裏幕 ―肆―

文字数 24,023文字

 昼も夜もなく、そこかしこにある提灯の明かりに照らされた妖怪の隠れ里。どれだけの時間を経ても、まるで祭りの締め際のように儚い雰囲気を落とし込んだまま、里の真ん中を通った一本の大通りには相も変わらず妖怪の気もまばらである。騒がしくもなく寂れてもいない、程良い空気が漂う。
 金狐は、皐月の家の玄関先にある縁台に座っていた。浮世を忘れさせてくれるような里の空気に身を委ね、ゆったりと流れゆく時間の機微を感じ取りながら、心を落ち着けている。
 その隣には銀狐の姿もある。彼女は金狐の肩に自分の肩をあずけ、安心し切った様子でじっと小さな呼吸だけを続けていた。といっても、眠っているわけではない。きっと、もう誰にも脅かされる事がないという安寧と、姉である金狐の隣にただ寄り添っていられるこの時に、うっとりと浸っているのだろう。
 そうだとすれば、金狐も同じ心境であった。
 お互いが唯一の肉親である事実以上に、彼女は自分の妹である銀狐を純粋に愛しく思い、またその愛しい妹とこうして安らかに身を寄せ合っていられるこの時が、何事も代え難い幸福だと感じていた。この里へ至るまでの数百年の間に経験してきた逃亡生活。餓えや苦痛にも悩まされ、時に人の姿へ化け人間のもとで暮らした事もあった。本当であれば甘えたい年頃であろうに、目も耳も利かぬ銀狐には長い間辛く苦しい思いをさせてきた。
 だからこそ、例えこの幸福が一瞬の事だとしても、今この時ぐらいは銀狐を目一杯甘えさせてあげたい。そう、金狐は強く思っていた。
 そんな一時の中、金狐はふと自分の足に何かふわふわとした感触を覚えた。なんだろうと足元を見下ろせば、金狐の足にはすねこすりがいたのだった。藍鼠色に白色と二色の毛を生やした背を丸め、目を新月のように細めながら彼女の足に自分の体を擦り寄せている。
「あら、可愛い」
 金狐は蹴鞠のように丸まったすねこすりに相好を崩し、思わず手を伸ばしかける。
 と、その途中で、金狐の肩に体を寄せていた銀狐が倒れそうになったため、それに気づいた金狐は慌てて彼女の体を支える。足元のすねこすりに気を取られるあまり、自分の肩が銀狐の体重を支えていた事をついうっかり忘れてしまっていた。
「ご、ごめんなさいね。大丈夫?」
 目の見えない銀狐を不安にさせないよう、金狐は彼女の片手を両手で包み込んだ。傍に金狐のいる事を確かめるようにその手を包み返した銀狐は、多少驚いたような顔を彼女へ向ける。
「うん、大丈夫。こん姉ちゃん、何かあったの?」
「ううん、なんでもないの」
 耳だけが頼りである彼女へ、金狐は落ち着いた囁くような声色で続ける。
「ちょっと、足元にお客さんがね?」
 銀狐は「お客さん?」と問いかけるように首を傾げる。
 どうやら、彼女はすねこすりの気配に気づいていないようだ。これだけ近くにいながら気づかないのも無理からぬことで、すねこすりのようなほとんど動物に近い妖怪の類は大した妖力を持ち合わせておらず、比較的に穏やかな気質の持ち主が多いからである。現に、金狐も足に何が触れているような感触を覚えて初めて気づいたぐらいであった。
「そう、すねこすりよ」
「すねこすり? どんな妖怪なの?」
 銀狐は傾げていた首をさらに傾けた。
 純粋な疑問を浮かべる彼女を見た金狐は改めて気づく。そうか、ごんは世の中をその目で見る前に光を失ったものだから、どの妖怪がどんな姿形をしているかが分からないのだ。そう、他の妖怪や自分の姿だけでなく、姉である私の姿ですら。
「そうね……。とってもちっちゃくて丸っこくて、犬のような猫のような姿をしているの。すごく大人しい性格だから人懐っこくて、よく人間とか妖怪の足に擦り寄ってくるのよ。ただそれだけね」
 それを聞いた銀狐は半ば呆れたような顔色になる。
「それだけ? 他になにもしないの?」
 幼子相応の素直な反応を見せる銀狐に心が和んだ金狐は、思わず笑みを零してしまう。
「そうよ。本当に無害な妖怪なの。……ただ、散歩している時とかに擦り寄られたら、お姉ちゃんはちょっと困っちゃうけれどね?」
 銀狐は空いているほうの手で口元を押さえ、薄く笑う。
「なんだか、可愛らしい妖怪なんだね」
 本当に何気ない、何かに急かされる事なく自分達本来の調子で流れる会話であった。無邪気な銀狐の様子を見ていると、金狐はかつて一族の宮中で自分の母親と同じような会話をした事を思い出し、つい昨日の事のように懐かしむ。こうした緩やかな時の中で過ごしていれば、以前は思い出すのに苦労した一族との楽しい記憶も少しずつだが蘇ってくるようである。
 金狐がすねこすりを抱き上げようとした時、すぐ近くから切れの良い羽ばたきの音が彼女の耳へ入ってきたのだった。
 音のした方を見遣れば、そこには捷天の姿があった。彼は軽い挨拶とばかりに片手を上げながら、金狐の傍へと近づいてくる。
