第19話

文字数 4,053文字

 その機会(チャンス)は思いのほか早く到来した。
 シメオン・コリンズ写真館の前、四つの飾り窓を覗く流れに乗って回遊していたヒューとエドガーに背後から声が掛けられる――
「わが写真館へようこそ! お嬢様方、当写真館にご興味がおありですかな?」
 滑らかなバリトン。その声の主は最新流行のラウンジスーツに身を包んだ紳士だった。
 グレンチェックの三つ揃え(ディトーズ)、黄色いネクタイ、白の手袋、髪と目は茶色。手入れの行き届いた口髭と短い顎髭が優し気な顔に良く似合っている。年齢は三十代後半から四十代前半くらいか。
 さてヒュー、もとい、黒衣の貴婦人(レディ)はすぐには答えず三度(まばた)きをした。
 その間に純白の少女は、飛び上がって姉の後ろへ身を隠す。
 四度目の瞬きを待たず紳士は白いシルクハットを持ち上げると、
「これは失礼。突然声をお掛けしたことをお詫びします。でも、ご安心ください。どうか警戒なさいますな。私は当写真館の主、シメオン・コリンズと申します」
「まぁ!」
 見開かれる佳人の瞳。
「こちらこそ、無作法をお許しくださいコリンズ様。私と妹は昨日ロンドンに着いたばかりの田舎者なんですの。名士のお顔など全然存じ上げなくて……」
 なんて声を出すんだヒュー! スカートの陰でエドガーは身震いした。聞き覚えのあるヒューのハスキーボイスだが、今は氷砂糖のように冷たく、甘い。
 眼前の紳士も同様に戦慄したらしい。今一度シルクハットを無意味に持ち上げ、鸚鵡返しにモゴモゴ言った。
「昨日? ロンドンに?」
「ええ、そうなの。父の領地屋敷(マナーハウス)があるサセックスからやって来ました。初めてのロンドンの街、目に映る物、どれもこれも素晴らしくって、興奮冷めやらず――今日は、口うるさい家庭教師は荷ほどきに夢中、乳母が昼寝しているのを良いことに、こっそり抜け出して妹と二人アチコチ探検してますのよ」
 黒衣の令嬢は胸の前で指を組む。
「ああ! 見るもの全てが夢のよう……そしてここが? あの有名な写真館ですのね? 田舎でもお噂は耳にしておりました。本当になんて素敵なお写真の数々! いつか私たちも撮っていただきたいものですわ」
 プードル並みにツンと顎を上げて、
「では、ごきげんよう、コリンズ様。私たち、今日は散歩の途中なので――」
 シメオン・コリンズは慌てて引き留めた。
「そう言わずに、せっかくここまで足を運ばれたんだ。よろしかったら下見だけでもして行かれたらいかがです? 勿論、私が館内を隈なくご案内いたしましょう」
 ヒューは睫毛を震わせた。
「まぁ、なんてお優しい……! 乳母が言ってる『ロンドンは危険な街』っていうのは大嘘ね?」
 笑顔とともに握手の手を差し出して、
「自己紹介が遅れました。父の姓はクラーク。私はロザリンド、妹はコーディリアと申します」

 外観同様、シメオン・コリンズ写真館は内部も豪壮だった。流石ロンドン1と讃えられるだけのことはある。
 古い時代の高雅な様式はそのままに必要な部分だけ近代的に改装している。
 まず、入口を入ると正面奥に上階へ続く広い階段が見えた。玄関ロビーを挟んで右側が控えの間と第一応接室、左側に二つ、スタジオがあった。
「こちら第1スタジオは、今、一番人気の〈月の間〉として(しつら)えてあります」
「――」
 ヒューやエドガーたちが利用した(ちまた)の、普通の写真屋(・・・・・・)との何という違い!
 背景の緞帳は最高級ビロード、天井から吊るされた星々はクリスタル。メインの月は大きくどっしりとして見るからに頑丈な木製だ。これなら幾人乗って飛び跳ねてもびくともしないだろう。偽フランス人経営のエッフェル写真館の月ときたらペラペラの薄いベニヤ材だったので寄りかかるだけで壊れないかヒューもエドガーもヒヤヒヤしたものだ。床には海を再現して青い絹が敷き詰めてある。細波(さざなみ)を模して所々立体的な皺が入っているのもまた心憎い演出ではないか。
「次の第2スタジオは主にお子さん向けです」
 木馬や大きなボール、フワフワの動物のぬいぐるみ。背景の森はどう見ても本物としか見えない。種々の木が枝を張りジャングルにいるかと錯覚する。一画には思わず飛びついて齧りつきたくなるお菓子の家もあった。
「上の階もご案内いたしましょう」

