夜の思い出

文字数 10,815文字

 調べ物を終えてパソコンの電源を落とし、寝酒に軽くウィスキーでも飲もうかと思った時、僕の部屋のドアがコンコンと安い音を立ててノックされた。僕はパソコン台から離れて散らかり放題の部屋を横切り、玄関からドアスコープを覗き込む。漆黒に塗り潰された向こうの世界に、俯いた観音像みたいな人影がある。黒髪の若い女だ。一体誰だろう?始めはこのアパートの二階に住んでいる若夫婦の奥さんかと思ったが、彼女は頭を茶髪にしているから違う。すると、その人陰の背後の道路を通る車のヘッドライトが、おぼろげにその女の輪郭を映し出した。
「戸田理恵じゃないか」
 僕はドア越しにそう叫んだ。彼女とは小中と同じ学校で、中学では図書委員を務めたりした間柄だ。最後に会ったのは成人式の時だから、約一年ぶりになる。
「こんな時間にどうしたんだよ。しかも一人で」
 僕は部屋のドアを開けながら、彼女に尋ねた。だが彼女は玄関先に突っ立ったまま、俯いた顔を上げようとしない。僕がその俯いた顔を覗き込もうとすると、彼女は僕から顔を背けて、乱暴な言い方でこう言い放った。
「たまたま近くまで来たから、ちょっとお邪魔するわ」
「おい、待てよ」
 すると理恵は僕の身体を払いのけて、そのまま勝手に部屋へと上がり込んだ。余りにも突然の出来事に僕は状況が上手く飲み込めず、玄関のドアを閉めて彼女の後を追った。
 理恵は部屋の真ん中まで来て床の上に胡坐をかくと、何か思いつめた様子で僕の顔を見つめた。薄暗い部屋の明かり照らし出されたその顔は、僕に対する敵意よりも、何かに怯え、必死に助けを求めようとする思いに染まっている。僕はその理恵の表情を見て、昔学校の図書館にあったルワンダ内戦の本にあった家族と一緒に国連の施設に逃げてきた難民の少年がこんなこんな表情をしていたのを思い出した。今はその恐怖から逃れているが、また何時襲ってくるか分からない。見えない恐怖に対して自分を守る術を知らない彼女は、こうしてすがり付く様な視線で僕を見つめる事しか出来ない、哀れで無力な存在なのだ。
 僕は彼女を落ち着かせる目的で消していた部屋の電気を付け、彼女の前に座った。そうして可能な限り優しい笑みを浮かべて、単刀直入にこう訊く。
「なにかあったのか?」
 僕の問いかけに、理恵は俯いたままだった。僕は鼻で小さく溜息を漏らし、「そんな様子じゃ助けて上げられないよ」と念を送ってみたが、彼女は黙ったままだった。
 五分ほど待って彼女の返事を待ってみたが、理恵は口を開こうとはしなかった。僕の所に来た事を後悔しているのだろうか、と僕は思ったが、ここで彼女を突き放しても状況が悪化するだけだと思って、沈黙を貫きとおす事にした。
「なあ、こんな夜中に尋ねてくるんだから何か理由があるんだろう?話してみろよ、言える範囲でいいから」
 僕が二度目の言葉を口にすると、彼女は僕からも目を逸らし、フローリングの床を見つめて、こう口を開いた。
「さっきね、中学の連中とつるんで一緒に飲んでいたの」
「飲んでいてどうしたんだ?」
 今にも途切れそうな彼女の言葉に、僕は静かに答えた。僕の記憶が確かなら、彼女はそこらへんの男の悪口や心理的なプレッシャーにも耐え抜く、芯の強い女だ。そんな彼女がここまで弱々しくなってしまうなんて、それ相応の出来事が会ったのだろう。或いは単に、僕が彼女のデリケートな一面を知らないだけなのかも知れないが。
「そしたらね、あいつに偶然、飲み屋の前で出くわしたの」
「あいつ?誰の事だよ」
 僕が何気なく呟くと、彼女は目を俯かせて口を固く結んだ。恐らく彼女の心に残っている古傷を、僕の一言がこじ開けてしまったのだろう。僕は申し訳ないことをしたと思って、胸が詰まるような感じになった。
