第4話 チャ、ハムッケ カジャ(さあ、一緒に行こう)

文字数 7,341文字

 眼前で気を失い倒れてそうになっている恵美を抱き抱えようと、両の腕(かいな)を前に突き出した刹那のことであった。
 まるで空を切り、自身の腕を摺り抜けていく恵美の身体。

 何故? どうして? と、自身に問い質しながらも、咄嗟に兄の腕の中の恵美に向かって絶叫した。

「大丈夫か! しっかりしろ恵美!」

 あらん限りの力を振り絞り腹の底から声を張り上げたと言うのに、
まったくこちらの声に応えてくれない恵美。
 次いで振り向いて恵美を抱く兄に対しても、大声で叫んだ。

「兄さん!」
 
 そうして掴もうとした兄の腕も、やはり自身の腕を擦り抜ける。

 彼等に取って、まるでこの肉体が存在しないかの如く。
 届かない声。触れることの出来ない身体。

 そうか・・・・・そうだった、か。
 その理由を、たった今思い出した。
 自身の肉体が、この世のものでないことを。

 つい今の今までステージ4bと診断された膵臓癌のことも、近頃では胃薬のアコファイドを呑まなければ食事も取れなかったことも、それ等自身の身体に纏わる総てのことを忘れていたようだ。

 自身の肉体は、とうに死滅している。
 魂だけが、今、此処に在る。
 肉体は厳原総合病院の、霊安室に置いて来たのだから。
 昨夜兄が駆け付けてくれたその一時間後、自分は息絶えたのだ。

 恵美を迎えに行かなければと言う思いが、それ等のことをすっかり忘れさせていたのだろう。
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自身の馬鹿さ加減に苦笑して見せるが、やはり兄には見えないらしい。
 こちらを振り向こうともせず、腕の中の恵美を一所懸命に揺すっている。

 「大丈夫兄さん、只の貧血だよ。恵美は低血圧なんだ。
 とにかく厳原総合病院まで連れて行って、点滴を打って貰ってくれ。
 直ぐに治るさ」 

 そう発したこちらの声が聴こえた訳では有るまいが、兄は恵美をショルダーバッグごと抱き抱え、タクシー乗り場へ。

 やはり私の為に、運転手がドアを開けてくれることはないようだ。
 兄や恵美と同時に、勝手にタクシーの助手席へと滑り込む。

 何だか自身が透明人間になったような気がする。
 車のドアを通り抜けたのは、生まれて初めてのことだった。
 否、死んでから初めてと言うべきか。
 そうと胸中に呟けば、再び苦笑を禁じ得ない自分自身。
 
 無論兄や恵美、運転手もこちらの気配は感じていない。
 こうなると病院迄の道中、まったくすることがない。
 手持ち無沙汰を紛らわす為に、発病を知ったときから死に至る今迄のあれやこれやを、思い出してみる。

 突然の発作と苦痛。
 気付いたときには最早末期状態に陥っていた。
 膵臓癌である。
 しかもステージ4bまで進行していた。

 同期の内科医で、恵美とのことを唯一相談出来た親友でもある峰(みね)の、レントゲンを手に診断結果を告げたときの表情で直ぐに分かった。
 自身の病が癌であることが・・・・・。

 自身が膵臓癌に罹ったことは、両親にも兄にも秘密にした。
 何故なら私は韓国人にならなければならないからだ。
 何故なら私は死ぬ前に、何としても恵美と結ばれたいから。

 しかし死を目前にしたとき、愛する女の将来を考えたとき、私の亡霊に一生縛られたままの
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恵美の不憫が脳裏を過ぎる。 
 死んだ日本人の、しかも犯罪紛いの方途で韓国人に成り済ました男の亡霊を追い掛ける韓国人の女など、洒落にもならない。
 そんなことになれば。韓国にも、日本にも、どちらにも恵美の居場所がなくなってしまう。
 必死になって自身の逝った後の、恵美の幸せを考えた。
 こうとなっては、韓国人に成り済ます計画も断念せざるを得ない。
 懊悩する日々。

 そんな中つい二週間ほど前にたったひとつ、これだ。
 と、言う答えを見付けた。

 兄の洋樹と恵美。
 きっと二人なら、二人が出会いさえすれば、何れ必ず恋に落ちる。
 兄は恵美を、恵美は兄を、きっと好きになる。
 また書き掛けの例の論文も、二人が協力し合えば完成出来る筈だ。
 それに自身以外の男が恵美と睦み合う姿など、想像することさえ出来ないが、しかし兄の洋樹となら話が違ってくる。
 
