03

文字数 9,961文字

 どれくらい時間がたったのだろうか。辺りは徐々に明るくなり始めていた。時折聞こえる雷鳴を背に、広大な森林をひたすらに走り続けていた。オルグレンは満身創痍で、到底魔術を使用できる状態ではなさそうだった。顔色は真っ青で、目も虚ろだ。容体は明らかに悪化しているように感じた。
「大丈夫?」
「うん。何とかね・・・・」
 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。そんな辛そうな様子に責任を覚え、私はぐっと唇を噛みしめた。それにしても、こちらの進行速度はオルグレンの現在の状態もあって、それほど速くはないはずなのだが、全く追いつかれる気配がない。わざと一定の距離を保っているような。不安は時間を重ねるごとに募っていった。そして、ちらりと背後を振り返る。
「君も、気付いたかい?」
「え? うん。何となく」
「雷帝は、明らかに何かを企んでいるね。あの動き、多分僕たちの正確な位置は把握していて、なお追いつかないように調整している。まるで、狩りを楽しんでいるかのようだね。それに、僕の体調が一向に回復しないことも気になる。最初は、拘束魔術の影響かと思ったけど、明らかに別のっごほ!」
 突然、激しく咳き込むオルグレン。そのままバランスを崩して膝をつく。私はすかさず支えようと手を伸ばした。が、地面に散らばる赤い液体を見て、体が硬直した。
「本当に大丈夫なの!?」
 それは、口元を抑える彼の手の指の隙間からぽたぽたと零れ落ちていた。続けざまに咳をして、同じように飛び散る赤。間違いなく、血だった。オルグレンが、苦しそうにひゅーひゅーと息を漏らす。どう考えても異常だった。それでも、立ち上がろうとする彼を見て、私は必死に制止した。
「駄目だよ。無理しないで。吐血してるじゃない」
「大、丈夫だから。君を、ごほっ、導か、ないと」
「良いから! 一回休憩しよう。死んじゃうよ」
 強引にオルグレンをその場に座らせ、様子を看る。今にも気を失ってしまいそうな程に衰弱していた。素人目からしても、深刻な状態であることは間違いなかった。
「どうして。こんなことに・・・・」
 焦燥感に駆られるが、何をすれば良いのか見当もつかない。そんな役立たずの自分が情けなかった。たかが私なんかの為に、ランドルフが倒れ、オルグレンも今・・・・
 私が、『創造の魔女』に差し伸べられた手を取らなかったから? それだけのせいなの?
 明確な理由も分からず、大切な人々が傷ついていく。 ――――私のせいで。
「もう、嫌だ・・・・」
 自然と涙が溢れてくるのを感じた。夢ならば、早く覚めてくれと心の底から願った。懇願した。しかし、災厄はすぐそこまで迫ってきていた。

がさがさと、草木を掻き分け高速で何かが接近する音。私は、すぐさまその方角に体の正面を向けた。数秒の後、姿を現したのは一匹の狐、の姿をした何かだった。
「何、なの? こいつ」
 見た目は、唯の狐ではあるのだが、明らかに何かが違う。魔力のノイズが、ひどいのだ。この狐の周囲からというよりは、むしろその内部に、何重にも重なり絡み合って魔力が渦巻いている。まるで、その体内でハリケーンが発生しているような、そんな禍々しい音だった。そして、狐は何の前触れもなく、ぱかぁっと口を開いた。
「あはぁ。やっとで効いてきたみたいだねぇ。かなり薄めに吸わせたから、もう少し時間がかかるかと思ったけど、あの椅子のおかげかなぁ」
 発せられたのは、あの少女の声だった。ぞわっと体中に鳥肌が立つ。
「もう、逃げないのー? 狩猟ごっこは御終いかなぁ。じゃあ、飽きてきたし、終わりにしようか? 弾けて侵せ。『レッドスパイダーリリー』」
「っ!」
 呪文を唱えるや否や、ぶくぶくと狐が泡立ち原型が崩れていく。そして、額だった箇所に亀裂が走ったかと思うと、ぶわっと勢いよく黄色い煙が吹き出した。すかさず身を引くが煙の侵攻の方が若干早い。煙の正体は分からないが、有害じゃない訳がない。慌てて口を抑える私に、死角から何かが覆いかぶさった。瞬間、反射的に押しのけようとするが、直ぐにそれがオルグレンだと理解した。口元から血を滴らせ、かすれた声で叫ぶ。