 僕は俯いた理恵をぼんやり眺めながら、彼女の口を開くのを待った。だが理恵は一向に口を開こうとはしない。あれこれと思案を巡らせているのか、足元を見たり、指の爪なにやら重ね合わせている。僕は溜息を漏らし、電気ポットにお湯が入っていることを確認して、粉末のミルクティーを入れようと立ち上がった。
「鮎沢に会ったの」
 僕が二つのカップとミルクティーの素を戸棚から取り出したとき、理恵が背後で呟いた。僕はその場に立ち竦んだまま、理恵が自分の中にある恐怖に打ち勝った事に感服した。
「何か言われたの?」
 僕はミルクティーの素をカップに入れて、お湯を注ぎながら尋ねた。甘ったるい砂糖の匂いが、むさい男の一人部屋にやんわりと充満する。
「何も言われて無いわ」
「だったらなんで怯える必要があるのさ」
「そうじゃないの」
 僕は理恵の分のミルクティーを手渡しながら、彼女の顔を改めて見つめた。茶髪だった髪を黒に戻したせいで、彼女の髪はごわごわしている。下手に手を加えずに、そのままにしておけばいいものを、彼女は無理にでも変えようとする。僕が彼女の事を一番良く知っていた時期(それは中学の三年間しかないのだが)その頃はそんな事はしなかったはずだ。ありのままでいる、自然体に近い自分というのが、彼女には許容できないのだろうか。
「あいつに、鮎沢に会うと、なんだか自分が酷くいけないことをしている気がしてならないの」
「何か、あいつを笑いものにする台詞でも吐いたのか?」
 僕はミルクティーに口を付けながら、静かに聞いた。お湯を少し入れすぎたせいで、味がいつもより遠く感じる。
「そんな事はしてないわ。笑いものにする価値なんかない。あいつは不潔で醜くて、いつも私をいやらしい眼で見てた。とにかく、最低の男よ」
 彼女は両手に持ったカップに向かって、ブツブツと鮎沢に対する悪口を並べた。彼女の中で、鮎沢に対する恐怖が次第に憎悪へと変化して行っているのだろう。僕は彼女の記憶の中にある鮎沢と僕の記憶の中にある鮎沢を照らし合わせて、彼のことを思い返した。
 
 鮎沢は僕のクラスの中でも浮いた存在で、何を考えているのかよく分からない男だった。成績も悪く、特に英語や数学と言った予め決められた答えを導き出す科目は不得意だった。おまけに漢字の課題をすっぽかした時などは、まるで課題そのものの存在が極めて不正確であるかのような台詞を吐いて、担当教諭を激怒させた事もある。当時の僕は自分が対峙している様々な対象物への疑問や定義づけを行った事なんて一度も無かったから、鮎沢のすることは理解できなかった。少なくとも当時の僕や理恵から見れば、鮎沢は同じ世界の住人とは言い難かく、お互いの認識空間のズレが原因による衝突も時々起こった。僕達が自分達の尺度で対象物を見ても、彼はどんな時でも自分の尺度で測ろうとした。だから常に共同体であろうとする僕達は、鮎沢に自分達の尺度を何度も押し付けた。けれど鮎沢は自分の理解の範疇に無い、或いは自分が狭い了見だと決め付けている僕達の尺度には決して妥協しようとはしなかった。僕達が全体主義や共同体主義的な言葉を用いて彼を自分達に引き込ませようとすると、鮎沢は逆に残酷な言葉を用いて僕らに喰いかかった。そんな事が長く続いたせいだから、僕達を鮎沢の間には埋めようの無い溝が出来てしまった。
 そんな変わり者であった鮎沢だったが、鮎沢本人が中心になって話題が進むような状況では、彼はこの上ないよき友人だった。彼は自分の興味がある方面の知識に関しては天井知らずの知識を持っていたし、僕には理解できないような事も糸も簡単に覚えて説明してくれる。そういう類の人間だった。僕がハイブリットカーの原理について尋ねると、彼は原理からハイブリットシステムの原理や種類、さらには歴史まで詳しく教えてくれた。