「いや~、本当、ここは中々に居心地の良いところだな。静かで落ち着きがあるし、里の雰囲気や風景にも風情がある。おまけに、ここに住む連中は癖のある奴ばかりときて、退屈もしねえ。嬢ちゃん達もそう思わねえか?」
「そうですね」
 金狐は心の底から首肯する──ちらりと目配せた自分の足元には、もうすねこすりの姿はなかった。
「皐月さんや他の方もお優しいですし、外の人間と妖怪との争いを目にする事もなく、こうしてごんに目一杯構って上げられるのは嬉しい限りです。これも、捷天さんが妖怪の隠れ里を教えてくれたおかげです。本当に、なんとお礼を申し上げたら良いか」
 金狐がおじきをしかけると、捷天は「ああ、よせよせ」とその肩を受け止める。
「俺と嬢ちゃん達は盟友だ。楽を得れば分かち、苦境にあれば手を取り合う、そういった苦楽を共にすると誓い合った仲じゃねえか。例え、かつてのような一族の交流がなくとも、俺達天狗一族は、九尾御前や狐一族の事を一度たりとも忘れたこたあねえさ。だから、礼の代わりに、ただ親しみを込めたあの一言をくれないか? その方が俺も落ち着くんでな」
 金狐は眉をひそめ、考えるように首を傾げる。
「えっと、どんな言葉を送れば良いのでしょうか?」
 金狐の問いかけに、捷天は視線をやや仰角へ向け、どこを見るともなし遠くの記憶へ想いを馳せるような面持ちになる。恐らく、狐一族と過ごした昔の事を思い返しているのだろう。しばしの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開く。
「かつて、九尾御前、嬢ちゃんの母君が俺達によくかけてくれた言葉だ。……と、こんな事、嬢ちゃんに言っても仕方がねえか」
 どうした訳か、その過去を懐かしむ彼の顔つきが金狐の脳裏を揺さぶった。勇ましい顔立ちに曇りなき自信と信念に満ち溢れたその佇まいを、まだ幼かった彼女は己の母上の傍からよく見上げていたような気がする。
「……よくやった、天狗」
 金狐の口から自然とそう漏れた瞬間、捷天は驚くようにふっと両目を見開き、彼女の顔を見つめる。その目には驚きの他に、彼女の口から自分の望む言葉が出てきた事に確かな興奮を覚えているような、湧き上がる歓喜を押さえ込もうとする色さえ窺えた。
「嬢ちゃん、覚えていたのか?」
「い、いえ」
 誤解からぬか喜びをさせてはなるまいと、金狐は慌てて弁明する。
「ただ、多分こんな風だったかなと、そんな気がしたんです。昔、捷天さんのような多くの天狗の方々を、母上の足元にすがりつきながら見上げていたような、そんな記憶が……」
 次の言葉に迷い一旦口を止めると、そこへ滑り込ませるように捷天の声が飛び込んでくる。
「いや、それでも十分だ。まさか、嬢ちゃんの口から、その台詞がまた聞けるとは思ってなかったぜ。九尾御前は、俺達天狗が手柄を立てるたびに、口癖みたくこう言ったもんよ。『よくやった、天狗。さすがは老山で育った屈強たる猛者の衆よ。我が狐の智と、天狗の武があれば、怖いものなどない!』ってな」
 金狐の弁明などまるで意味がなさず、捷天は声を弾ませて大いに喜んでいるようであった。
 調子を出す捷天に対して、金狐はどうも彼のように気分良く振る舞う事が出来なかった。彼が喜んでくれた事に関しては良かったのだが、その原因となる言葉を口にした当の自分は、彼の言う昔の事をはっきりと思い出せないでいる。ただ、ぼんやりと霞む霧の中に曖昧な輪郭を見つけただけで、その正体までは中々掴めないのだ。
 自分の記憶だけが現在に取り残されてしまっているように感じ、金狐は少し物寂しい気持ちになる。そのまま感傷に沈みかけた矢先、自分の袖を強く握り締める銀狐の手に気づき、はたと彼女の顔を振り返った。
「良いな、捷天さんもごん姉ちゃんも、母上との記憶があって……」
 俯き気味になったその面に薄い影を落とした彼女へ、捷天がやや焦ったように声をかける。
「ああ、ごんちゃん、そんな落ち込まねえでくれよ」
 彼女を励まそうとしているらしく、捷天は自分の言葉に気を遣いながら、なんとか話の落としどころを模索しているようであった。そこで安易な謝罪を口にしないのは、きっとその言葉を発する事によって、銀狐が互いの間にある確かな過去の記憶の差を意識してしまわないよう考えているからだろう。
 そうした捷天の姿が瞼越しにでも伝わってくるのか、銀狐は彼のいる辺りを見上げ、微かに口の端を緩ませていた。
 我が妹のか弱き微笑みを見ながら、金狐は先程までの自分の気持ちを少し改める。
 辛いのは自分だけではない。私にはまだ思い出そうとするだけの記憶があるのに対し、ごんにはそれすらないのだ。本当はもっと母上に甘えていたい年頃なのに姉を困らせまいと振る舞い、涙一つさえ見せない。そんな妹を支えられる唯一の身内である自分が、こんな調子ではいけないのだ、と。
「そうね、ごんも辛いでしょうね」
 金狐は銀狐の頭を撫でながら、過去の情景へ思いを馳せる。