「彼女を、導け! 『クリナム』!」
 ばあっと、白い布上の魔力が私たちを包み込み、数メートル先の茂みへと転移させた。体力を使い切ったのか、そのままこちらに倒れこむオルグレン。私は、踏ん張ってその体を支えると、ゆっくりと横に寝かせた。
「大丈夫!? あんな状態で魔術を・・・・」
 返事は返ってこなかった。目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。呼吸音はまだかすかに聞こえるが、かなり危険な状態なのだろう。額に手を当てると、その体温の高さに驚いた。かなりの高熱も出ているようだった。
続けて、自分達の置かれている状況を把握するため、転移元に視線をやる。煙は三メートル程度先で途切れており、どうやらここまでは届かないようであったが、私の視界には、もっともっと凶悪な存在が写っていた。息を呑み、それを睨みつける。
「やっほぉ。しぶといねぇ」
 首を若干斜めに倒して、こちらに手を振り、無邪気に笑う少女。その素振りに怒りがこみ上げ、ぎりりと歯ぎしりをした。
「あっはぁ。何? 怒ってんのぉ? 恐いなぁもう」
 笑みを崩さずに、ばればれの嘘を吐く。
「でも、驚いたでしょ? 皆最初は驚くんだよねぇ。ほら、私って勝手に『雷帝』って呼ばれてるからさぁ、皆私の魔術の本質を雷か何かだと勘違いするんだぁ・・・・」
 そう言って、顔の横で右手の人差し指を天に向ける。ばちばちっとその周りを、小さく電気が走ったかと思うと、直径十センチ程度の丸い球が形成される。
「でも、違うんだよねぇ。私の魔術ってちょっと特殊でさぁ」
 少女が円を描くように、指先を一周させる。すると、電気の球は瞬く間に、もわもわとした黄色い煙の塊となった。続けて、人差し指を折りたたみ思いっきり手を開く。ごおぉっという爆音と熱風をあげ、巨大な火柱が出現したかと思うと、少女が手を閉じるのと同時に姿を消した。
「私の魔術の本質は、『雷』じゃなくて『数』なんだよねぇ。でも、それを知っているのはごく僅か。寂しいよね。仕方ないんだぁ。だって、私の魔術を見た人ってほとんど死んじゃうからねぇ」
 引き裂けんばかりに口の端を吊り上げて、楽しそうに笑う。滲み出る狂気に、足が竦んだ。怒りと恐怖が私の中で葛藤し、強烈な吐き気が込み上げてくる。彼女に立ち向かったとして、万が一にも勝てるイメージが沸かない。格とかの問題ではなく、住む世界が違うのだ。本能がそう告げていた。それでも、家族は、ランドルフとオルグレンの二人だけは、この身がどうなっても助けたい。そう思った。
「貴方の望みは何?」
 震える唇で言葉を紡ぐ。
「んんー? 私の望み? そうだねぇ・・・・あの方の、一番になることかなぁ」
 少女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、もじもじと体を揺らした。
「あの方って、『創造の魔女』?」
「『創造の魔女』様ね! 『さ・ま』をつけなさい」
「う、ごめんなさい・・・・で、でも、それならどうして私を?」
「決まっているでしょ」
 しんっと辺りが静まり返った。少女の顔から笑みが消える。威圧感に負けて、思わず息が止まった。
「私が、あの方の御目に留まるために、どれだけ努力したと思っているの? 産まれつき恵まれた魔術適正を持ちながら、毎日、死の直前まで体を酷使して力を磨いた。気付いた時には、最年少で、中央都市最高位の魔術師である『元帥』の称号を得た。それでも、あの方の御目に留まることはできなかった。それから私は、あの方の邪魔になりそうな存在を片端から殺して回った。子供も年寄りも関係ない。有名な魔術師も私の前では赤子同然だった。戦争では何万人の魔術師を手にかけた。それでも、私の名は『パトリス・ガネル』。貴方にこの意味が分かる! どれだけ尽くしても、あの方は私を弟子にしてくださろうとはしなかった。だから、私はまだ『名無し』なの! 絶望したわ。思いつく限りの忠義を尽くした。もう、これ以上何をすればいいの! 何を捧げればいいの! あの日から、私の居場所はあの方の御傍にしかないというのに・・・・でも、そんなときに貴方が現れた。遠くから貴方を見つめる、あの方の横顔を今でも鮮明に思い出せるわ。許せなかった。何の取り得もない、亜人風情の貴方が、あろうことかあの方の弟子になろうとしている。死に直面するほどの努力も、忠義も、感謝も、崇拝も、献身も、何も捧げていないお前が、あの方の御目に留まったことがぁ!」