「そんな難しい事が覚えられるのに、どうして英語の成績は低いままなんだ?」
「あれだよ、〝天は二物を与えず〟って奴だよ」 
 質問をした僕が何気なく呟いた疑問に、鮎沢は他人事のように答えた。僕はなるほどと感心した。その事を学校帰りの道で理恵に話すと、彼女も納得したように頷いたのを覚えている。その時から、少なくとも僕と理恵の中では、鮎沢に対するイメージというのは少し変わった。それから僕と理恵は周囲から距離を置かれている鮎沢が社会の中で孤立しないよう、下らない話題や自分達の知らない話題について、鮎沢に色々と質問するようになった。鮎沢の方も他人と触れ合う事に餓えていたのか、時にはオーバーリアクションまでして僕達に色々なことを話してくれた。僕と理恵は、鮎沢は普段気難しそうで訳の分からないことをいつも考えていると思い込んでいたが、彼は思いのほか単純で、年相応の純朴さと単純さを持った。何処にでもいる普通の中学生だった。その事が彼との生活を経て理解できると、僕は所謂〝友情〟という記号化された感情を抱いた。
 
 そうして過ごした時間は、間違いなく一般大衆に普遍的に広く認知された中学生生活そのものだったし、僕と理恵も鮎沢と居ると心が不思議と安らいだ。
 それなのにどうして、二十歳の理恵はこうも怯えているのだろうか?
「だったら、なんでいけない事をしてるだなんて思うんだ?」
 僕は過去の回想を断ち切って聞くと、理恵は俯いた目を少し上げてこう答えた。
「私にもあいつに対しての優しさがまだ残っているのかも知れない。あいつの事を見ると、過去にあいつと過ごした時の事がどんどん思い起こされてきて、その事で訳が分からなくなるの。得体の知れない感情が、自分に何かしろって言ってるみたいで」
「それはそうだろ。鮎沢はいい奴だし、優しいからな」
「そんな事無い、絶対にありえない!」
 僕が何気なく漏らした言葉に、理恵は吠え掛かるように反論した。そのせいで手に持っていたカップが激しく揺れて、理恵の手元と床を肌色に濡らす。理恵は小さく僕に平謝りすると、上着のポケットからハンカチを取り出して自分の手と床を吹いた。
「ごめんなさい。急に取り乱して」
「どうしてそこまで感情的になる必要があるんだ?」
 尚も平謝りを続ける理恵に、僕は追い討ちをかけるように聞いた。理恵は一瞬身身体を硬直させ、僕を裏切り者でも見るかのような目で一瞥すると、ゆっくりとこう漏らした。
「覚えていないの?中学の時、あいつが私にした事」
 掠れた声で理恵は僕に問いかけたが、どうしても僕は彼女と鮎沢が関わった事は思い出せなかった。
「ごめん。思い出せない」
「忘れちゃった?中学最後の学習発表会の時よ」
 その言葉を聞いて、僕は記憶の片隅に仕舞っておいたはずの負の思い出と、もう一度面向かう事になった。
 
 中学最後の学習発表会を控えたある日、鮎沢は合唱台から落ちて保健室に運び込まれた。幸い意識もはっきりしていたし、大きな怪我も無かったので病院送りにはならなかったが、大事をとって午後の授業は休む事になった。
 四時間目の終わり、僕と理恵は給食の玉子丼を持って保健室に向かった。保険教諭の居ない保健室に入ると、鮎沢が何か考え事をするような目をしながら消毒液の臭いが染み込んだベッドの上で横になっていた。
「気分はどうだ?」
「悪くは無いよ。まだちょっとぶつけたところが痛いけれど」
 鮎沢は眠たげにそう答えた。面長で出来の悪い能面のような鮎沢の病んだその表情は、今思えばコクトーの『恐るべき子供達』に出てくるポールに似ていた気がする。別に怪我をして寝込んでいるから似ているのではなく、ポールと鮎沢の中にある病的な内面が重なって見えるから、今はそう思うだけだ。
「給食持って来たよ」
