると、席に座った。
目の前に王子様のようなイケメンがいて、美華はドギマギと落ち着きが無くなってしまう。
「えー、店員さん。仕事しなくていいの?」
「いや、いいんだよ。それよりも美華と話してみたい」
「何で私の名前を知っているの?」
蒼は美華の質問に答えない。ニコニコと笑っていた。少し不気味に思うほど、綺麗な笑顔だった。このパン屋の不可解な点は、何一つ答えるつもりは無いという意志も伝わってくる。
「このあんぱんは、美味しいですか?」
「美味しいよ。美華は、あんぱんの起源は知ってる?」
美華はオレンジジュースを啜りながら、首を振った。
「明治時代、木村屋が酒種を使って何年もかけて開発したんだって。西洋のパンに餡子入れちゃおうなんて普通思いつかないよねぇ」
「確かに」
艶々の表面のあんぱんを見ながら、美華は頷いた。今はあんぱんなんて普通に根付いているが、明治時代の事を想像すると和洋折衷のパンは衝撃的だっただろう。当時の人が、なんとかして西洋の文化を取り入れようとした地道な努力も想像できて、何ともいじらしいパンに思えてしまった。
「そういえばパンって面白いもの一杯あるよね。カレーパンとか、メロンパンとか。焼きそばパンも。何でそういうの思いつくの?」
「パン屋は、いろいろとマニュアルやルールが通用しない仕事だからね。パンの焼き上がりも天候に左右されるし、お客様の流行廃りも読めないしね」
蒼の言う事は、納得出来る。確かにマニュアルやルールだけ守っていれば何とかなる仕事ではないだろう。そこから珍しいアイデアが生まれやすい環境である事も理解できる。
「実は、飼い犬がちょっと病気になってね。店を開くかどうかは悩んでところだけど、自分でなんでも臨機応変に決めないとね。飼い犬の様子をたまに見ながら、営業するという事にしたよ」
「へぇ」
やはり、パン屋の経営は一筋縄では行かないようだ。マニュアルもルールも通用しない世界なんてちょっと怖い。確かにあんぱんのような、良いアイデアが浮かびそうな環境ではあるが。
学校の勉強はまだ楽なのかもしれない。答えが全部決まっている。先生が言う事を暗記していれば何とかなる。別に頭も使っていないし、何かを生み出しているわけでもない。校則を守っているだけで、優等生にみられる。今の自分の環境は楽以外の何ものでも無いだろうと思えてくる。
「あんぱん、食べていい?」
「どうぞ」
美華はあんぱんを半分に手で割り、齧ってみた。意外と餡子がどっさり入っていて、満足感がある。薄皮というのも、柔らかくて舌触りがいい。市販のあんぱんは、ぺちゃんこに潰れているが、このあんぱんは空気も入っているようなフワフワ感もあった。
美味しさや満足感を感じ始めたころだった。なぜか頭の中に奇妙な声が響き始めた。
『「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』
その声はどこから聞こえてくるのかは、わからない。声とううより、スピーカーからの声が、ふっと頭に響いた感じだった。
ついに自分の頭はおかしくなってしまったと美華は目を白黒させていた。
「ど、どういう事?」
「マタイ5章の17節だね」
蒼はニコニコしながらそう言った。まるで自分の心を見透かされているようだった。
「それって何?」
「新約聖書だよ。調べてみると面白いと思うよ」
頭が混乱してきた。蒼は、イケメンだが、超不思議ちゃんだった。たぶん彼の不思議ちゃんな状態に影響を受け、幻聴みたいのが響いたんだ。そう思う事にする。それ以外は納得できない。
「か、帰ります」
「ありがとうございました。また、来てね。待ってるよ」
異次元レベルのイケメンにニコニコしながら言われたが、全く嬉しくはなかった。それどころか、怖い。背中がゾクゾクしてきた。
きっと夢でも見ていたんだ。そう思うのが一番筋が通っているが、腕の中には持ち帰り用にもらったあんぱんがある。紙袋に入っているが、そこには柴犬と赤ちゃん天使の絵が印刷されている。
こんな現物がある限り、夢ではない。
どう言う事?