第1話

文字数 1,918文字

 付箋が大量に貼りつけられた書類が、どすんと重厚なデスクに叩きつけられた。年若い検察官が不動の姿勢をとり、高らかに宣言する。
「被告人日下部真琴は大阪民国の住民であるにもかかわらず、被害者のボケを公然の場で見過ごすという許されざる違反を犯しました。早速証拠調べに入りたいと思いますが?」
 裁判官は重々しく宣言した。「検察側は証拠を提出してください」
 法廷の歴史あるデスクに甲1号証(スマートフォン)がうやうやしく置かれた。「被害者はたまたま犯行当時のようすを録音しておりました。お聞きください」
「なあ、ホンマに最近暑なってかなわんなあ」
「せやな。地球温暖化ちゅうわけやろなあ」
「しまいには裸ですごさなあかんでこれは」
 裁判官は片眉を上げた。「検察官、説明してください」
「被害者はこの直後に背負っていたザックから上着を取り出し、それを羽織ったのであります。明らかに直前の言動と矛盾しており、被告人からのツッコミを惹起せしめるに十分だったと思料します」
 法廷は静まり返った。傍聴席のそこかしこから控えめなささやきが起こる。みんなこのシチュエーションでツッコまなかった事実が信じられないのだ。
「以上の証拠から検察側は大阪国民としての義務を放棄した被告人の怠惰を立証し、ここに――」
「異議あり!」弁護側はようやく反撃に転じる決心をした。「その証拠だけでは依頼人の怠惰を証明できるとは思えません」
 弁護士は老境に達した感のある小柄な男である。残っている髪は真っ白、腹の出たぶざまな体型。ところがその目は若いころの情熱をいささかも失っていないことを証明するかのように、らんらんと輝いている。
「依頼人が当該ボケを意図的に見過ごし、それによって大阪人の魂を取り戻そうとしたのがわからないほど、検察諸君のセンスは鈍ってしまったのでしょうか?」
 憤然と若き検察官が立ち上がった。「異議あり! 弁護側は検察官の名誉を傷つけています」
「検察側の主張を認めます。弁護人は言葉を慎むように」
「失礼しました」老人のにやにや笑いは失礼があったなんて思っていないぞと言わんばかりだ。「弁護側の主張は次の一点に尽きます。すなわちいわゆるツッコミというものについては、みだりに乱発するとかえって場を白けさせるおそれのある非常にデリケートな技術であり、依頼人はそうした事情を十分に心得ていた、という次第であります」
 裁判官は難色を示した。「弁護側は要点を明確にしてください」
「要するに」老人は高らかに宣言した。「被害者の発したボケはツッコミを入れる価値のない、低級なしろものだったということです」
 死のような静寂が降りた。一転、傍聴席は伊勢湾台風が上陸したかのような大騒ぎを始めた。裁判官の静粛を求める声もむなしく、ほうぼうで口角泡を飛ばす激論が戦わされる。
 いやしくも大阪国民であるならば、どのようなボケであってもツッコむのが筋ではないのか? 確かにボケには〈よいボケ〉と〈悪いボケ〉がある。本事例のそれは必ずしも前者であるとは言いがたいかもしれないが、たとえそうであってもツッコミは最大限努力する。それが大阪魂ではないのか?
「静粛に! 傍聴席に静粛を求めます。これ以上の擾乱行為は法廷侮辱と判断し、退廷を命じます」
 傍聴席はしぶしぶ指示にしたがった。
「弁護人はいまの発言に対する根拠を提示してください」裁判官の目は鋭い。彼もボケを放っておいてよいなどという意見に与するつもりはないようだ。
「それは依頼人自身に説明してもらいましょう」優雅な動作で日下部氏を指し示す。「日下部くん、壇上へ」
 日下部氏はせき払いをして、薄く目を閉じた。「わてら大阪人は独特の文化を形成してきてん。お笑い発祥の地いう矜持を持ってんねん。いやしくも大阪人やったらそんなん当たり前や言わはると思うねんけど。わてかて例外やないし」
 傍聴席からはしわぶきひとつ聞こえない。いまや誰もが耳をそばだてている。
「おもんないボケをわざとほっぽらかして、撲滅するいう意志を貫徹するのがいかんのか。ボケられたらなんでもええからツッコむ。そんなん機械にだってできるで」壇上に両手を突いた。「ホンマもんのお笑い精神を育ててくつもりやったら、わてらはボケの優遇をやめんといかんのとちがうか。ツッコむ価値もないボケは無視したらええやん。ボケはぜんぜん偉ないよ。ツッコミと対等や。どっちもごっつ難しい。せやろ?」
 老人が自信満々に引き継いだ。「以上のことから大阪民国法令(特例)第8条3項違反には該当せず、依頼人は無罪であると主張します」
 割れんばかりの拍手が巻き起こり、裁判官は静けさを取り戻すのを諦めた。
 いっぽう、検察官は有罪判決を諦めた。
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