第2話

文字数 2,328文字

 春奈さんにとって地上で過ごす最後の日が、やってきてしまった。
 桜の映像は結局、妥協となった。
 日本風に頭を下げて謝る私を、春奈さんは穏やかな笑みで許してくれる。

「いいんですよ。最後までいろいろと試してくれて、本当にありがとう。あなた方のお陰で、心安らかに宇宙へ行けると思うわ」

 これから春奈さんは車に乗って港へ向かい、船に乗る。
 軌道エレベーターは、赤道上の海面に設置された人工浮島(メガフロート)内にあるから、まずはそこまで移動しなくてはならないのだ。

 到着したら内科医と精神科医の診察を受け、地上での最後の食事を楽しむ。春奈さんの希望は確か、天ぷら蕎麦とクリームあんみつだった。

 翌朝7時、専用搭乗機に乗り込み、軌道エレベーターで上昇を開始。約1週間かけて静止軌道ステーションへ向かう。
 到着し、漆黒の闇に浮かぶ地球の姿をじっくりと眺めたら、再び医師と精神科医の診察を受け、人によっては最後の晩餐を食べる。

 いよいよ「棺」へ入る時間だ。
 もちろん、直前で考えを変えることもできる。
 変えなかった場合、用意してきた好きな格好に着替えて、希望者のみ聖職者の訪問を受け、医師に処方された睡眠導入剤を飲む。そして「棺」と呼ばれる専用ポッドに身を収める。

 ここで、例の映像の投影が始まる。
 自分の人生を振り返り、懐かしい思い出を楽しんでいるうちに、身体の機能を停止させる噴霧薬が少しずつ、ポッド内の空気に織り交ぜられていく。

 よく誤解されるのだが、宇宙空間へ「棺」が放出されるのは、完全に呼吸が止まって脳波の反応もないことを、専門の医師が確認してからだ。

 意識があるうちに放出されてしまい、死にきれず戻りたいのに戻れない、などというホラー映画のような展開には決してならないから、安心してほしい。

 軌道エレベーターの中で一週間も過ごすことになるので、春奈さんは当然のことながら、お母様の形見のキモノをまだ身に纏っていなかった。
 でも、左手の中指には光るものがあった。私の視線に気づいて微笑み、手を差し出して近くで見せてくれる。

「この間お話しした母の形見の指輪が、これなんですよ。きっと想像と違うでしょう。リングの部分が太くて、ごつい印象じゃない? 嵌まっているのはたぶん、宝石じゃないわ。まるでカメラのレンズみたいね。母は変わったデザインが好きだったみたいで、私の趣味じゃないから、普段使いはできなかったけれど……」

 春奈さんの言葉を聞きながら、私は、雷に打たれたような衝撃を覚えていた。
 確かに、ごつい。ユニセックスデザインが当たり前の現代とはいえ、女性が好んで身に着けるようには見えない。この指輪の目的が、お洒落のためだったなら。

 これとよく似たものを、私は祖父の部屋で見たことがあった。

 机の引き出しを勝手に開けて遊んでいた時、隅の方に転がっている指輪を見つけたのだ。不思議そうに手に取った私からその指輪を取り上げた祖父は、悪戯っぽく笑って指に嵌めると、まるで魔法のような光景を見せてくれた。

 当時住んでいた家の白い壁に、その指輪の宝石のような部分を向けることで、極彩色の鳥が羽ばたく映像を出現させたのだ。

 高価なおもちゃだよ、あまり流行らなかったけど……と、祖父は笑った。
 動画や写真を保存した他のデバイスとデータをやり取りし、壁や天井など、好きな場所に映像を映し出すことができる装置だったのだ。

 要は、超小型プロジェクターだ。

 埋め込み型(インプランタブル)ネイティブと呼ばれる世代に生まれた私にとって、映像は脳波でやり取りするものだったから、そのレトロさはやたら新鮮に映った。

 祖父母世代の人間はまだ、有機ナノボットを血管内に取り入れたり、極小デバイスを皮膚の下に埋め込んだりすることに抵抗を覚える人が多かったから、すぐに見せたい映像をどうやってやり取りしたらいいのかが、常に悩みの種だったのだ。

 昔の人はこういう道具を使っていたのかと、幼いながらも感心した。

 その時に見たのとほとんど同じ指輪が今、春奈さんの指の上で輝いている。

「春奈さん、これ……貸していただけませんか!?」
 手に飛びつくようにして私は、叫んでいた。

「これは、ただの指輪じゃなくて、指輪型プロジェクターです。お母様と一緒にご覧になられた桜並木は、もしかしたら、この中に入っているかもしれません!」

 祖父の指輪は、容量は少ないながらも、受信した映像を保存する機能を兼ね備えていたから、可能性は高い。

 春奈さんが目を丸くし、戸惑いながらも指輪を外してくれた。

 あの時、祖父はどう扱っていただろう。必死で思い出そうとしながら、私はリングの鏡面部を指の腹でこすってみた。反応しない。
 リングを指に嵌め、空中で降ってみた。何も起こらない。

 考えてみれば、ずっとしまい込まれていたのだ。電池切れを起こしているに決まっている。それに、こういうデバイスにつきもののロックもかかっているだろう。

 水素エンジン特有の音を立てながら、迎えの車がエントランスに停まった。
 時間が迫っている。

 私は脳波で生体デバイスにアクセスし、AIを起動して、予定外行動を起こした場合のスケジュールを演算させた。
 表情が硬くなるので、顧客を前にして生体デバイスにアクセスすることは、普段なら絶対にしないのだが。

 1秒待たずに結果が出た。予定がいろいろと詰まっているので、春奈さんを足止めするわけにはいかないが、私が指輪を預かり、技術班に解析を依頼し、ロック解除して夜の船便で人工浮島(メガフロート)に向かい、軌道エレベーターに乗り込む前の春奈さんに会って指輪を渡すことは、どうやら可能だ。

「春奈さん!」

 まん丸に見開かれた春奈さんの灰色の目に、私の上気した顔が映っていた。
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