金剛石の花嫁 ③

文字数 2,571文字

 三ヶ月ほどが過ぎた。この頃になるとハロムに指先の痺れが出るようになったので、自室で療養することが多かった。既にジェロームに領地経営のノウハウをほとんど渡していたため、実質、彼が領地を取り仕切るようになっていた。義母マリアもハロムの容態を見るために、家の中の仕事はセシリアが継ぐ形になっていた。自分の両親の具合が悪いにもかかわらず、セシリアは気丈にもしっかりと館の中のことをこなしてジェロームを支えていた。
 そんなセシリアがときおり、ジェロームを誘うことがあった。彼女は花々の咲く庭を愛しており、彼女のためにいつも庭は綺麗に整備されていた。ジェロームはあまり作られた自然に興味は無かったが、セシリアが誘うので庭に出ることもあった。彼女は庭のことになると饒舌になり、楽しげに語るのだった。
「春になれば色とりどりの花が咲くようにしてあります。時期によって植え替えを行うように言ってありますから、まったく違う顔を見るのですよ」
 庭には彼女のための隠れたガゼボまであった。そこでこっそりと菓子を食べることが好きだったらしい。
 そういえば、セシリアを襲ったのも庭師と言っていたな、とジェロームは思い出した。彼女の愛する庭でそんなことがあったにも関わらず、いまもなお庭を愛している彼女がとても愛しいと感じた。もし似たようなことがあれば今度は自分がとっちめてやるつもりで、新しい庭師たちにはきつく言いつけた。そんなことがあれば鞭打ち以上の恐ろしい目にあうのだと。庭師たちは震え上がったが、彼らは彼らで日々の仕事に忙しく、恐ろしい夫のいる妻に手を出そうという不届き者は見当たらなかった。

 そんなある日のこと、セシリアがジェロームに渡したいものがあると言った。
「これを。開けてみてくださる?」
 渡された箱は、何の変哲もない木の箱だった。
 ずいぶんと飾り気のない箱だったが、中を開けると銀色のロケットが入っていた。中央には少し青みを帯びたダイヤモンドがはめ込まれていた。それだけでも良いものだとわかった。
「ほお!」
 取り出して、ロケットの中を開いて確かめる。内部にはリエーヴルの紋章が描かれており、これから写真を入れられるようになっていた。
「いったいどうしたんだ?」
「華族には内緒で作らせたんですの。私のようなもののところへ来てくださったあなたに、何か贈り物をしたくて」
 ジェロームはセシリアの心遣いに胸打たれた。
「いつも付けていてもらいたくて。このような形にしたのです。いかがでしょう?」
「これはいい。早速使わせてもらおう」
 さっそく鎖を手にして、首にかける。
「どうだい?」
「ええ。よく似合っておりますわ」
 セシリアの笑顔はとても晴れやかだった。

 それからしばらく、ジェロームは万事快調だった。セシリアとの関係もうまくいっていたし、領地の経営もなんとか身についてきた。唯一の気がかりはハロムの事だけだった。ハロムは小康状態が続いていた。痺れはいつまで経ってもとれず、ときには杖を使って移動しなくてはならなくなっていた。そのためほとんど自室に籠もりきりになり、義母もそれにつきっきりになった。
「もう長くないかもしれないな」
 ジェロームはハロムを哀れんだ。
 いくらサンドルク領を引き込めるかもしれないと思っても、これほど早くなるとは思わなかった。セシリアのことが片付いて気が抜けてしまったのかもしれないと、ジェロームはまだ楽観視していたが、それでも限度というものがある。村医者を呼んでも改善しないとなれば、もっと良い、都の医者を呼んだ方がいいかもしれない。
 それにジェロームも最近、疲労が取れないときがあった。自分では健康そのものだと思っていたが、慣れない領地経営の疲れがやってきたのかもしれない。とはいえ症状はそこまでではない。少し疲労が取れない時があるくらいのものだ。よく眠っているのに、眠れなかった時のような疲労感に似ていた。
「お疲れになっているのですわ」
 セシリアは労るように言った。
「お父様があのようなことになって、ここのところずいぶんと働いておいででしたもの」
「それはそうだが」
「お父様によく効く薬が無いか、私のほうでも街に手紙を送っておきますわ」
「街に伝手があるのかい?」
「ええ。一応は。ですから、あなた様はあなた様のなすべきことへと目を向けて、じゅうぶんに体をお休めになってくださいな」
 そう言う彼女の目には、なにも疑わしいことなどなかった。一点の曇りもなく、夫を心配する妻そのものだった。不貞も背信もその目に宿るものはひとつとして無い。しかしその目はジェロームを見ながら、もっと違う、遠いところを見ているような奇妙さがあった。だがその言葉に誘われるように、ジェロームは眠りに落ちていった。

 その晩、ジェロームは奇妙な夢を見た。
 夢のなかで、ジェロームはセシリアと庭にいた。
 ここは夢だと、どういうわけか思った。現実感の薄い感覚で、景色はどうにもぼんやりとしていたが、花が咲き乱れ、いまの庭とはずいぶん違う気がした。
 ジェロームは脚立の上か、小屋の屋根くらいの高さの場所に居た。どこにいるのかはわからなかったが、下からセシリアが呼んでいるのがわかった。セシリアは優しい声で彼に呼びかける。彼は拒否することなく、自然とそこから降りていく。汚れた手を服にこすりつけて遠慮したが、セシリアは構わずに彼の手を引いていった。見覚えのある道は、秘密のガゼボへと続いていた。セシリアが気に入っている小さなガゼボだった。彼女はポケットの中に隠し持ってきたクッキーを取り出し、ガゼボの真ん中にあるテーブルに乗せる。
 彼女はクッキーを一枚手にした。少女のように笑い、ジェロームに差し出す。普段の彼女に比べ、あまりに子供っぽい仕草のような気がしたが、ジェロームはさして気にしなかった。それを拒否することなんてあり得なかった。そうしてほんの少しの甘さを噛みしめるように、クッキーを彼女の手から食べた。ぱきりと音がする。彼女は手に残った半分を、迷うことなく自分の口に運んだ。二人で見つめ合い、笑う。ささやかな幸せがそこにあった。
 彼女の顔をよく見ようとする。だが、何かに邪魔されるようにぼんやりとしていた。
「――」
 セシリアは甘い声で、ジェロームを呼んだ。
 そんな気がした。
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