 そうと決まれば、膳は急げである。
 自身の命が潰える前に、何とかして二人を出会わせなければならない。
 それも自然な形で、出来るだけ早く、また出会うべき場所で、だ。

 二人を出会わせる場所は、其処しかない。
 徳恵と武志に纏わる最も意味深い場所。
 そう、此処対馬しかないと思った。
 運命の出会いには、それ以上の場所はない。

 自身の最後の頼みだと言って、親友の峰に無理を言った。
 彼は知己を頼り、厳原総合病院に私の入院の許可を取ってくれたのである。
 サナトリウムでもあるまいに、私の最後の時を看取ってくれると言ってくれた院長には、何度を頭を下げても足りないくらいだ。
 
 そして今、私はこの対馬に居る。
 命の潰える前に恵美に会いたかったが・・・
・・。

 しかし今は苦痛も、懊悩も、総て嘘のように無くなり、唯、唯、清々しくある。
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 つい数ヶ月前迄は、ワードを使って論文の元になる書き気付けをする際にも、漢字変換さえままならないほどの苦痛を伴っていた。
 癌との闘いから逃れれるなら、いっそこのまま死んでやろうかと思った日もある。
 しかし可笑しな話だが、兄と恵美の為にギリギリ迄生きなければと言う思いが、今朝方まで命を永らえさせてくれだ。
 生きよう、否、生きなければ、と、抗癌剤投与は無論のこと、果ては高度活性化NK細胞治療法までトライする日々。
 ところが一週間ほど前に体調が激変し、気を失ったかと思った次の刹那、覚醒した自身の眼前に白衣姿の男が立っていた。
 親友の峰である。
 蒼白となった峰が震える唇をぎこちなく動かして、私の余命が一ヶ月を切ったことを告げる。
 
 そして三日前のこと、恵美には晴れて韓国人に成り済ます用意が整ったので、今日の夕方対馬へ来て欲しいとメールを送った。
 二度目のプロポーズをするから、と。
 彼女には未だ自身が膵臓癌に罹っていることを、話してはいない。
 打ち明けるべきかどうか何度も迷ったが、結局今の今迄話を切り出すタイミングを逸したままである。
 最早そのことは、兄に告げて貰うしかなかった。

 次いで恵美と同様兄にも、今日着くよう対馬に来てくれとメールを送る。
 只、兄の方にはそのメールで初めて韓国人に成り済ます計画、或いはステージ4bの膵臓癌に罹っていて余命も既に一ヶ月を切っていること迄、総て真実を打ち明けた。
 
 今思えば、自身の肉体が死滅する前に兄と会えたのは、正に僥倖。
 そして常に冷静で気丈な兄の涙を見たのは、あれが最初で最後。

 昨日病院の窓から見える水平線に、正に鴇色の陽が呑み込まれようとする寸前、兄が病室を訪ねて来てくれた。
 昨日の朝の内に東京を発ったと言う。
 罹った病が余命三ヶ月の膵臓癌だと分かった翌日から、私は実家を出てホテル暮らしをしていたのだから、もし約束通り兄の到着が今日になっていたとすれば、直接彼に恵美を頼むことなど未来永劫出来なかったのだ。
 そうと考えてみれば恵美と運命の糸で繋がっていたのはやはり、兄の洋樹の方だったのかも知れない。 
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 苦笑を禁じ得ない。
 尤も声を上げて笑ったところで、兄にも恵美にも、ドライバーにさえ届かないのではあるが・・・・・。

 この後兄から私の運命を聴くであろう恵美。
 この先二人がどうなっていくかは神のみぞ知ることだが、兎にも角にもこうして何とか二人を出会わせることに成功した。

 後部座席で心配そうに恵美を見下ろす兄の顔を眺めながら、昨日の彼との遣り取りを思い出す。
 昨日病室で久しぶりに兄の顔を見た際、最後の力を振り絞って無理に笑って見せた。
 自身ベッドから、起き上がることさえ出来なくなっていると言うのに、である。