 怒りを露わにしたパトリスが、ばっと右腕を私に向ける。両目は血走り、強く噛みしめ過ぎたのか、唇から鮮血が噴き出していた。明確な殺意。恐らく私はもう、助からないのだろう。
「分かった。もう、抵抗しない。でも、最後に私の話を聞いて。ランドルフは、無事なの?」
 それなら、私に出来ることはこれしかない。死の恐怖に震える体に鞭を入れる。パトリスは答えない。聞こえているのかも定かではないが、続けた。
「お願いがあるの。私は死を受け入れる。だけど、ランドルフとオルグレンは殺さないで」
 目を逸らしたい衝動を抑え、パトリスの瞳を見つめる。パトリスの表情から怒気が消えていくのを感じた。そして、はぁっとため息を吐き、首を振った。
「なになにー? 命乞いじゃなくて、お友達の心配? ほんっとうに、しょうもない奴。はいはい。そんなことね」
「じゃ、じゃあ」
「良いよ。約束してあげるー」
 にやりと笑う。素直に快諾したようだった。
 だが、その時私は次にくるのであろう言葉が容易に推測できた。魔力の流れる音が聞こえる。私を殺すためのものなのだろう。でも、そんなことはこの際、どうでも良かった。恐怖はもうない。その代わりに、抑えようのない墳度が私の心を支配する。そうか。この少女は、最初から、私だけじゃない。私に関わる全てを憎んでいたのか。今までに何回も聞いたこの音。世界で最も醜悪な音。――――間違いなくパトリスは、嘘を吐いている。

「なーんちゃって」
想定した通りの言葉を紡ぎ、けたけたと笑う。
「パトリスーーーー!!」
 全身の血液が煮えたぎるような感覚を覚え、無意識に突進していた。間に合わないのは百も承知だ。この行動に意味がないことも知っている。しかし、駆け出さずにはいられなかった。自分に何ができる訳でもないが、もし、奇跡が起きるのであれば、最後に一発だけでも拳を叩き込みたい。それだけだった。
「あはー。さいっこう! じゃあね。うさぎちゃん。死んじゃえ。『レッドスパイダー』っ」

「はいはい、そこまで。子供の喧嘩は他所でしな」
 ぼふんと何か硬いものにぶつかり、反動で吹き飛んだ私はそのまま尻餅をついた。訳も分からず、顔をあげると、見たこともない真っ白なローブに身を包んだ長身の誰かの背中が見えた。よく見ると、淡い黄色の縦線が一本、背中の中心に描かれている。
「何かっこつけているの? さっきまで、間に合わないかもって必死に走っていた癖に」
 怒りに我を忘れていて気が付かなかったのか、背後からも別の声がして、振り返る。
 同じような純白のローブに身を包んだ女性であった。左の肩口の部分から黄色い縦線が一直線に引かれている。
「おい。それは言うなよ。恥ずかしいだろうが」
 ちらりと後ろを振り返る白装束。二人ともフードを深く被り、不気味な笑顔が描かれた独特の仮面を装着していた。そのため、表情等を伺うことは叶わなかったが、この雰囲気は敵ではないと考えても良いのだろうか。私は、そろりと中腰の姿勢をとり、いつでも跳躍できるように準備だけしておいた。
「あぁーーーーーーーーあ!! なんっで、このタイミングで邪魔が入るのかなぁ?」
 パトリスは、かなりご立腹の様であった。両手で頭を抱え、ぶんぶんと振り回している。おまけに地団駄も踏んで、溢れる怒りを体現していた。
「おぉ。元気だなぁ。俺と踊るかい? お嬢さん」
「あぁ? 何? 誰に向かってそんな口をきいているのかなー? 死にたいの? まぁ、もう手遅れだけど」
「とんだじゃじゃ馬だ。でも、そういう気が強いのもお姉さん嫌いじゃないぜ」
「あぁ決めた! もう決めた! 殺す! みんな纏めてぶち殺す! お前たちが、誰だって構わない。もう聞くのもめんどくさい。安心して。一瞬だから。でも、多分なーんにも残らないよ。皮も肉も骨も血も、全部一瞬で蒸発するから」