 今度は隣に居た理恵がそう呟いた。鮎沢は身体をベッドから起こし、布団を跳ね除けて理恵の方に身体を向けて、彼女にこう聞き返した。
「悪いね、気を遣わせて。先生は何か言っていなかった?」
「特に何も、お前病院には行かなくていいのか?」
「ああ、何とか。保健の先生はとりあえず今日一日休んでおけって」
 鮎沢は僕に一瞥をくれてそう答えると、再び理恵に視線を戻した。理恵は鮎沢に見られている事に違和感を覚えたのか、彼に動揺を悟られまいと必死に平静を装っている。
「暫く休んでろよ。また来るからさ」
 僕は理恵の異変に気付かない振りをして、給食を近くのテーブルに置いた。そうして鮎沢に別れの言葉を告げると、僕と理恵は保健室を後にした。教室に戻る途中、理恵は自分に対して鮎沢が何か別の感情を抱いていた事にずっと耐えていたのか、教室の手前でこんな言葉を漏らした。
「鮎沢の奴、何か変じゃなかった?」
「頭をぶつけて、ちょっと気分がおかしくなっただけだよ」
 僕は理恵自身の気持ちの変化に気付いてはいたが、見て見ぬ振りを貫き通した。
「何だが、すがるような目で私を見てた」
「怪我をして心細い思いをしているだけだよ。あいつと仲のいい女子なんて、お前くらいだろう?だからそう思うだけだよ」
 僕は根拠の無い理論を立てて理恵の気持ちを和らげようとしたが、理恵には伝わっては居ないようだった。まだ彼女の中に、得体の知れない何かとしての鮎沢がまだ残っているのだろうか。その得体の知れない鮎沢と保健室で寝ていた鮎沢がお互いに存在を主張して、彼女の心は困惑しているのだろう。ある程度人生経験を積み、人間の醜さや不条理さを知った人間なら、その問題に対して一定の結論を出す事は出来るだろうが、まだ何色にも染まっていない、他人を受け入れた事すらない当時の僕らにとって、その答えを見つけ出すのは無理な事だった。
 午後の授業が終わると、僕と理恵は鮎沢の鞄を持って、保健室へと向かった。本当なら理恵を外して僕一人で行っても良かったのだが、理恵も自分の中にある疑問に決着を付けたかったのか、或いはただ単に無意識の内に足が動いただけなのか、理由は分からないが彼女も一緒に着いて来た。
 また保健室の扉を潜ると、ビニールのソファーの上で制服姿の鮎沢が寝転がっていた。彼は入ってきた僕らに気が付くと、起き上がって僕と理恵の方を向いた。
「鞄持って来てくれたのか」
 鮎沢がそう言うと、僕は隣に居る理恵の背中がまた固くなるのを感じた。鮎沢もそれに気付いたのか、出来るだけ平静に、もしくは彼女に特別な感情など抱いていないとでも言いたげな表情で彼女を見つめたが、それは逆効果に等しかった。
「じゃあ、帰ろうぜ」
 何も気付かない振りをして鮎沢は鞄を受け取り、僕らは学校を後にした。
 校門を出て直ぐにある神社の前で、僕ら三人は自分達の置かれている状況が何時もと違う事に気付いた。本当は三人も気付かない振りを貫き通したかったが、余りにも稚拙な造りの仮面が返ってそれを際立たせて、起きている出来事に対して直視せざるを得なかった。
 一体どうしてだろう。鮎沢と付き合う前まではこんな事を経験した事は一度も無かったのに、余りにも純粋な何かが、とても複雑に構築された出力装置を経由して、実態の掴めない、得体の知れない何かに変えてしまっている。それは鮎沢が作り出しているのだろうか、それとも現実を直視しない僕と理恵が作り出しているのか、または勝手に何かあるように思い込んでいるだけなのだろうか。
「なあ」
 欺瞞に満ちた雰囲気に楔を打つように、鮎沢が何処か不自由な言い方で漏らした。
「戸田はさ、好きな奴とか居るの?」
 鮎沢が立つ練習をしている幼児のように発したその言葉は、中学生にとってごく一般的にありふれた文で有っても、そこに居た僕と理恵には何かの天罰のように思えた。