「でも、ごんだって、小さい頃はよく母上に抱かれて笑っていたのよ? 一時期なんて、母上があまりにもごんばかりに構うものだから、私が拗ねた事だってあるもの」
「えっ、本当?」
「ええ、本当よ。今だから言っちゃうけれど、赤ん坊だったごんの頬をこっそり抓って意地悪した事もあるの。……こうやって、爪を立てないように気をつけながら」
 金狐は銀狐の頬の片側を指の腹で抓んでみせると、彼女はそれがくすぐったいとばかりに肩をやや縮めて、薄い笑い声を漏らした。その笑い声につられて、金狐も笑う。
「本当、ごんは変わらないのね。赤ん坊だったごんも、頬を抓るたびにそうやって笑ってくれるものだから、私は幼心ながらも、母上が妹ばかりに構ってしまうのも仕様のない事だと思ったわ。だって、こんな可愛らしいんだもの」
 照れくさそうに頬を赤らめた銀狐の肩を、金狐は抱き寄せる。
「ほら、こうすれば、母上の温もりに包まれているみたいでしょう?」
 少しの間、彼女の腕の中でじっと押し黙った後、銀狐は時間をかけるように首を横に振る。
「これは、こん姉ちゃんの温もりだよ? 確かに母上との記憶がないのは悲しいけど。……けど、今の私が一番大好きなのは、こん姉ちゃんだから、全然寂しくないよ」
 そう言う彼女の表情は決して無理をしているものではなく、心の底から出た本心を口にしたように安らかであり、今あるささやかな幸福に満足しているようであった。
 ああ、なんて健気なのだろう。今まで母上のない身で大変な苦労をかけてきたというのに、それに対して不満を述べるどころか、姉である自分をここまで頼りにし慕ってくれている。それならば、これから先の自分がするべき事はたった一つ。それは、じっくりと歳月をかけながら、明日の来るのが待ち遠しくなるくらい楽しい思い出をごんと一緒に育んでいく事だ。
「嬉しい。私も、ごんが一番大好きよ」
 金狐と銀狐は狐の姿の時にする愛情表現と同じように、互いの頬をすり合わせる。
 心地良い沈黙に浸っていれば、里のどこからか不規則に叩く拍子木のような音が聞こえてきたり、時々傍の通りを歩いて過ぎる妖怪の足音、その草履や裸足で石畳を踏み鳴らす音が二つ三つほど聞こえたりする。喧騒には程遠い空気感ではあるが、むしろその方が金狐の気分も落ち着くのであった。
 しばらくして、金狐は心の満たされたような心持ちで銀狐から面を上げる。
 すると、その先に立っていた捷天を見つけるや、途端に彼女は照れくさいような思いになった。仲睦まじい姉妹を温かく見守るような彼の視線を感じてしまうと、いくら妹との他愛ない触れ合いとは言えど、そこに恥じらいを忍ばさずにはいられない。
 何か会話でもして気を紛らわそうと思い、金狐は自分の頬へと左手の指先を添えながら、前々から一度はちゃんと確認しておこうと思っていた事を口にする。
「そういえば、捷天さんは、ご自分の山の方へ戻らなくても良いのですか?」
 そう聞かれても、彼は大して真面目に考える素振りは見せず、手をひらひらと振ってみせながら「ああ、別に構わねえさ」と即答した。ただ呑気に構えているだけなのか、山へ帰ろうという意志が少しも感じられない。
「でも、長い事山を空けている訳ですし、一族の皆さんも心配されていると思います。捷天さんのお陰で、こうして妖怪の隠れ里へと身を寄せる事が出来ましたから、私達に気を遣わず、一度山の方へ帰られた方が良いのではないですか?」
 それが相手の事を考えての発言だと察したのか、捷天は心持ち居住まいを正した。
「その必要はねえのさ。親父やあいつらにも、盟友を助けるからしばらくは帰ってこねえ、って言ってあるからよ。どうせ、あっちには先視役……って言っても、嬢ちゃんには分かんねえか。まあ、千里眼みたいな妖力を持った奴がいるからな、俺達の動向なんて全てお見通しって訳だ。だから、あいつらは心配なんてしねえし、俺も嬢ちゃんの護衛を途中で投げ出す気なんざあ、これっぽっちもねえ」
 捷天が自分の山へ戻ろうとしない理由を聞いた金狐は安心する。捷天には自分達姉妹とは違って帰る場所がある。それにも関わらず、盟友を助けるという口実のもとで彼を長い事引き留めてしまっては、同族や身内に心配をかけるのではと気になって仕方がなかったのだ。先視役がどうこうという話に納得した訳ではないが、少なくとも彼がちゃんと身内と話をつけているようで良かったと思う。
「それどころか、嬢ちゃんと合流した俺を見て、あいつらもきっと喜んでいるだろうよ。なんせ、数百年来の天狗と狐の再会だ。滅んだと思っていた盟友の生き残りがいたなんざ、これほど喜ばしい事はねえからなあ」
 次第にまた捷天の態度が崩れ始めた時、金狐は自分の片袖が引かれるのを感じた。
 そちらを見れば、銀狐が何か言いたげな顔をしている。その表情に込められた意をすぐに理解した金狐は、「分かった。ちょっと待ってね?」と答えて、捷天へと向き直る。
「捷天さん。ごんが、聞きたい事があるみたいです」
