わが友との別れ
文字数 1,905文字
親友が死んだ。
故郷に帰って少しした後、もう一人の親友が電話をかけてきた。
最初は何の冗談かと思い、尋ねてみると電話口の向こうでは嗚咽が漏れていた。
本当に死んだんだ。
実感は今でも湧かない。葬儀に行きたくても遠方でお金もない。葬儀に参加した方々の話では穏やかな顔だったという。
涙は出なかった。それより焦燥感だった。
何故? 何故?
そればかりが思考を占めていた。
折しも就職先を探していた最中。面接などとても頭に入らない。
ろくに知り合ってない親が泣いていた。親は私を責めるばかりで、元の職場の方々も責めるばかりだった。元上司は気遣って優しい言葉をかけて下さったが、悲壮感でそれどころではなかった。
親友は心の病を背負っていた。私はそんな親友を見捨てたも同然だ。もっと声をかけてあげれば良かった。おかしな気遣いなんてしている場合じゃなかったんだ。
今になって思い返せば兆候はあった筈だ。私が退職する前あたりから酒浸りになっていて、ある日を境に急に喫煙をすることがあった。
私の言葉が間違っていたのだ。素直に言えば良かったんだ。君にこちらに来て欲しい。そう言ったが弱かったのだ。強引でも連れてくるべきだった。
あの当時は心の病を持った方々を否定してはいけない。そればかり念頭にあり、飲酒を止めなかった。それが却って良くなかった。
あらゆる言葉が間違っていた。生きるのも死ぬのも自由だと語り合ったことも後悔した。親友は私が物語を描いていることを知っていた節もあった。ある時、物語の一節をそのまま科白として吐き出していた。
もしかして私は重大な過ちを犯したのでないか。苦しみから解放する為に描かれた恩寵の教理が逆に親友を死に誘ったとしたら。そういった疑念が過る時もあった。
あれから何度か親友の親と連絡を取った。とても強い方だった。対応ではなく心が。私を励まし、慰めて下さった。それがありがたくて自分は無性に情けなくて謝罪するしかなかった。
私は死にたかった。それから間もなく自死未遂を起こした。大量の塩を摂取してしのうとしたのだ。これで親友のところに行ける。そう思った。しかし、その日は冬なのに異様に暖かい日だった。塩分が汗と共に抜けていくのを感じた。結局、自力では死ねず病院で治療を受けて一晩寝ていた。
私はとても寒かった。酷く寒かった。体がではなく心が。
全てが無意味にすら感じる時もある。誰かを救う為に生きる筈が誰かを死なせてしまう。私は常に見送る側だ。誰かの死を見る度に想う。何故自分が生きてこの人達が去るのか。
今も無性に死にたくなる時がある。だけど、もし私が生きる意味があるのだとしたら親友のことを証してからで遅くはないのでは。
もう一人の親友は積極的に親友の生き様を語っていた。
私は忘れられない。あの親友を。
優しさも、暖かさも、楽しかった青春の日々を忘れられない。
私は生きなくてはならない。どれ程残酷な世界であろうとも。それが遺された者の使命だ。
親友が欲しかった明日を胸に抱いて。
最初から死にたい者などいない。環境がそうさせるのだ。生きてはいけないと思い込まされ、自死へと導いていく。
もし、この文章を読まれた方々で死にたいと思う方がいたら逃げて良いと伝えたい。
社会とは厄介なもので私達を特定の居場所に縛ろうとするが他の選択肢もあることを知って頂きたい。
親友を死へと誘った一因に自己を卑下してしまうこともあった。それは親友が持っていた性質ではなく社会が創り出したもの。
私もそうだ。学生時代は明るかった。しかし、社会人になって使えないと言われ、自分を見失った。
だから逃げて下さい。もし、あなたが追い詰められているなら誰かに相談して下さい。
私のところにコメントして吐き出しても良いです。返信は出来るか判らないですが、吐き出すのは自由。
私はこの手にあるものを二度と零さない様に強さを求めた。でも、それは過ちだった。本当に必要なのは死にたいと想う誰かの気持ちに寄り添うことだったのだと思う。
私自身衰えて初めて判るものがある。普通に生きられるのはありがたいことだ。
だから、この文章を見ている方々へ。人生を謳歌して下さい。
人生を楽しんで。どれ程辛くてもあなたの生を望む者達がいます。
マハトマ・ガンジーの言葉にこんな言葉があります。
「明日死ぬつもりで生きなさい。永遠に生きるつもりで学びなさい」
私達が生きる一日は誰かが生きたかった今日であり、奇跡そのものであるのです。
生きよう。親友の為に。
生きて。あなたの未来の為に。
―了―
故郷に帰って少しした後、もう一人の親友が電話をかけてきた。
最初は何の冗談かと思い、尋ねてみると電話口の向こうでは嗚咽が漏れていた。
本当に死んだんだ。
実感は今でも湧かない。葬儀に行きたくても遠方でお金もない。葬儀に参加した方々の話では穏やかな顔だったという。
涙は出なかった。それより焦燥感だった。
何故? 何故?