「もし明日の朝迄生きていられなかったら、俺の代わりに恵美を厳原港迄迎えに行って欲しい」
 俯き加減に滲む瞳をこちらに向ける兄。
「お前の婚約者だろ、お前が自分で迎えに行ったらいい。大丈夫、明日の朝になったら元気になってるさ」
 私は自らを嘲笑する。
「兄さん、馬鹿にしないでくれ。俺だって医者なんだ。
 自分の身体のことくらい、自分で分かるさ・
・・・・」
 沈黙の後、切り出したのは私。
「それより恵美、凄えいい女だよ。会えばきっと兄さんも一目惚れする」
 兄は鼻を摩りながら、苦笑混じりに返した。
「ああ、お前の惚れた女だからな」
「もし、もしもだけど、さ。
 恵美のこと気に入ったら・・・・・あいつのこと頼まれてくれないかな」
 眉根を寄せながら、兄は叱咤してくれた。 
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。まだお前は居なくならない。
そんな弱気なことを言ってどうする」
 そんな兄の言葉を聴いて、ふとさっき沈んだ陽の光を、明日の朝再び見ることが出来ないのでは、と、不吉な思いが脳裏を過ぎる。
 数瞬の後私は兄の目をじっと見詰め、唯ひと言だけ返した。
「ありがとう兄さん」
 唯微笑みだけを返す兄に、どうしても伝えなければならないひと言を告げる。
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「俺、分かるんだけどさ。会えば兄さん、きっと恵美を好きになる。
 それで・・・・・さ、もしあいつのことを好きになったら、そのときは俺の婚約者だからって、あいつを遠ざけないで欲しいんだ。
 それこそ、俺の為を思うなら・・・・・。
 兄さん以外の会ったことも無い男に、自分の死後婚約者を取られる俺の気持ちを哀れと思うなら」

 その後兄は何やかやと言っていた。
 それは私を励ます為の叱咤であり、激励であり、さまざまな形での私への送る言葉であったように思う。
 しかし私は微笑を返すだけで、それ等の言葉には一切取り合わず、昨夜はそのまま眠ってしまった。
 それが永遠に目覚めることのない眠りになるとも、知らずに。

 結局韓国人になれなかった私だが、日本人として永眠することにもそれなりの意味はあったと思う。
 何となれば私が韓国人に成り済ましてまでも、恵美と添い遂げようとしていたことを両親が知れば、仮に兄と恵美が結ばれることになったときは違う答えを出す筈だからだ。

 次男に続き長男迄も同じ目に遭わせるわけにはいかない。
 と、父もそう考える筈。
 少なくとも私と恵美のときよりは、状況は好転するだろう。
 また同様に私の生涯が、次の世代の日本人と韓国人の関係が好転する為の、その一助になれば思い残すことは無いのだが・・・・・。
 叶わぬ夢かも知れないが、命の潰えた今となったは、唯、唯、そのことを祈るばかりである。

 そうして兄が恵美を抱き取っている様子を、助手席から身を捩って覗う。
 刹那ふと捩った身体の反対側、左側から二の腕を掴まれる気配を感じた。
 そちら側のつまりは窓外を振り返れば、大時代な燕尾服姿の男が微笑んでいる。
 と、そう思ったのも束の間、次の瞬間私はその強靭な力に引っ張られるまま窓外へと飛び出していた。

 宙に浮いている身体。
 そして今、私は対馬全体を俯瞰している。
 私の横で微笑む燕尾服の男と共に。
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 再び念を押された。
 やはり生きてはいないと言うことを。
 私も、またこの燕尾服の男も・・・・・。
 そうした私の胸中を読み取ったのか、燕尾服の男がぼそりと口を開いた。

「此処に思いを残すべきではない。
 何故なら貴方はもう既に、総ての抑圧から解き放たれたのだから。
 これから先は、貴方を苦しみ続けて来た反日や嫌韓の怨嗟の声も、民族の違いから生じる齟齬も、仲違いも、無論戦争も存在しない、真に平和で平等な世界が、未来永劫に亘って開けているのです」

 微笑む燕尾服の男の顔には見覚えがあった。
 そう、あの男である。
 
「ひょっとして貴方は・・・・・宗伯爵?」

 上目遣いに凝視する私に、男はひとつ肯いた。

「仰る通り私は宗武志です。
 ですがこちらの世界では皇族や華族は無論のこと、人と人を隔てる総ての身分の違いが存在しません。
 ですから私のことを伯爵などと呼ばないで戴きたい。
 私が伯爵だったのは、現世での遠い昔の話です」

 そう武志が言い終えるや、彼の隣にまるでこの世の者ではないほどに美しい女が、忽然と現れる。
 それもその筈である。
 彼女も既に、この世の者ではない。
 袖口や襟元に毛皮をあしらったコートを身に纏った女は、そう、徳恵だった。

 私は呆けたような声音で徳恵に訊く。

「貴女は、徳恵翁主?」
 
 微笑み小さく肯く徳恵。

「はい。ですが先程武志さんが申し上げた通り、私のことも翁主などと呼ばないで下さい。
 直に貴方もお分かりになると思いますが、こちらでは身分を表す言葉で呼ばれても誰も喜び
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はしません。
 それがどんなに高い身分を表す呼称であっても。
 何故ならこちらでは、総ての人が等しく尊いのです。
 それに今の私を見てお分かりかと思いますが、こちらには病気も障害も存在しません。
 もし生きているときに貴方に出会っていたら、それこそ貴方に治療して戴きたかったのですが」