 そう言って、金狐は銀狐の背中にそっと手を添えてそれとなく捷天のいる方向を伝える。同時に、それは相手が銀狐の方へと顔を向けたよ、という合図でもあった。
「あの……、ずっと気になっていたんですが。どうして、捷天さんの天狗一族は狐一族と盟友になったんですか?」
 一瞬、彼は不意の質問に固まったような様子を見せた。かと思えば、直後に相好を崩して待ってましたとばかりに「よくぞ、聞いてくれた!」と胸を張る。
「俺ら天狗と狐が盟友になったのは、今から千年以上も前の事だ。その時代、ある妖怪の一族が朝廷を据えて国を興していてな。そいつらの勢力が強大過ぎるからよ、俺ら天狗や狐、狼の三大勢力を含むほとんどの妖怪はその朝廷に帰順せざるを得なかったんだ。帰順っても本当に嫌々だ。国を興すだけあって妖力も桁外れに優れているもんだから、それを良い事に独裁や悪政の限りを尽くすばかりで、俺達は理不尽に虐げられていた。その状況へ神風を吹かせてくれたのが、まさに狐一族だった。最初の方こそ、朝廷に媚びへつらって賜った軍権を振りかざしている卑怯な狐一族だと、俺達は思っていたさ。だが、実はそれも策略だった訳だ。俺達妖怪の自由を取り戻すための総決起、その布石だったというから、いやあ、驚いたもんだよ。当然、朝廷に反旗を翻した狐一族に俺達天狗一族も呼応したさ。……まあ、これ以上は話が長くなるから大分端折っちまうが。要は、当時の朝廷を切り崩してくれた狐一族の知略と忍耐を俺達天狗は尊敬している訳だ。有り難い事に、狐も俺達天狗の気概を評価してくれてたらしくてな、その時の両族の長『九尾の狐』と『大天狗』が盃を酌み交わし合ったところ意気投合し、結果盟友となった、という話だ」
 捷天の話を聞き終えると、銀狐は感心したような表情を示した。いや、彼女だけではない。もっと単純な話かと思っていた金狐も、その予想外に壮大な背景を持つ天狗と狐のつながりを垣間見て、感心と同時に湧き上がってくる純粋な興味を抑えきれなかった。
「まさか、そんな昔に、私達妖怪の世界にも、人間と同じような国や朝廷が存在していたなんて。一体、そのある一族ってどんな妖怪なんですか?」
 金狐の問いかけに、捷天はそれまでの饒舌さを一旦後退させて、過去の記憶を思い出そうとうするように額へ手を当てる。
「ああ、ちょっと待ってくれ。確か、そう、妖鼬閥族(ようてんばつぞく)だったか。……いやなあ、俺が生まれてから二百数年も経った時に、丁度狐が朝廷へ反旗を翻したぐらいなもんだからな、実のところ閥族の事はあんまり詳しく知らねんだ。ただ、俺の親父でもあり、当時襲名してから現在に至る二百六十七代目『大天狗』から聞いた限りだとよ。なんでも妖鼬閥族はえらい格式張った生活をし、どうも自分達閥族が妖怪の中で最も優れた、由緒正しき一族であると思っていたらしいぜ。実際、奴らの纏う妖気には計り知れない凄みがあったからなあ」
 捷天は一息吐くと、次におどけるような様子で肩を竦める。
「まあ、そんな由緒正しき妖鼬閥族も、自分達に従順だからといって常に傍へ置いていた狐一族に討滅させられた訳だからな。いくら妖力が優れていても、所詮は俺達と同じ妖怪だったって事だろうよ。……ん?」
 何かに気づいたらしい捷天がつと後ろを振り返る。
「うおっ! って、なんだ、皐月か」
 その発言を聞いて、金狐も彼の背後に立つ皐月の姿に初めて気づいた。
 皐月はいつか自分で癖だと言っていたように妖気を殺していた。彼女が人間であったのであれば人独特の気配というものを纏っていただろうが、妖怪の身でありながら妖気を消しているせいで、ほとんど無に近い存在となっているようなものだ。こちらを見据える彼女の瞳は冷たく、その瞳孔の奥底に何かしらの感情を潜ませている感じさえある。
 捷天が文句を言いたげに口を動かそうとした時、皐月は彼の眼を見つめ返す。
「捷天様。お取り込み中のところ申し訳御座いませんが。今、お手隙でしょうか?」
 淡々とした彼女の態度に押し込められるよう、捷天は動かしかけていた口を改める。
「俺か? まあ、暇って訳じゃあねえが、手は貸せるぜ。……ああ、また、誰かに薬でも届ければ良いのかい?」
 彼は皐月の言いたい事を読めたという素振りでそう聞いた。はたして、皐月は口だけで薄っすらと愛想笑いのような笑みを浮かべながら、袖の下から小包を取り出したのだった。
「はい、この塗り薬を怱(そう)さんという方へ届けて欲しいのです。場所はこの大通りを道なりに里の奥へと行った先の、『細道』という名の長屋で御座います」
 彼女から小包を受け取った捷天は「分かった」と二つ返事をすると、すぐに翼を動かし、宙へと上昇していく。
「じゃあ、嬢ちゃんにごんちゃん、また後でな」
 彼は金狐と銀狐へ手短な挨拶を済ませ、里の奥へ飛び去っていった。土色をした里の空で徐々に小さくなっていく彼の後ろ姿を見送った金狐は、同じく捷天の飛び立った方向を見つめる皐月の横顔へと視線を遣る。
「あの、私も何か、お手伝い出来る事はありませんか?」
