第1話

文字数 3,375文字

 床から天井まで継ぎ目のない、丸みを帯びたクリーム色の壁が、一瞬にして鮮やかなピンク色に彩られた。部屋の中央に置かれた小型プロジェクターが投影しているのは、ベトナムで撮影された桜並木の映像だ。

 手元の端末を操作すると、自身が前に進んでいるかのように、ゆっくりと映像が動き出す。角度調整スティックを後方に倒せば空が映り、前方に倒せば地面が見える。

 あらまあ、と感嘆の声を上げて、ブルーグレーのスーツを着こなした上品な老婦人が、胸の前で手を合わせた。こんなのも素敵ねえ、と感想を述べる声がどこか他人事の響きだと感じ、私は内心で落胆する。

「これもやっぱり、違いますか」
「そうねえ。素敵だけれど、私が思っている桜並木ではないわねえ」

 探し直しだ。ため息を呑み込み、私はあくまで穏やかな笑みを浮かべる。
「こちらへどうぞ。もう少し詳しくお話を聞かせてください」

 プロジェクターを切って投影室から応接室に戻り、ソファに腰かけると、私はさっそく電子カルテを起動した。病院ではないが、顧客の情報や希望を詳しく記録したファイルのことを、我がラストスター社ではカルテと呼んでいる。

「決まりですので、何度もすみませんが、お名前から確認させていただきます。
 春奈・インディラ・林・クマール様。性別指数は女性100%、宗教指定なし。
 共通紀元(コモン・エラ)2025年3月12日生まれの85歳。
 国籍は日本(ジャパン)=ベトナムで、現住所はモイ・ホーチミン。
 ご希望プランはEの、宇宙安楽死葬(スペース・ユーサネイジア・フューネラル)でよろしいですね」

 春奈さんが頷くのを見てカルテにチェックを入れ、私は次の項目へと進む。

「搭乗後は360度視野のヘッドセットを使用し、ご希望の仮想現実映像(ヴァーチャル・リアリティ)をお楽しみいただく予定です。
 ご提供くださった記録媒体や当社撮影の現地映像などを組み合わせて、98%までは仕上がり確認済みですが、残りの2%が問題の桜で、調整中になります。
 オプションの音楽も選択済みで、香りは希望なし、追加のお手荷物なし。
 ペットの同伴なし、軌道追跡サービスのお申込みなし……」

 最後のセンテンスの語尾が消えたのは、春奈さんが当社を訪れた理由を思い出したからだ。軌道追跡サービスは、宇宙空間に放出された「棺」の現在地を、地上に残る遺族が知るためのもの。その遺族がいないなら、サービスに申し込む必要はない。

 宇宙旅行中の事故で子と孫の世代を一気に失い、既にパートナーに先立たれていた彼女は、一人になってしまった。「宇宙なんて怖い」と旅行に参加しなかったことを後悔し、もう長生きしても仕方ないからと、皆の眠る宇宙空間で安楽死することを望んだのだ。

 安楽死がどの国でもおおむね合法と認められ、国際法に安楽死に関する項目が加わってから、半世紀以上が経つ。その半世紀の間に、地球と宇宙をケーブルで繋いでしまおうという国際的な大プロジェクト、軌道エレベーターの建設が、予定を大幅に超過して落成の日を迎えた。

 人や物が安いコストで宇宙へ送られるようになり、宇宙旅行と共に、宇宙葬という言葉も一般的に知られるようになった。そこへ安楽死を組み合わせて、新たな人生の終末スタイルを確立させたのが、我がラストスター社だ。

 怖くて宇宙旅行はできないが、死ぬ直前に一度くらいなら宇宙へ行ってみたいと考える人は、存外に多いらしい。加えて、医療分野の発達により伸びに伸びた健康寿命は、死はコントロールできるものという感覚を人類に植え付けた。

 今や安楽死は全人類の65%が最も望ましいと考える死に方であり、そこにエンターテインメント性を付加して自分らしい最期を演出することは、ごく一般的な人生設計の一部として定着しつつあった。

