文字数 5,230文字

  三日後、早朝。早起きな年寄りすらも寝息を立てるような朝、二人はひっそりと冴えかえった町を見下ろした。
「さて、どこでしょうね、“不滅の夢”は」
 夢守の歌うような声に、げっそりした表情で夢喰が応じる。
「まさか本当に行くたぁな。なにもこんな早くに起こしに来なくてもいいだろ」
そう悪態をつきながらも夢喰は思い切り伸びをして町を見回した。
「あなただって承諾したじゃないですか。素直じゃないですね。嫌なら起きなければよかったものを。ほら、夢を探すなら子どもがたくさんいるところがいいですね。学校なんてどうです?」
 夢守が遠くに小さく見える校舎を指差して言う。普段なら近付くだけで白い目を向けられる夢喰にとって、可笑しい提案だった。
「あぁ。でも、“不滅の夢”なら子どもの夢とは限らねぇんじゃないのか?もっと層の広いところのが──」
 そこまで言うと夢守が吹き出した。怪訝な目で見返す夢喰に、構うことなく彼は笑う。
「面白い人だ、あなたは。てっきり喜んで走り出すと思ったのに。案外協力的なんですね」
「……チッ、なんなんだお前。今すぐにでも夢という夢を食い散らかしてもいいんだぞ」
心からの苛立ちを含ませた声色で夢喰は夢守を睨みつける。それにも構わず、夢守は笑う。
「できませんって、そんなことは。それに、好き嫌いはどうしたんです?──まぁそうですね、学校はやめておきましょう。夢喰さんの誠意にも答えなければ」
夢守は上品な動作で高台を離れる。夢喰も、いじけながらもそれに続いた。
  行くあてもなく、二人は朝靄がかかる町を並んで歩く。夢の中のようだ、と、夢守は独り言ちた。
  旅、は。不透明な目標を掲げた旅の終点は、どこだろうか。二人の終着点は“不滅の夢”。それが概念体か、生命体かすらも知らされない、それこそが夢のような。
「夢喰さん、あなたは“不滅の夢”をどう捉えているのですか?」
 夢守が、平坦な声で言った。真意の読めない人工知能のような口調に夢喰は呆れたように苦笑する。
「……どうせ、ただの夢だろうさ。大人になれなかった大人がズルズル引きずった挙句薄汚れた夢。それを不滅の、だとか言って美化してるだけだ」
「ふん……なるほど。僕は死んだ子どものことだと思います」
夢喰は夢守の答えに長く息を吐く。
「へぇ、理由は?」
「不滅なんて言うのは、本来何であってもありえませんよね?命あるものは消えるのが運命。ならば“不滅の夢”というものは、それを叶えることも忘れることもできなかった、哀れで、純粋な子どもの死と同義でしょう」
「……でも夢は概念的だ。命そのものがそれに宿っているわけじゃない。俺が喰っているのだって、夢に捧げられた人間の思想。願いだ」
「ほう?では、あなたは“不滅の夢”は概念として存在すると」
「それはさっきも言った通りだよ。“不滅の夢”なんて綺麗な響きのものが、美しいままあるわけねぇ。願って、願って、しまいには自ら呪った不純な概念だ。そういうお前は“不滅の夢”が存在して欲しいと思っているのか?」
 どこか嘲笑を含んだ夢喰の問いに、夢守はやはり冷淡な声で答えた。
「そんなわけないじゃないですか。僕が興味を持つのは、“子どもの夢を守ること”だけです。依頼主が僕たちに望む“不滅の夢”の在処なんてどうだっていい。むしろそれが僕の想像に近しいなら、たとえどんな報酬だとしても依頼を放棄します。そんな子どもを見たいと思うほど、僕は薄情じゃないんです」
「じゃあなんでそもそも依頼を受けた?どうしてわざわざ俺と一緒に行動してまで、それを求める?」
「……言ったじゃないですか。見てみたいんですよ。純粋にね。永久になくならない夢、僕が守る必要のない夢がどんなものか、気になるだけです。これもある種の“興味”、でしょうが」
 夢守はそこまで言うと、朝日が昇り始めた東の空を眩しそうに眺め微笑んだ。
「そろそろですよ。そろそろ、人々が夢から醒める時です」

 