 どわっと周囲の空気が重くなるのを感じた。圧倒的なプレッシャー。パトリスのけたたましい笑い声がこだまし、信じられない程の重量の魔力が集まってくる。数分前に聞いた狐の内部のノイズが可愛く思えてしまう程の轟音。これほどの魔力の塊。すぐに頭に浮かんできたイメージは、御伽噺に出てくる大妖精や、はたまた神。無意識に腰が抜け、再び尻餅をつく。がたがたと振動する腕を力の限り動かし、一心不乱に両耳を覆った。これ以上、この音を聞いたら、頭がどうにかなってしまいそうだったからだ。自然と涎が口から零れ落ちる。鼻水や涙も止まらなかった。体中の穴という穴から体液が噴き出してしまうのではないかという程の不快感。それでも、懸命に視線だけはパトリスから離さなかった。
 そして、突如として、ぴたりと音がしなくなった。魔力の流れが止まったのか、恐る恐る耳から手を放す。気味の悪い静寂がねっとりと漂っていた。パトリスの笑い声も止まり、じろりとローブの女性を睨んでいた。そこから、ゆらりと一瞬体を揺らしたかと思うと「魔装『レッドスパイダーリリー』」と小声で呟いた。
 その瞬間、先ほどの異常な量の魔力が形を成し、パトリスを包み込んでいった。私は、驚愕のあまり、ただ茫然とその姿を眺めることしかできなかった。
知識としては、その存在を知っていた。だが、実際に目にしたのは初めてだったのだ。魔術適正第伍級に達した最高峰の魔術師のみが持つ、魔術の頂。神を超える力を纏う強化魔術の完成形態。
『魔装』
 文字通り、高濃度の魔力を鎧に変換し、自身に装着するという荒業である。その鎧はあらゆる物理攻撃を弾き、魔術に対しても非常に高い耐性を持つという。学校の授業では、この魔術を使用できる者は世界で十人にも満たないと教わった。その内の一人が、目の前にいるのだ。しかも、私を殺そうとしている。
 漆黒の鎧。狐の顔を模った肩当て。その瞳の部分からは黄色い炎が灯っている。両腕からは、ドラゴンを連想させるような太くて鋭利な爪、頭部は蜘蛛だろうか。不気味な深紅の複眼がこちらを覗いていた。そして、背中から生えた八本の手足。これも蜘蛛を連想させるような形状をしており、先端からは、先ほど見たものよりも遥かに濃い黄色の煙がもくもくと噴出していた。
「あっはぁ。久しぶりに使っちゃった。これ使うと、噴き出す毒で皆死んじゃうから、禁止されてるんだよねぇ。でも、今日は気分が最高に悪いから、お前たちは毒じゃなくてこっちで消し飛ばしてあげるね」
 がちゃんがちゃんという鈍い金属音を響かせながら、右の拳を私たちに見せつけるように持ち上げる。バリバリと、その拳が電気を纏う。
「この腕に少しでも触れたら体中の血液が沸騰して、内部から破裂しちゃうんだ。でも、同時に焼け落ちて灰になっちゃうから、ゴミも出ないの。あっは。最高だよねぇ」
 そう言って、デモンストレーションのつもりか、ふっと、その拳をすぐ隣の巨木へとぶつける。ぱぁんと短い破裂音を響かせ、当たった箇所が弾け飛んだかと思うと、一瞬にして木全体が真っ黒な炭へと姿を変え、跡形もなく消滅した。パトリスは得意げに「うふふ。ほらね?」と笑う。
「はは。これは、さすがにいかれてやがるなぁ。萎えちまったよ」
「軽口叩いてないで。相手は魔装持ちよ。戦略は考えているの?」
「決まってんだろ。いつものやつだ」
「はいはい。またそれね。一応言っておくけど、二発目は無いからね」
「おう。この一発で十分だ。頼んだぜ。ネル」
 あれ程の力を見せつけられても全く臆した様子もなく、拳を突き出す長身の白装束。どう考えても、パトリスの凶爪には敵いそうもないのだが、その声色からは溢れんばかりの自信が漲っていた。
「は? 何言っちゃってるのかなぁ? 頭悪すぎ。この鎧知らないの? 本物の魔装だよ? ってわざわざ説明してあげる義理も無いか。自分の体で味わうといいよ。じゃあ、死んじゃえ」
 ずっと腰を鎮めるパトリス。それに合わせて、白装束も姿勢を低くする。そして、ちらりとこちらを振り向く。
「安心しな。俺たちの方が強いから」
 対峙した二人は、ほぼ同時に踏み出した。その間合いはあっという間に縮まり、双方に拳を振りかぶる。パトリスの鎧から溢れだす強大な魔力に周囲の木々が圧倒され、べきべきと音を立てて折れ曲がる。狂風が縦横無尽に吹き荒れ、沢山の木の葉が舞った。