 聞けば、皐月はまた口の端だけで笑うような表情を作る。何故か、金狐には、彼女の顔は笑っているのに目だけが全く笑っていないように見えるのだ。
「いえ、金狐様のような尊い御方に、そのような雑事でお手を煩わせる訳には参りません」
 皐月の世話になってからというもの、金狐は機会を見つけては何かの手伝いをと申し出るものの、彼女は決まってこう返すのだった。食事や寝床と何やら面倒を見てもらってばかりでは悪いと思い、せめて僅かながらもそのお返しをしようと努めても、皐月がそれを許してくれないのである。
 金狐と同じように、ただ居候の身に甘んじている訳にはいかないと考えた捷天は、数日前から今程皐月に頼まれたような薬の配達や伝言の役などを引き受けている。その役を引き受けようと申し出た彼にはすんなりと仕事を任せたにも関わらず、金狐や銀狐の申し出は一切断るという事に、金狐は少々納得がいかなかった。いくら皐月が自分達狐一族を尊敬しているとは言っても、こう頑なに金狐の助力を断る理由が分からない。
「金狐様。大変失礼だと重々承知の上でお聞き致しますが、お隣に座らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
 皐月の一貫した態度に頭を悩ませていた金狐は、その不意の言葉によって意識を戻した。
「そんな失礼だなんて。わざわざ、私の隣に座るたびに断りを入れなくても良いですよ」
 不器用な彼女の事を考えて、なるべく親しみを込めてそう言ったつもりであった。が、皐月のそれは生来より染み付いたものであろうか。いつもの調子を全く変える事なく「有り難きお言葉。では、お隣に失礼致します」と返事をして金狐の左隣に腰を下ろしたのだった。
 それからしばしの間、金狐と銀狐、皐月の間に沈黙が訪れる。
 捷天へ仕事を頼んだ後、目の前を通り過ぎる事なくこうして私の隣へ腰を落ち着けたのだから、何か話があるのだろう。そう思って、金狐は皐月の口が開かれるのを待つ。それでも中々沈黙を破ろうとしないため、自分の左隣をちらりを窺えば、彼女は非常に冷めた表情をしており、心の内にある強い葛藤を押し殺すような張り詰めた空気を纏っているようだった。普段から感情の波を潜ませている彼女が今何を思っているのか、金狐には分からなかった。
 気まずい訳ではないものの、どこか緊張しているような空気の中、
「不躾ながら……」
 という開口一番の言葉を発した皐月が、次の言葉へと紡ぐ。
「金狐様の一族は、巫女一族に滅ぼされたとお伺いしておりますが。金狐様には、巫女一族へ復讐を果たそうというお考えは御座いますか?」
 思いも寄らぬ皐月の問いかけに、金狐は答えに詰まってしまう。復讐という言葉に気を取られ思考が上手く回らないため、とりあえずの言葉を返す。
「どうして、急にそんな事を?」
 見返した皐月の目には、いつぞや金狐の寝覚めの時に感じられたような冷たさがあった。
「私は存じております。金狐様の母君が、かの冷酷非情な巫女一族の手によって殺められてしまった事を。ただ日々の平穏を望み暮らしていただけにも関わらず、一族の繁栄が一夜にして切り崩され、罪なき同胞がその尊くも気高い命を次々と強奪されていく、そんな冒涜と恥辱に御身を晒されるお気持ちは、この私めにも痛い程理解出来ます。なれば、金狐様が巫女一族への復讐をお考えになるのも必然。不肖ながらこの私めにも、金狐様の仇討ちにお力添えをしたく思った次第で御座います」
 体の芯へと突き刺さるような皐月の目つきに堪えられなくなった金狐は、思わず彼女から視線を外し、自分の膝元を見つめた。
 巫女一族への復讐。少なくともそれに近い感情を全く抱いた事がないと言えば嘘になるだろう。つい昨日までは傍にいた母上を奪われ、故郷であった一族の宮を焼かれた事は確かに辛く悲しい過去であったし、自分と妹以外の身内を皆殺しにされた事も胸が詰まる程悔しい。何故自分達がこんな目に遭うのか、巫女一族がいなければもっと平和に暮らせたのに。そう思った日は数知れず、また今でもそう考える事が時々ある。
 母上へ矢を放った巫女一族の姿を思い浮かべた時、金狐はやや息苦しくなるような感覚を覚えた。体の底から湧き上がってくるような熱も感じる。もう数十日も前、守護大社を抜け出し追手から逃げている際にも感じたあの火照るようなざわめきと似ていた。
「金狐様。今こそ、巫女一族へ復讐の時で御座います。聞くところによれば、金狐様のご存命の報を聞き及んだ各地の妖怪達も、捷天様の天狗一族のように決起し、巫女一族への攻撃を開始しているようで御座います。この機を逃せば、恐らく金狐様の母上はこの先も報われぬまま、その御霊を彷徨わせる事になりましょう」
 語気こそ荒らげぬものの畳み掛けるような皐月の進言に、金狐は心を揺らがせる。
 が、金狐は咄嗟に銀狐の姿を振り返った。他に頼れる相手を知らぬ妹は自分の袖へとすがりつき、利かぬ目と耳の代わりに研ぎ澄ませた感覚を以て、皐月と金狐との間に流れ始めた不穏な空気を感じ取っているようである。その不安そうな表情を見れば、姉である金狐の答えは自ずと決まるものだった。