「居ないけれど」
「本当か?」
 理恵の呟いた決まり文句に、鮎沢は食い下がった。
「何よ、不満なの?」
「いや、そういう事じゃなくて」
 鮎沢は理恵を宥めようと、言葉を曖昧にする。だが、鮎沢の本心に気付いている理恵にとっては、意味の無いことだった。
「何も無いなら聞かないでよ。失礼な奴」
 理恵が冷い言葉を吐くと、拒絶された鮎沢は感情的にになって「何だよその言い方は」と小さく漏らした。僕は今すぐにでも二人の間に入って止めようかと思ったが、こんな時に限って自制心が誤作動を起こして、僕はフリーズしたパソコンのように何も出来なくなる。
「言って来たのはあんたの方じゃない」
 鮎沢の言葉を聞き漏らさなかった理恵は、また冷徹な言葉を漏らした。何の変哲も無い。世間一般に広く普遍的に広まっていた〝仲良し中学生〟だった僕らが、ポロポロと土塊の様に崩れてゆく。理恵は歩いていた足を止め鮎沢の方を振り向くと、彼に対する拒絶の意を露わにしてこう言い放った。
「さっきからウザいんだよ、あんたの視線。変な目で見ないでくれる?」
 その言葉が図星だったのか、それとも心外だったのかどうかは分からないが、理恵のその言葉のせいで、鮎沢も胸の中に詰まっていた気持ちに火が点いてしまった。
「何だよ、その言葉は無いだろ!?」
 怒りの炎をじりじりと燃え上がらせるようにして、鮎沢は理恵に食い下がった。
「だってそうじゃん。さっきからアタシのことジロジロ見てさ、何なの?」
 理恵も鮎沢に強い眼差しを向けたまま、強く言い放った。このままでは最悪の結果を招いてしまうと思った僕は、怒り狂う二人を制止しようと「おい」と呻いたが、二人の間に憎しみとも不器用な愛情ともいえぬ何かを感じて、それ以上踏み出す事が出来なかった。
「戸田まで俺を見下すのか?」
 鮎沢は喉を詰まらせるようにして言い放った。彼の顔には怒りに変わって、次第に何か絶望めいたものに侵食されてゆく。
「何だよ、何でだよ」
 声を震わせながら鮎沢が続けると、流石に理恵も悪い事をしたと思ったのか、口元の辺りを凍りつかせた顔になった。だが直ぐに虚栄を張る俗物の顔つきに戻って、鮎沢から目を背けて、こう呟いた。
「てめえ!」
 鮎沢はそう一言叫んで理恵の顔を無理矢理掴むと、強引に自分の方へと向けさせて、精神異常者のような形相でこう言い放った。
「俺の何処嫌なのか言ってみろ!さも無きゃお前は俺とは違う特別な人間なんだとでも言いたいのか!?」
 鮎沢の暴力に耐えかねた理恵が悲鳴を上げると、僕は荒れ狂う鮎沢を取り押さえた。取り押さえられた鮎沢は落ち着きを取り戻すと、僕に向かって訳の分からない言葉を吐き捨てて、そのまま一人で行ってしまった。そうしてようやく辺りが落ち着きを取り戻すと、理恵は乱れた制服を直して、声を押し殺すようにすすり泣いた。
 次の日、僕は鮎沢に対して何か詫びの言葉を言おうとしたが、鮎沢は何時にも増して人を近づけない雰囲気を放ち、誰も傍に近づけさせようとはしなかった。休み時間中に理恵と話して、昨日の出来事について担任の先生に相談しようかと尋ねてみたが、彼女はもう忘れたいといって、僕の提案を拒んだ。
 それから卒業まで僕は鮎沢と言葉を交わさなかった。理恵と話す事はあったが、鮎沢の事に触れる事は無かった。鮎沢を中心に形成されていた筈の僕たち三人の間柄は、たった一つの間違いをを犯しただけで、もう二度と元に戻る事は無かった。