「・・・・っ」
 私は、声も出すことができず、ただただ見つめていた。数秒後に訪れるであろう、凄惨な未来。高らかに勝ち名乗りをあげるパトリス。想像に容易いイメージが頭を駆け抜けるが、なぜか私の心には不安や恐怖といった感情は一欠けらも存在していなかった。むしろ、不思議で仕方がないのだが、安堵してしまっている自分がいた。
「あは! 本当に突っ込んできた! バーカ! そして、バイバーイ」
 打ち出される二つの拳。片方は神話に匹敵する程の一撃。対するは、魔力で多少は強化しているのだろうが、人の域を出ない貧弱な一撃だ。天地がひっくり返ったとしても、勝機は存在しない。
 そして、先端が触れ合うその刹那。
「打ち消せ。『ダンデライオン』」
 背後から吹き抜ける、そよ風を連想させるような綺麗な声。と同時に、目の前で巻き起こった現象に目を見開いた。
「・・・・綿、毛?」
 パトリスの爪の先端を起点として、ぱあっと風に撫でられるかの如く、漆黒の魔装が剥がれ飛んでいったのだ。主の体から乖離した鎧は真っ白に変色し、後方遥か上空へと舞い上がった。それはまるで、たんぽぽの綿毛。大量に出現したそれらは、太陽が昇り始めた薄紫色の空を絶妙なコントラストで美しく彩った。時間にして一秒にも満たない短い合間に、死を纏った黒は一片も残さずに白へと塗り替えられた。
「は?」
 驚愕のあまり何とも形容しがたい表情を浮かべるパトリス。
「お休み。お嬢さん」
 ごきごきごきっ
 白装束の女性の打ち出した拳は、パトリスの細い腕をいとも簡単に粉砕する。ぐちゃぐちゃに潰された右腕を呆けたように眺めるパトリス。そんな彼女の顔面に速度を緩めることもなくめり込む拳。痛みが追い付く暇もない程に一瞬の出来事であった。叫び声をあげることもなく数メートル後方へと吹き飛び、何本かの木々をなぎ倒した後に地面に落下する。一度びくんっと大きく痙攣したかと思うと、そのまま動かなくなってしまった。
 私は、あんぐりとみっともなく大口を開け、へたり込んでいた。何度も何度もせわしなく瞬きをする。ついでにごしごしと両目を擦り、二、三発強めにほっぺたへグーパンチをかました。
 勝ったのだ。あの化物に。この得体の知れない純白の魔術師は、たった一言の呪文と、たった一つの拳で。奇跡としか思えなかった。
「ちょっと、タイミング遅すぎじゃないか? さすがに肝が冷えたぞ」
「そうかしら? ベストタイミングだったと思うけど?」
 感動する私とは対照的に、何事も無かったかのように二人は笑っていた。
「どれどれー?」と、長身の女性が私の前まで歩いてきた。ゆったりとその場でしゃがみ、興味津々と言った様子で顔を覗いてくる。その後ろに、もう一人の女性も移動してきた。
「へぇ。これが、あの『炎王』が手放さなかった餓鬼か」
「もう! 女の子に向かって、その言い方は酷いんじゃない?」
「はは。悪い悪い。まぁ、卒業式って聞いてたから、近くまで来てて良かったよ。文が届いたもんで駆けつけてみたら、まさか雷帝に殺されかけてるなんてな。お前、本当に運がいいよ」
「少なくとも、ホームからだったら間に合わなかったものね。私たちのところに来る前に、死んでしまうところだったわ」
「それにしても、あの頑固爺がこの子を俺たちに譲る日が来るとはな。半分諦めていたけど、わざわざ中央都市まで足を運んで正解だったな。ネル」
「そうね。またホームが騒がしくなるわね。他の子たちにも紹介しなくちゃ」
「ふむふむ。よく見ると、なかなか可愛い顔してるじゃねえか」
「はぁ、良かったわね。貴方の好きそうなロリっ子で」
「あん? ロリっ子? 俺は、小柄で可愛らしい女が好みなだけだ。ロリコンじゃねぇって何回言えば分かるんだよ?」
「はいはい。私にはそういう趣向がないから理解はできないけど、これから気を付けてね。えーと、貴方、お名前は?」
「えっと・・・・ルナ。ルナ・エイデン、です・・・・」
 私は、流されるままに自己紹介をした。あまりの急展開に思考がぐるぐると混乱するが、ちょっと待って。この人たち、さっきから何を言っているの?