「いえ、私は、巫女一族への復讐を果たすつもりはありません」
 金狐は安らかな笑みを浮かべながら、皐月の冷淡たる眼を見返す。
「もし、母上がまだご存命であったのなら、母上は巫女一族への復讐をお考えになっていたでしょうし、私もそれに従っていたでしょう。でも、今私の目の前に残された身内は母上ではなく、妹のごんなのです。それなら、私が果たすべきは巫女一族への復讐ではなく、ごんの幸せ以外に何がありましょうか」
 本心をありのまま口にしていくと、金狐の感じていた熱も次第に冷めていく。
「相手への復讐は報復を招き、私達妖怪と人間との溝は深まるばかりです。それに、私は宮を追われて人間の里を転々としている内に知ったのです。人間と妖怪の本質は何も変わらないのだと。今は夢絵空事のような詭弁に聞こえるかもしれませんが、いつかきっと、妖怪と人間は手を取り合い、巫女一族とも和平を結び生きていける時代が来ると、私は信じています」
 金狐の言葉の後半はやや虚勢でもあった。だが、実際に口へ出してみれば、それも心のどこかでひっそりと描いていた未来だと彼女は自覚した。だからこそ、金狐は今の今まで、人間に対して危害を加えるような事は一切せず、また自分達が狐一族の生き残りである事を自ら公言して回り、かつてのように妖怪を束ねて巫女へ反撃しようともしなかったのだ。
 金狐は、物心がつく前から戦乱によって多くのものを失った妹を、再び争いの中へと巻き込みたくなかった。彼女が望むのは、ただ誰にも邪魔される事のないひっそりとした平穏、そして銀狐の幸せなのである。
「左様で……御座いますか」
 皐月は金狐から視線を切り、目の前の大通りの方を見遣る。
 彼女が視線を移動させるその一瞬、金狐は皐月の顔にほんの僅かな変化があったように感じた。まるで金狐の返事に失望したような、それとも復讐の進言を断った事で己の勢いが削がれてしまったと言わんばかりの、そんな気配である。
「もし、天が私に復讐の機会、それこそ千載一遇の好機を与えて下さったとすれば……」
 誰も歩いていない大通りを身じろぎもせず見つめたまま、皐月は静かに息を吸い込み、
「私は迷わず、我が一族を滅ぼした逆賊へ天誅を下します」
 と一息に言い放った。
 その皐月の表情には、背後へひっそりと忍び寄るような殺意が満ちていた。これほどまでに内なる感情を面に出した様子を見たのは初めての事であったため、金狐はやや驚きながらも、なんと非業を背負った顔をするのだろうかと、彼女に対する憐れみを抱かずにはいられなかった。きっと、彼女の両目には、己の憎む敵の姿が確かに映し出されているのだろう。
 皐月へどんな言葉をかければ良いのか、金狐は迷った。いくら自分と同じ境遇とはいえ、その心に潜んでいる感情が違えば、果たそうと思っている目的が互いに食い違ってしまうからである。
 そうこう金狐が逡巡していると、皐月はふと立ち上がる。
「金狐様、銀狐様。あまり外に長居をしておりますと、お体に障りましょう。そろそろ、中へ戻られた方が良いかと存じます。僭越ながら、私が何か温かい汁物をご用意致します故、一度御自室へとお戻りになって頂ければ、すぐにでもお持ち致しますが……」
 そう言って、彼女は返事を待つように金狐の表情を窺ってくる。
「えっ、ああ、そうですね」
 金狐は彼女の提案に少し戸惑った。彼女の態度には先程までの話題から気持ちを切り替えるような強引さがあるのを感じたからだ。
 とはいっても、皐月の言う事は自然なものであった。この隠れ里は森の奥にある洞窟の中であるため、あまり長い時間を外で過ごすと体が冷えてくるのも確かである。折角皐月が温かい物も用意してくれるというのだから、ここは一つ、彼女なりの気遣いだと思ってその言葉に甘えようと金狐は決めた。
「では、お願いします」
「承知致しました。では、どうぞ、中へ」
 皐月に促されるまま、金狐と銀狐は家の中へと上がる。
 屋内は皐月の妖力によって丁度良い室温に保たれているらしく、木造建築であればつきものである玄関や廊下の冷え込みもほとんどない。時々床の軋む音を響かせる廊下を歩きながら、皐月は銀狐の傍に寄って、慎ましやかな声で囁く。
「差し出がましい事をお聞き致しますが、銀狐様の御好物はどのようなものでいらっしゃいますか?」
 目の利かぬ銀狐には見えぬというのに、皐月はしかと彼女の顔へと視線を配り、まるで母が子にそう聞くものと似たような趣を表情に起こしていた。彼女の優しく撫でるような声色に気恥ずかしさを覚えたのか、銀狐は自分の掴む金狐の袖に隠れるよう寄り添う。
「あ、えっと……」