  「サク?」

 ふ、と手が止まった。聞き覚えのある愛称。背後に突如現れた、死神以外の気配に振り向く。

「やっぱり。久しぶり、珱作」

 酷く懐かしい顔が俺を見下ろし微笑む。思い出すのに、時間がかかった。

「ユウ」

俺もまた、そう彼の愛称を呟くと、その名の主は隣に腰掛ける。本宮祐善、高校卒業から疎遠になっていた幼なじみ。たった一人の、親友。

「見ないうちにだいぶ痩せたな。元気か?」

あの頃から変わらない、子犬のような笑顔が向けられる。その眩しさが、どうしてか今の俺にはくるしい。

「元気……だよ。お前も元気そうで何よりだ」

 久しぶりの再会に口下手だった俺はかける言葉が見つからず、そんなつまらない言葉で返す。祐善はそれでも俺に笑顔を向けた。

「何してたの?こんなとこで」

 質問に、何故か狼狽える。別にやましいことをしているわけじゃない。これは俺が死ぬ前にやりたかった夢の実現だ。……そう言えば、聞こえはいいけど。どうしてか、俺は、今自分がしていることに胸を張ることができなかった。
  今置かれている、自分の状況。余命一日。“その時”を冷酷に待ち、隣で嗤う死神。狼に目をつけられた羊の、俺。粘ついて閉ざされた口から溢れ出た次の言葉は、冷たく喉を焼いた。

「…………遺書を、書いてる」

 遺書。手元のこれは、そう表現するのが一番しっくり来た。内容はただの草臥れた男が書いた空想の物語だが、それは俺が生きている内には言葉にすることができないであろう俺の思想。祈り続けることすらできず、叶えようと動くどころか、それを心の奥底に捨て置き忘れようとした薄情者の俺が、死という生からの解放にあやかり最期になってようやく叶えていこうとした、傲慢で、薄汚れた夢。せめてもの贖罪と、その汚さを“不滅”なんて言葉で着飾った、純粋だった子どもの夢。誰かに見られたいわけでもないが、本当に今日で俺の命は燃え尽き、最期にこれを“遺書”として遺していけるのなら、もうそれこそ、この世に悔いは一つもない。

沈黙。長い、沈黙。今の俺には、それすらも居心地がよかった。

「遺書……」

 俺を見る彼の大きな目は、捨てられた子犬のように震えていた。それを見て、俺は感じたことの無い幸福感に包まれた。

「そっ、か」

 彼から出た言葉は、覚えたばかりのようにぎこちない。理由を聞かないのが、彼の優しさだと俺は知っている。明るく、空気を読むのが得意で、それでいて、さりげない気遣いができる。彼が、大勢から慕われる所以。祐善は、皆のヒーローだった。

俺は、そうはなれなかった。

「ユウ、子どもの頃の夢は叶ったか?」

気付けばそう聞いていた。彼は、少し困ったようで。しばらく考えてから、俺の顔色を伺うように答えた。

「……分からない。どんなに叶えたいって願ってた夢も、今じゃはっきり思い出せないから」

その答えに、少し安心した俺に吐き気がした。

「そんだけ、叶えたい夢が変わってったんだ。酷いもんだよな。小さい頃は純粋で、自由に望めた夢も、大人になった自分に壊されちゃうんだ。子どもの頃からの夢を叶えるのが、おれは一番難しいと思う」

「………わかるよ」

 そう言った。一瞬だけ、孤独感から救われた気がした。俺の様子を見て、祐善は笑ってみせる。

「でも、そんなでっかい夢じゃないけど、ずっとしたかったことはできたかな」

「へぇ、例えば?」

「うーん、欲しい漫画は全部買ったし、見たい映画も見た。自分で稼いだ金を好きに使えるようになったのはマジで最高。あと、免許とって、車買った。それで彼女と旅行も行ったな。あとは、お前とこうして話すこと」

「……俺?」

 予想だにしない答えに思わず聞き返した。俺は彼の平凡で幸せな日々の思い出を聞くだけでよかった。俺にとってはたった一人の友人が、自分の幸せを歩んでいることに安堵したのだ。それなのに。俺がそこにいるのは、なんだか変な心地だった。まるで、幸せな日常を喰らう化け物のようで。祐善は笑顔で俺を見た。

「うん。高校卒業してから、おれたち全然会えてなかったろ?おれは家出ちゃって離れちゃったし、連絡もつかなかったし。おれはお前に会いたかった。会って話がしたかった」

「……ああ」

そう呟くことしかできなかった。俺は臆病で。自分の末路を知られるのが怖くて。友人らしい友人が居ないのは、自ら連絡を絶ったのがほとんどの理由。

「おれは卑怯なんだ。お前が、自分から離れていったのは分かってた。でも、その理由も聞こうとしなかった。……できなかった。お前が、それを“遺書”って、そんな悲しそうな顔で言う理由も」