炎王? 文? ホーム?
情報が錯綜し、完全に置いてきぼりを食らっている気がする。でも、何よりもまず、引っ掛かった言葉があった。
「ルナちゃんね。これから、長い期間を私たちと過ごすことになるけど、お互い気楽にいきましょう。共同生活をする上で、分からないことや困ったことがあったら、何でも相談してね」
 そう。それだ。私のあずかり知らぬところで、勝手に話が進んでいる。一体、どういうことなのか。初耳なのだが・・・・いつから、私がこの素性の知れない人たちと暮らすことになったのだ。
「あ、あのう? 何で、私が貴方たちと一緒に行くみたいなことになっているのですか?」
 魔装使いを倒してしまう程の実力の持ち主だ。怒らせないようにと、恐る恐る尋ねてみたのだが、私の問いに対して二人は顔を見合わせると、何を言っているんだとばかりに笑い出した。長身の方が、ばしばしと私の肩を叩く。力加減を知らないのか、かなり痛い。そして、懐から綺麗に折りたたまれた一枚の紙を取り出すと、ばっと開いてみせた。私はそれを両手で受け取って、目を通す。
『――――我が娘を頼んだ。ランドルフ・ロバート・エイデン』
 角ばった、サイズのばらばらな文字の羅列。お世辞にも達筆とは言い難い独特の癖字。間違いなく、それはランドルフの筆跡であった。何度も読み返すが、間違いなく彼が記したもので間違いないだろう。まさかの事態に目が点となり、同時に思考が停止した。
 そんな私をよそに、二人はおもむろに仮面を外すと、こちらに微笑みかけた。
「と、いうことだ。よろしくな。お前は俺の好みの顔をしているから、特別に面倒を見てやるよ。良いか。覚えておけよ。俺の名は『グラディス・モニカ・アーサー』。これから、お前の師匠になる女だ」
「もう、それを決めるのはグラディスではないでしょ。ルナちゃん、ごめんなさいね。最終的に選択するのは貴方だから、心配しないでね。っと、私は『ネル・モニカ・ウォルフォード』。人々は私たちの束ねる魔術師集団を『鼓草の魔術師』と呼ぶわ」
「いや、誰がなんと言おうと、こいつは俺の弟子にする。魔術の本質が俺と似てる気がするんだ。今決めた。な? ルナもそれが良いだろう?」
 魂の抜けかけた私の両肩を、がしっとグラディスが掴む。強力な握力で握られ、その痛みで強制的に引き戻された。
「え? えっと・・・・ええええぇぇ!?」
 現実を受け止めきれない私の、心の底から絞り出された悲痛な叫びであった。
 
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 レッドスパイダーリリー : 花言葉『悲しい思い出、あきらめ、独立、情熱、想うは貴方一人、転生』、別名『ハリケーンリリー、レッドマジックリリー』、特徴『和名である彼岸花のとおり、彼岸の時期に真っ赤な花を咲かせる。強い毒を持ち、誤飲すると中枢神経の麻痺や吐き気、下痢等を引き起こす。飢餓の際には食料としても重宝されていた。また、日本においては数え切れないほどの異名を持つことで有名』、異名『曼殊沙華、葉見ず花見ず、死人花、幽霊花、地獄花、狐花、狐の松明、剃刀花、火事花、雷花、毒花、痺れ花、龍爪花、など』
 
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