 銀狐はもじもじと返事を躊躇っていた。金狐は当然自分の妹の好物を知ってはいるが、あえて口出しはしないでおこうと決める。今日に至るまでの間、妹は唯一の身内である金狐を頼り慕う事しか出来ぬ環境で生きてきた故か、あまり他人との接し方に慣れていない。金狐が別の誰かと話を始めれば、彼女の傍に身を寄せたままじっと押し黙ってしまうほどである。だからこそ、安住の地を得た今こそ、これからも健やかに過ごしていくため他の者へ甘えるという行為を覚えて欲しいと、金狐は思っていた。
 中々返事をしようとしない銀狐の背中へ、金狐がそっと手を添える。銀狐は己の背に触れる姉の手を一瞬だけ確認するような表情を見せた後、幾度か声を詰まらせながらも口を動かしていく。
「その、私は……あ、油揚げが、好きです」
 最後まで言い切った直後、銀狐は顔に出た恥じらいを今すぐにでも隠したいとばかりに、金狐の腕にしがみついてしまった。それでも聞かれた事へ素直に答えられた彼女の姿を愛らしく思った金狐は、何も言わずに微笑みながら彼女の頭を撫でつける。
 見れば、皐月も元より細やかな目元に一層柔らかい糸を引いていた。どうやら、彼女も金狐と同じような気持ちであるらしかった。
「では、それを汁物へ入れておきましょう」
 その言葉を聞いた銀狐は、それまでの恥じらいをつと忘れたように顔を明るくする。
「ほ、本当ですか?」
「嘘を申すなど、とんでも御座いません。私は、隣人の憐火さんとの交友があります故、あの方からは良くお裾分けを頂いております。つい先日、憐火さんのご自宅を訪ねた折に頂きました中に、色の良い油揚げがあった事をしかと憶えております。彼女手製の揚げ物ですから、味の程はこの私は保証致しましょう。どうぞ、お楽しみに……」
 銀狐の顔色には明らかな活気が宿っていた。一族滅亡から逃亡生活の三百年間、ほとんど味の濃い食事や好物を絶っていたのだから、味を忘れて久しい油揚げを食べられるという話に余程喜んでいるのだろう。
 金狐は皐月へ、銀狐の事を気遣ってくれた事への感謝を示す目配をする。それに皐月が気づくと、金狐は会釈をしながら、お礼を述べるよう銀狐へ声をかけた。姉からそう促された銀狐は慌てて、皐月の気配を感じている方向へ顔を向ける。
「……あの、お心遣い、ありがとう御座います」
「お気になさらず。銀狐様に喜んで頂けるのであれば、それは即ち私の幸いで御座います」
 その仰々しい言葉遣いとは反面、皐月の表情は丸く綻んでいた。
 先の廊下が二つに別れているところまで来ると、皐月は金狐達に深々と一礼した後右へと折れ、金狐達はそのまま進行方向へ向かって真っ直ぐと伸びる廊下を歩いていく。
 床の軋む音だけが時折響く廊下を歩きながら、金狐は皐月の事を考える。
 皐月さんはごんへ優しく接してくれている。一見、里の妖怪達からも好かれ争いを好まぬ温厚な方に見えるけれど、先の玄関前で話した際に垣間見せた、己の一族を滅した逆賊への復讐心には驚いた。私との境遇が似ているとはいえ、皐月さんと自分との間にあれほど考えの違いがあるなんて。思えば、私は皐月さんの事を何も知らない。ただ、彼女に対する抽象的な印象をいくつか持つばかりで、彼女個人の確たる人となりに触れる事ができずにいる。今後はもっと、それこそ皐月さんがごんへ好物の話を聞いたように、彼女の事を知っていけるよう努力しなければ、と。
 金狐は銀狐の体をしかと抱き寄せ、薄暗い廊下を自室へと向かって歩むのだった。

 皐月邸。昼夜の問われぬ里にあっては、邸内も蝋燭の光のみを頼りにする他なく、常に物静かと薄暗さを湛えている。皐月の妖力によって保たれている室温は程良く、季節で言えば春のような過ごしやすささえあるのだった。
 廊下を歩いていた金狐は、邸内でも一際明るい光の漏れる襖の前まで来る。と、その襖の先にある居間から銀狐の声が聞こえてきたため、襖を引くのを待ってその声に耳を傾けた。
「……本当? そんな風に見えるの?」
「はい」
 その返事は、どうやら皐月の声のようである。
「御心配ならさずとも、銀狐様はとても可愛らしい御姿をしております。御召物も御髪も清潔で整っております故、どこにも変なところなど御座いません」
 皐月の言葉が終わった直後、銀狐の「そんな……」と呟く声が微かに聞こえた。金狐の耳に届くのが微かな呟きであっても、そこにやや震えるような声色を感じ取り、頬を赤く染めた銀狐の姿を想像するのは容易かった。
「でも、やっぱり髪飾りなんて、私には良く分かりません。一度も見た事がないから、折角褒めて頂いても、実感が湧きませんし……。目が見えないから、鏡台の前に座って一人で着飾れる自信もないので、その、これはお返しします」
 束の間、襖の向こうから聞こえてくる声が止む。ただの静寂よりもことさら鼓膜に張り付くような空気に、金狐が襖を開けるべきかどうか迷っていると、不意に畳の上で衣の擦れるような音が短く聞こえた。
「銀狐様。どうか、そう簡単に諦めるような事は為さいませぬように。銀狐様がお一人で鏡台の前に座れぬのでしたら、私が、その鏡の代りとなりましょう。金狐様と御同様、銀狐様は狐一族の由緒正しき御家に生まれたのですから、それに恥じぬよう身なりを整えなければなりません。そして、銀狐様も御年頃、目に見えずとも女の身らしく着飾りたいと思うのは至極当然の事で御座います」