 絶やさぬ微笑で応じる徳恵はなる程、至極健康的で美しい。
 それにしてもこちらでは、年を取ることさえないのだろうか。
 見たところ武志も徳恵も、過去に新聞等に掲載された結婚間も無い頃の写真のままだ。
 そうした私の胸中を、宛ら読み取ったかのように徳恵が切り出す。

「こちらではそうでありたいと思う年齢で居れるのですよ、何百年何千年経とうと、永遠に。
 勿論、服装や髪型もそうでありたいと思うままに。
 それからこちらでは声や言葉も、貴方の一番そうであって欲しいと思う形で感じることが出来ます。
 尤も言葉と言うよりも、相手の心を受け手の心で感じると言った方が適当なのかもしれません。
 私の声も貴方が高いと思えば、そのように。
 また私の言葉も貴方が日本語だと感じれば、そのように。
 今し方の貴方の、こちらでは年を取らないのだろうかと言う疑問も、私の心がそうと悟ったからこうして今お答えをしているのです。
 また宗教の違いも、民族の違いも、こちらに来ればそんな些末な差異は話題にも上りません。
 そして勿論のこと生も死も、こちらでは何の意味も為しません」
 
 徳恵はそうと言い終えるや、そっと片手を翳した。
 するとそちらから、もう一人見知らぬ女が姿を現す。
 女は日本人らしく、桜の花も鮮やかな柄の着物を着ていた。
 年の頃なら二十代の前半と言うところか。

「まだ貴方が現世にいらっしゃったときに、私のことも気にかけて下さっていたようですので、父や母と一緒にお迎えに参りました」

 そう私に返した後、徳恵と見詰め合い微笑むこの女は武志や徳恵のことを父母と言った。
 と、言うことは・・・・・。
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 私が胸中に自問した刹那、またも即応する徳恵。

「お察しの通り、娘の正恵です
 と、言っても親子なのに今は、二人同じような年恰好ですけど」

 徳恵の言葉に、顔を見合わせ微笑み合う正恵。
 そして彼女達二人の間から、何時の間にやら武志が顔を覗かせていた。
 微笑み諭すように私に告げる。

「これから先どうなろうと、現世のことは貴方の兄上様と婚約者の恵美さんのお二人に任せるしかありません。
 書きかけた論文のことも。
 二人のこれからの将来も、そして延いては今後の日韓関係のことも、彼等を始めとした次の世代の人達に。
 貴方はこれから反日も、嫌韓も、そして戦争もない場所へ行きますが、現世ではそうは行かないでしょう。
 そしてこちらに来た以上、貴方には彼等を見守ること以外何も出来ない。
 彼等がこちらに来るときを、ただ只管(ひたすら)待つことしか。
 しかし現世に居る日韓両国の次の世代の人達も、何時かはきっと自らの愚かさに気付く筈。
 何故なら貴方の兄上様や、恵美さんが居るからです。
 きっと二人は日韓両国で止まない反日や、嫌韓の、憎しみの連鎖、或いは人が人を差別したり蔑んだりする行為の愚かさを、次の世代の人達に伝えていってくれるでしょう。
 と、言っても、二人が生きている間にそれを、伝え切ることは出来ないでしょうが・・・
・・。
 それでも貴方は、こちらで待てば良いのです。
 二人がこちらに来るときを。
 そして何れ、日韓両国が和解するときを。
 今まで貴方は両国を引き裂いて来た愚かなナショナリズムに、苦しみ抜いて来られた。
 だからこそこれからは、こちらで幸せに暮らせば良いのです。
 開かれた世界に向かって、チャ、ハムッケ カジャ(さあ、一緒に行こう)」
 
 ネイティブな韓国語で私を誘う武志に導かれるまま、私は上へ、上へ、と、昇って行った。
 否、昇って逝くと言うべきか。
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 何れにせよ私は今、反日も、嫌国も存在しない世界へ行こうとししている。
 夢のようなことだ。
 それも武志と徳恵、それに正恵まで一緒に。

 さんざめく光の中へと、溶け込んでいく。

 嗚呼、今は対馬も、そして日本も、韓国も、米粒くらいに小さく見える。
 それに此処から見れば、それ等総ての場所が等しく同じくらいの大きさにしか見えない。
 そうしてそれぞれがそれぞれを求め合うように、三つの場所が徐々に徐々にと、ひとつの点へと重なり合っていった。

          ‐85‐  
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