 今思えば、鮎沢は理恵に対しての愛情の強弱が付けづらかったのだろう。元々他人と深く関係を持ちたがらない性格だったし、人生経験も少なかったから、あの年頃にありがちな勘違いや思い込みをしてしまっただけなのだ。だけれどその気持ちが、年齢不相応なまでに発達した増幅回路と出力装置のせいで鮎沢を得体の知れない怪物へと豹変させてしまった。誰よりもピュアな心に、哲学者のような思考回路。二つ持つはずの無いものを彼は持っていたが故に、彼の心は酷く歪んだものになってしまい、そうしてこのような結果になってしまったのだ。その問題が鮎沢にあるのか、それとも彼の心の構造を理解できなかった僕と理恵のどちらに有るかは分からない。
 いずれにしろ、時間が経ちすぎてしまった今となっては、原因究明をして弁解を行っても無意味だ。今の僕には過ぎ去ってしまった事だし、過去に遡って残してきた何かを探し出しても、それが今の自分に対して何の意味を持つのか分からない。今こうして僕の目の前に居る戸田は過去の呪縛に苦しめられているが、それと同じ事が鮎沢の中で起こっているのかも知れない。もし起こっていれば、僕はまた二人の間に立って、中を取り繕うかもしれない。だが鮎沢とは、中学の時以来音信不通だ。彼が今どんな事をして、何を考えているのか全く見当が付かない。僕は賢人じゃないから、何も分からないことに対して踏み出す勇気は全く無い。だから今出来る事は、何かの偶像のように、何も語らずただ彼女の苦しみに寄り添う事しかできない。
「思い出したよ、あの日のこと」
 僕はそう一言言い放つと、立ち上がって戸棚からグラスとジョニーウォーカーのレッドラベルを取り出して、氷も入れずにグラスへと注いだ。僕は理恵に飲むか?とグラスを勧めたが、彼女は首を横に振った。
「もう十分過ぎる位に飲んだわ。それにどんなに酒に溺れても、あいつの事が記憶から消える訳じゃないし」
 理恵は何かを諦めたように呟くと、ダウンのポケットからバージニア・エスを取り出し、火をつけて視線を空中に結んだ。
「面白いでしょ、たったあれだけの事なのに、私の脳裏にへばりついて消えない記憶になってる。カッコ良くも無ければ性格だって歪んでる男だったのに。何時まで経っても消えないの」
 理恵は紫煙を吐き出しながら、ぼそぼそと呟いた。僕はグラスに注いだ酒を半分ほど飲んで、頭の芯をアルコールに浸した。
「仕方ないよ、あの頃は受験だの何だので息が詰まる時期だったし。それに俺やお前、鮎沢だってまだ体が大人になっただけの中学生だったんだ。自分の気持ちを伝えられずにすれ違うなんて、別に深く気にする事でもないよ」
 僕はグラスに注がれた茶褐色の液体を見つめながら、自分の意見から相手の質問を遠ざける言葉を吐いた。自分の意見を切った張ったして適当な文章を作り上げるなんて、ひょっとしたら僕は、政治家に向いているかもしれない。
「本当にそうかな。確かに心は子供で身体は大人だったかもしれないけれど、もう少し他人を気遣う余裕はあったと思うわ」
「そうかな」
 二口目の酒を飲み干し、グラスに二杯目の酒を注ぎながら、僕は理恵に尋ねた。
「そうよ。今だから言えるけれど、鮎沢の奴ね、あの日の夜の夢に出てきたのよ」
「鮎沢が?」
 僕が視線を上げると、理恵は煙草をもう一度吸って、再び煙を吐くと、体育座りをして伏目がちにこう言った。
「あいつはね、何も無い荒野に穿たれた穴の底で、こっちを怯えた目で見つめながら〝戸田、居るんだろ?〟って声を掛けて来るの。私は恐る恐るその穴に近づくんだけれど、どうしてもあいつに手を差し伸べる事が出来ないの」
「自分が引きずり込まれるからか?」
 僕は理恵の言葉を遮って、二杯目の酒を四割ほど飲んだ。理恵は一瞬怪訝そうな目で僕を見やると、今度は視線を足元に向けて、疲れた声でこう続けた。
「そう。あいつにとって誰かと居る事は自分が穴から出る事じゃなくて、自分の中に誰かを入れること、私はあの時危うくあいつの中に引きずり込まれそうになった」