 更に二階には、従来通りの正統(スタンダード)な二つのスタジオと衣裳室、更衣室、第2、第3応接室があった。この隣接する応接室は開け放せば楽団を入れて舞踏会を開ける造りだ。三階は機材室、暗室、従業員用の休憩室となっていた。四階が自邸とのこと。
 姉妹は写真館主シメオン・コリンズに導かれて最上階以外の全てを見せてもらった。
「4つもスタジオがあるなんて素晴らしいですわ! これをコリンズ様お一人で運営管理なさっておられるの?」
「撮影助手(アシスタント)は5人います、いづれも通いですがね。日中の接客用に家政婦とメイドが計6人。夜は私一人です」
「まぁ! この大きな建物にお一人でお住まいなんですの?」
「芸術家は他人の介在を嫌う傾向があります。私も自分一人で好き勝手に暮らすのが好きでして」
 照れたように咳払いをした。
「撮影は基本的に予約中心です。飛び込みの方も事情を説明して、お好みの日時を設定していただいています。ご要望とあれば出張撮影もいたしますよ」
 ちょっと間を置いて、
「衣装もお貸しします」
 既に通って来た衣装室をシメオン・コリンズは腕を振って差し示した。
「なりきり撮影――いわゆるコスチューム撮影をお望みのお客様に好評でしてね。衣装の数々をご覧になったでしょう? ギリシア神話のアポロンやダイアナ……アントワネット……サロメにカルメン……最近では著名な絵画そっくりに再現しての撮影も人気です」
「そんなことまで? なんて面白い」
「正直な話――」
 写真家は喉の奥で笑った。
「まぁ、大概は独り善がりというか、ご自身が満足されればそれでよろしいかと。但し、ごくまれにこちらから、ぜひ、こんな衣装を着けて撮ってみたいと思わずにいられない麗人に出合います」
「あら、そんなことが?」
「例えば、眼前のあなたがそうです。レカミア夫人に模して写したいものです」
 毅然と顎を上げてロザリンドは言った。
「私、あんな姿は好みませんわ。大画家とはいえ、デビッドやジェラールの描く夫人のドレスは下着にしか見えませんもの」
「これは、失敬。教養が高くていらっしゃる、あの絵をご存知とは!」
「……でも、ユディトなら扮してみたいかも」
「旧約聖書外伝の? ホロフェルネス将軍の首を掻っ切ったユディト? クラーナハが描いた?」
「カラバッジョの方よ」
「なんと! どちらもお似合いです。写真家の胸が高鳴りますよ」
「お姉さま!」
 ここで初めて末娘が割って入った。コマドリのように上擦った声で、
「そろそろお家へ帰りましょうよ」
「あら、いけない、つい夢中になって長居をしてしまったわ。私たち、もうお(いとま)しなくては!」
「そんな。まだよろしいではありませんか。これからお茶をご一緒しようと思っていたのに」
「だめよ、お姉さま。もう戻らないと乳母に叱られちゃうわ。家庭教師もカンカンよ」
「ごめんなさい、コリンズ様。妹は凄く臆病なんです。いつまでたっても甘えん坊の怖がりさんで困りますわ」
「いや、妹さんは正しい」
 突如声音が変わる。シメオン・コリンズは凄味を帯びた厳格な口調で言った。
「ロンドンは、お宅の乳母殿が仰る通り、本当は大変恐ろしい街なんですよ。ですから――」
 再びにこやかな顔に戻って、
「私が馬車を呼んでお家まで送り届けて差し上げます。だから、安心してお茶をご相伴(しょうばん)ください」

「一刻も早く帰るべきだ、ヒュー!」
 一番小さな応接室に通された二人。フランス風、ロココ調の可愛らしい設えで、至る所クピドの絵や置物が飾られている。壁紙とソファはお揃いの朝顔の模様だ。そそくさとシメオン・コリンズがお茶を用意しに出て行くや、エドガーはヒューに額を寄せて囁いた。
「これでもう館内は全て見ただろ?」
「だが、4階はまだ見ていない」
 早口にヒューが返す。
「1階、2階、3階には、娘たちが隠されている場所も、その気配すらなかった。従業員は全員通いで、この広い建物内に奴一人で生活してるなんて妙じゃないか。もう少し粘って何とか4階の住居部分も覗きたい――」
「その従業員だけどさ、僕たちが写真館に入った時にはいたのに、いつの間にか姿が見えなくなってるぜ。気づいたかい?」
「営業終了で皆、帰ったんだろ。撮影は予約制だと言ってたし」
「お待たせしました」
 お茶の盆を掲げてコリンズが入って来る。二人は澄まして姿勢を正した。館主が満面の笑顔で差し出したお茶を(しと)やかに受け取る。
「さあ、どうぞ! ロンドンが初めてのお嬢様方のために最新流行のお茶を選んできました。開店したばかりの高級茶葉専門店〈ウィラード〉の〝ピカデリーブレンド〟です」
 供されたお茶は最高に美味しかった。やはり緊張していたのだ。一口飲んで、喉がカラカラだと気づく。二人ともガブ飲みしたいところを品よく二口、続けて、三口……
 嬉しそうにシメオン・コリンズが微笑んだ。
「どうです、お気に召しましたか?」
「美味しいけど――」
 五口目。なんだ、これ? 妙に甘いな?
 ヒューが顔を上げる。 
「ブレンドは何ですの?」
「ブレンドはバラ、ストロベリー、ハス、そして――」
 茶葉に混ぜられた最後の一品の名は聞き取れなかった。
 ここで意識が遠のいた。
 真っ暗な緞帳が降りて来る。拍手も喝采もない、無音と無明、静寂と暗黒の奈落の底へ――
 ヒューとエドガーは昏倒した。
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