 昔は葬式というお別れパーティーを開いたり、お墓という家族単位の記念碑を建てたりしていたらしいから、それが個人的なものに変化したのだろう。

 質問に頷く春奈さんの生体反応(バイタル)は安定している。死を扱うビジネスであるため、決して間違いのないよう、顧客対応には細かな決まりがいくつもある。

 自分の判断と進捗状況を何度も確認してもらい、会話の途中で少しでも不安や躊躇を見せたら、プロセスを前の段階へ戻し、場合によってはキャンセルや延期をお勧めするのだ。

 AIではなく人間の専任担当者が必ず付くのも、合理的判断だけで事を進めないための安全装置だった。

「では、記憶に残る桜のエピソードを、もっと詳しく教えていただけませんか? どんなに些細なことでもいいんです。一緒に行った人とか、その時に聞いた言葉とか」

 問題の桜の映像は、春奈さんが「棺」の中で最期に見ることを希望した人生ダイジェスト――日本風(ジャパナイズ)に言うと走馬灯――の冒頭に流す予定のものだ。

 元となる映像記録がないため、聞き取ったイメージを元に技術スタッフが試行錯誤しているのだけれど、なかなかこれといった反応が得られない。

 日本の桜ならソメイヨシノだろうと、撮影スタッフが当たり前のように用意したものは、すぐに首を横に振られてしまった。もっと花弁が多く、かといって八重桜ではなく、白っぽい花弁も色の濃い花弁もあったらしい。

 自然交配の雑種だとしたら、うろ覚えの記憶を頼りに探し当てるのは至難の業だ。

「あれは私の人生の最初の記憶で、たぶん、2歳か3歳頃だというお話はしましたね。母と手を繋いで、桜並木を歩いている。場所は日本のどこかだと思います。その頃はまだ、あちらに住んでいたはずだから」

 語り始めた春奈さんがしんみりとした口調になったのは、その日本が今や、現代的な暮らしを望めない水没国家となってしまったからだろう。

 軌道エレベーターの完成が大幅に遅れた原因でもある、海底火山の大噴火。
 その余波で地殻変動の影響をもろに食らった日本は、数年をかけて国土の40%を海面下に沈めることとなってしまった。

 残されたのはほとんどが山岳地帯で、インフラの整備や発電所の再建どころか、食料を確保することすらままならない状況に、皇室と政府は海外に救難信号を発した。

 国際協力を得て全国民の脱出計画が実行され、日本にルーツを持つ人間は世界のどこでも、日本と滞在国の二重国籍が認められることとなった。

 私の祖父も、そうして大陸に移住したのだと聞いている。
 そんなルーツの縁あって、私は春奈さんの担当を任されることになったのだ。

 思い出の桜並木は今や、ほぼ確実に水没している。
 だから現地へ撮影しに行くわけにもいかず、インターネット上で商用利用を許可された画像やAIの描画、手持ちの記録映像等を繋ぎ合わせて、再現するしかない。

 難しい仕事だけれど、顧客が人生の最期に見ることを望んでいるのだ。時間の許す限りこだわりたいという意見で、チームの方向性は一致していた。

「住んでいたのは日本のどこだったか、地名など思い出したことはありませんか?」

「そうねえ……たぶん、西の方だと思うのだけれど。引っ越しが多かったものだから、はっきりしなくて……そうそう、その時に母は、キモノを着ていたのよ」

 新しい情報だった。私はすかさず記録を取る。

「桜色の美しいキモノだったわ。母はインド人として生まれたけれど、日本の文化が好きだったの。お茶目な人で、繋いでいない方の手を楽しげに空に掲げて……ああ、インドか日本の踊りをしていたのかも。その手にきらきら光るものがあって、なんだろうと思って指さしたら、見せてくれたのを覚えている。
 指輪だったわ。日の光を反射して、輝いて見えたのね。
 母が亡くなったとき、その指輪とキモノは、私が形見に譲り受けたのよ。棺へ入るときには、両方とも身に着けるつもり」

 春奈さんのお母様はその後いくらも経たないうちに、病気で亡くなってしまったのだそうだ。数少ない思い出の中の貴重なワンシーンなのだと思うと、やはりなるべく再現してあげたい。

 桜の色や形、枝ぶり、咲き具合など、前にも聞いたことをもう一度確認し、念のためにキモノの写真を送ってもらう約束をする。キモノが桜色なら、そのイメージが現実の風景に影響を及ぼしているかもしれない。

 努力を重ねる一方で、出立予定日が迫っていることも忘れてはいけなかった。
 イメージに近い映像が得られなかった場合、これまでに見てきた中から選んでいただくという妥協の確認を、しておかざるを得なかった。
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