「親しくしていた女子がお前しか居なかったんだ。一方通行の恋をしても仕方ないよ」
「恋心?馬鹿言わないでよ。あいつの何処が純情なの?不潔で気味悪くて頭がおかしくて・・・何一つ取り得の無い、人間の屑じゃない」
「じゃあ何で、お前はあいつの事を忘れられないんだ?」
 理恵の放った言葉に、僕は思いつきの疑問をぶつけてみた。理恵は一瞬口元を凍らせ、平静を装うようにして煙草をテーブルの灰皿に押し付けると、二本目の煙草を取り出して火を付けた。
「何って、私はあいつの被害者だからよ。あいつが私の中に居るせいで、もう人生滅茶苦茶よ・・・」
「本当に被害者感情だけなのか、あいつの意外な一面と言うか、本当の姿を知って戸惑っているだけじゃないのか。それがあいつと偶然会った事で、それがまた再発した・・・」
「あいつを擁護するの?」
「そうじゃないよ、俺はただ」
「無いわ、絶対に無い!」
 真夜中の静寂を切り裂かんばかりの金切り声を上げて、理恵はそう言い放った。
「私があいつに対して友情を抱くなんて絶対に無い。あいつは不潔で汚らしくて・・・・・・」
 理恵は其処で言葉に詰まると、そのまま震えながら嗚咽を漏らした。僕は彼女にまた悪い事をしでかしたと思って、申し訳なさで胸が張り裂けそうになったが、それを言葉にする事は出来なかった。
「・・・お前が鮎沢をそういう奴だと思って居たいなら、俺はそれで構わないよ」
 僕はそう呟くと、グラスに残っていた酒を全部飲み干した。そうして理恵の下に立ち寄り、彼女を立たせると、「もう終わりにしよう」と出来るだけ優しい声で囁き、彼女を部屋の外まで送った。
 部屋から五〇メートルほど離れた交差点まで来ると、僕はまだ嗚咽を漏らす理恵にさっきの事を詫びた。理恵は泣きながらいいわと小さく答えた。
「かなり遅いけれど、一人で大丈夫か?」
「平気よ。無職女が真夜中に歩いてるなんて普通じゃない」
 理恵は自分が弱い存在と見られるのが嫌なのか、気丈に笑って見せた。その笑顔が、僕には彼女が自分で自分を蔑んでいるように思えた。苦しみから逃れたいから、鮎沢の事を一番知っている僕にすがり付いてきたのだ。僕は理恵に何か励みになる台詞を言おうか悩んだが、止めておく事にした。もし僕が彼女の気持ちをどれだけ受け止めたとしても、それは理恵の昂ぶった感情が鮎沢から僕に向いただけで、何の問題の解決にもならない。
 その時僕は、自分があの時から何一つ変わって居ない事に気が付いた。鮎沢が理恵に対して特別な思いを抱いていた事に気付いていたのに、僕は彼女と鮎沢の問題だと思って何一つ口を挟まなかった。重要な役割を果たしているようで、実は何もしていない。今も昔も、僕はそういう人間だ。
「じゃ、またいつか会いましょう」
 理恵は憂鬱な声でそう呟くと、真夜中の闇へと静かに消えて行った。僕は彼女の姿が見えなくなるまで交差点に佇んでいると、夜空に浮かぶ月がまるで円満の象徴であるかのように、丸く銀色に輝いている事に気付いた。僕はその月を見上げながら、胸の中でこう呟いた。
 月よ、お前は便利だよな。体が満ち欠けするから喜怒哀楽を幾らでも表現する事ができる。だが人間は体の満ち欠けが出来ないから、全部自分の言葉で喜怒哀楽を表さないといけない。そんな苦労、永遠に分からないだろう。だけれど、今の僕には、お前の気持ちが分かるような気がする。上っ面だけで微笑み、本音を出さずに立ち振る舞うお前の気持ちが。だって僕は、隠しておきたい闇の中をすべて見渡せる場所に居て、そして何もせずにただその場にいるだけの存在なのだから。
                                    

(了)
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