 俺は少し驚いた。俺が彼の善意と思っていた、決めつけていたその優しさを、彼は卑怯と言うことに。その理由が、まるで俺が死ぬのを拒んでいるようで。なるほど確かに、彼は悲しくなるほど優しく、そして卑怯者だ。

「──おれ、一個だけ、どうしても叶えたい夢があるんだ」

  数秒の沈黙のあとで、祐善はそう言った。「どんな夢?」と俺は聞き返す。なるべく感情が含まれるように。

「……お前の……珱作が書いた小説が読みたい」

殴られたような衝撃が脳を揺さぶった。言葉を失い黙り込んだ俺に構わず彼は言う。叫ぶように、俺の腕を掴んで。

「おれ、本読むのとかそこまで得意じゃないけど……。サク、お前、昔言ってくれたよな。小説家になりたいんだって。おれ、嬉しかったんだ。お前が、おれみたいなやつに夢を語ってくれて。お前は静かなやつだったけど、話す言葉は綺麗で……ちゃんと周りを見てて、それを表現するのも上手くて……お前が書く小説ならおれは、おれが一番に読みたいって思うくらい……」

途絶えながらも、必死に彼は訴えた。その大きな目は潤み、強く掴まれた腕は少し痛い。

「なぁ珱作……なんで遺書なんだ」

 そうか、と納得した。これが、彼の本音か。彼は優しい。だから、俺にまだ生きることを望んでくれるのか。死神に捕まった、哀れな俺を。

「俺は、もう、」

 死ぬ。その言葉は、どうしても掠れてしまった。迎えはとっくに来ているというのに。まだ、俺は受け入れられないらしかった。

「小説家は、諦めたんだ」

代わりに出た言葉に、胸が締め付けられた。情けなさが、露呈する。

 “──その夢は、喰われた”

 ほとんど無意識に、そう呟く。俺の夢は、俺によって滅ぼされた。“不滅の夢”にはならなかった。その呟きも、言葉にはならなかった。誰に届くことも無く、己の口の中で溶けていく。
今にも泣き出しそうな彼を置いて、俺は立ち上がった。ノートと、万年筆と、インクを、買った文具屋の袋に入れて。見上げた彼を振り返る。

「じゃあな、祐善。……長生きしろよ」

 それだけ言ってその場を立ち去る。彼から、死神から、耐え難い罪悪感から、逃げるように、忘れるように。背中にかけられる友の言葉は、聞こえないふりをして。誰も待たないアパートに、込み上がる感情を閉じ込めて走る。

  仄暗い自宅の匂いを吸い込み、疲れた俺はへたり込む。随分浴びていなかった日光がぶり返し、疲れた身体が少し火照る。

「……よかったのか、オウサク。あやつを置いて逃げてきて」

疲れた様子もなく、淡々とヒガンがそう言った。呼吸を整えながら、俺は嘆息する。

「ああ。……むしろ、これでやっと覚悟ができた」

ゆっくり、机に向かう。書かなければ。“遺書”の続きを。

「あやつはお前のなんだ?」

ヒガンは問う。万年筆を滑らせながら、俺は答えた。

「あいつは……ユウは、俺の初恋だ。……憧れって言った方がそれらしいけど、でも俺は、ユウを愛してた」

初恋。叶うことはなかった純愛。

逃げてしまった、儚く散ることもなかった恋心。

「ならば尚更、なぜ逃げた?その想いが叶わぬものだったとしても、あやつはお前を大切に思っていたように見えた」

「……だからだよ。最期をあいつの隣で生きれば、俺の覚悟は揺らぐ。これで、よかったんだよ」

これでよかった。心からの言葉だ。だって俺の余命は、この死神は、俺自身だ。

「……ヒガン、やっと分かったよ。俺はもう逃げたりなんかしないさ」

物語の結末。インクは滲んでいた。

これ以上逃げるのは、やめにしよう。俺は万年筆を置いた。


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 晴れやかな顔をしたニュースキャスターが、朝の速報を伝える。

 『今朝未明、東京都○○区のアパートで、二十代の男性が死亡しているのが見つかりました。』

 『隣の部屋に住む住民から通報を受け、遺体はこの部屋に住む草薙珱作さん(26)で、死因は失血死と見られています。遺書も見つかったことから、警察は自殺とみて捜査を進めています。』

  磁器の割れる音が聞こえて、初めて自分がカップを落としたのだと知る。遅れたコーヒーの熱さが、寝巻きを通して肌を焼く。その熱さも痛みも気にならないほど、意識はテレビの液晶画面に縫い付けられる。

「…………サク、」

無意識に零れ落ちた初恋相手の名が、朝の静けさにのまれた。
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