そればかりが思考を占めていた。
折しも就職先を探していた最中。面接などとても頭に入らない。
ろくに知り合ってない親が泣いていた。親は私を責めるばかりで、元の職場の方々も責めるばかりだった。元上司は気遣って優しい言葉をかけて下さったが、悲壮感でそれどころではなかった。
親友は心の病を背負っていた。私はそんな親友を見捨てたも同然だ。もっと声をかけてあげれば良かった。おかしな気遣いなんてしている場合じゃなかったんだ。
今になって思い返せば兆候はあった筈だ。私が退職する前あたりから酒浸りになっていて、ある日を境に急に喫煙をすることがあった。
私の言葉が間違っていたのだ。素直に言えば良かったんだ。君にこちらに来て欲しい。そう言ったが弱かったのだ。強引でも連れてくるべきだった。
あの当時は心の病を持った方々を否定してはいけない。そればかり念頭にあり、飲酒を止めなかった。それが却って良くなかった。
あらゆる言葉が間違っていた。生きるのも死ぬのも自由だと語り合ったことも後悔した。親友は私が物語を描いていることを知っていた節もあった。ある時、物語の一節をそのまま科白として吐き出していた。
もしかして私は重大な過ちを犯したのでないか。苦しみから解放する為に描かれた恩寵の教理が逆に親友を死に誘ったとしたら。そういった疑念が過る時もあった。
あれから何度か親友の親と連絡を取った。とても強い方だった。対応ではなく心が。私を励まし、慰めて下さった。それがありがたくて自分は無性に情けなくて謝罪するしかなかった。
私は死にたかった。それから間もなく自死未遂を起こした。大量の塩を摂取してしのうとしたのだ。これで親友のところに行ける。そう思った。しかし、その日は冬なのに異様に暖かい日だった。塩分が汗と共に抜けていくのを感じた。結局、自力では死ねず病院で治療を受けて一晩寝ていた。
私はとても寒かった。酷く寒かった。体がではなく心が。
全てが無意味にすら感じる時もある。誰かを救う為に生きる筈が誰かを死なせてしまう。私は常に見送る側だ。誰かの死を見る度に想う。何故自分が生きてこの人達が去るのか。
今も無性に死にたくなる時がある。だけど、もし私が生きる意味があるのだとしたら親友のことを証してからで遅くはないのでは。
もう一人の親友は積極的に親友の生き様を語っていた。
私は忘れられない。あの親友を。
優しさも、暖かさも、楽しかった青春の日々を忘れられない。
私は生きなくてはならない。どれ程残酷な世界であろうとも。それが遺された者の使命だ。
親友が欲しかった明日を胸に抱いて。
最初から死にたい者などいない。環境がそうさせるのだ。生きてはいけないと思い込まされ、自死へと導いていく。
もし、この文章を読まれた方々で死にたいと思う方がいたら逃げて良いと伝えたい。
社会とは厄介なもので私達を特定の居場所に縛ろうとするが他の選択肢もあることを知って頂きたい。
親友を死へと誘った一因に自己を卑下してしまうこともあった。それは親友が持っていた性質ではなく社会が創り出したもの。
私もそうだ。学生時代は明るかった。しかし、社会人になって使えないと言われ、自分を見失った。
だから逃げて下さい。もし、あなたが追い詰められているなら誰かに相談して下さい。
私のところにコメントして吐き出しても良いです。返信は出来るか判らないですが、吐き出すのは自由。
私はこの手にあるものを二度と零さない様に強さを求めた。でも、それは過ちだった。本当に必要なのは死にたいと想う誰かの気持ちに寄り添うことだったのだと思う。
私自身衰えて初めて判るものがある。普通に生きられるのはありがたいことだ。
だから、この文章を見ている方々へ。人生を謳歌して下さい。
人生を楽しんで。どれ程辛くてもあなたの生を望む者達がいます。
マハトマ・ガンジーの言葉にこんな言葉があります。
「明日死ぬつもりで生きなさい。永遠に生きるつもりで学びなさい」
私達が生きる一日は誰かが生きたかった今日であり、奇跡そのものであるのです。
生きよう。親友の為に。
生きて。あなたの未来の為に。
―了―