 またもや、無言の間が訪れる。だが、それは一つ前の静寂とは違い、どこか気持ちのほぐれたような柔らかさが感じられた。
「それに、銀狐様が御綺麗に着飾れば、きっと金狐様もお喜びになりましょう」
「そ、そうかな? こん姉ちゃん、喜んでくれるかな?」
「ええ、きっと」
 どういった話の流れで二人がこのような会話をしているのかは分からなかったが、銀狐が年相応の粧しに興味を抱き始めた事に、金狐は姉として嬉しく思った。一族滅亡後は貧しい生活を強いられ、まだ甘えたい盛りの妹に少女らしい贅沢をさせてあげられなかった。人の身に化け人里に隠れ住んでいた時期も、人間の少女達でさえ興じる事のできる娯楽を目の前に、何一つその歳に見合った事をさせてやれず、辛い思いばかりをさせてしまっていたのだ。
 それも今や僅かばかりとはいえ状況が好転し、ようやく銀狐がそういった事へ手を伸ばすだけの余裕が生まれた。彼女の姉である金狐にとって、これほど喜ばしい事はない。
「あっ、そうだ。じゃあ、もう一つ聞いても良い?」
「はい、何で御座いましょうか」
「どうせ着飾るなら、私もこん姉ちゃんみたいになりたい。私、目が見えなくて分からないから。皐月さんから見たお姉ちゃんって、どんな感じなのか教えて欲しいの」
 これには金狐も少し身構えてしまう。決して盗み聞きをするつもりではないが、妹の姉に対する憧れの気持ちを知り嬉しく思いつつも、皐月が銀狐の質問にどう答えるかが気になってしまったのだ。
 金狐が襖の向こうに耳を澄ませていると、皐月は一度息を吸うような間を置いてから、
「金狐様は、とてもお美しゅう御座います」
 と切り出したのだった。
「縁台に御腰を掛けた御様子はまるで頭を傾ける白百合のように慎ましく、大道の先に立つ御姿は藤の花のように麗しくも、その一筋の刀の如き凛とした御背中からは、まさに狐一族の長『九尾の狐』より生まれし御令嬢に相応しい気品が窺えましょう。金狐様を一目見て心を奪われぬ者は一人もおりません。もし、金狐様が全土の妖怪達へ向けて挙兵の御声をかけたのなら、皆直ちに金狐様の元へ集い、その命を懸け全身全霊で戦う事で御座いましょう」
 過剰とも言える皐月の称賛に、金狐は身の縮こまるような恐縮の念を通り越して、肌のざわつくような落ち着かぬ恥ずかしさを覚えた。そんな姉が傍で聞いているとは知らぬ銀狐──まだ未熟な銀狐は気づいていないだろうが、底知れぬ妖力を隠す皐月の方は恐らく金狐の気配に気づいているだろう──は、明る気な声を上げる。
「本当? やっぱり私の想像通りなんだ。頭も良くてすごく優しいお姉ちゃんだもの、心だけでなく姿もきっと綺麗だと思っていたの。私もいつか、こん姉ちゃんみたいな、優しくて恰好良いお姉ちゃんになりたいなあ」
「銀狐様ならきっと成れましょう。金狐様と同じ血が流れております故、成れぬ道理は御座いません。……さあ、まずはこの髪飾りを御付けになって下さい。それから可愛らしい御姿をお見せになって、御姉様を驚かせては如何ですか」
「……うん。でも、こん姉ちゃん、気づいてくれるかな」
「何を仰りましょう。金狐様はいつも、銀狐様の事を気にかけております。何よりも愛しい妹様の変化であれば尚更、誰よりも先に気付かれ、お喜びになる事でしょう」
 皐月の言葉を聞き終わるより先に、金狐は静かにその場から立ち去っていく。
 今の話の流れから察するに、銀狐が髪飾りを付け身支度を済ませれば、この居間から出てくる事は間違いなかった。決してやましい気持ちで立ち聞きしていた訳ではないものの、この状況で襖の先から出てくるであろう銀狐と顔を合わせるのは、妙に気まずい心持ちがしたのである。
 ごんを介助してくれている皐月さんが私の事を探すだろうから、私は借りている自室で書でも読んでおこう。自室で待っていれば、二人とはちゃんと会えるだろう。それにしても、髪飾りを付けたごんの姿はきっと皐月さんの言うよう可愛いに違いないし、今から見るのが楽しみだ。そう思いながら、金狐は足音を立てないよう気を配りながら、いそいそと自室へ向かう。
 先程の会話からも窺えたが、ここ最近の皐月と銀狐は何かと親しくなっていた。皐月が努めて銀狐へ配慮してくれたおかげもあるだろうが、銀狐が彼女の事を少しずつ信頼し慕い始めているのもまた事実だった。
 自ら進んで自分の相手をしてくれる彼女に、銀狐が心を許すのも無理からぬ事であった。身の置き所無く各地を転々していた頃は、銀狐にとっての話し相手は姉だけであり、同じ年頃の友達どころか同性の遊び相手すら作る事が出来なかったのだ。それにはこちらの身分を隠さなければいけないといった理由だけでなく、彼女の目と耳が利かないせいも少なからず起因していたであろう。甘える相手も遊び相手も姉一人では、この年頃の子は満足出来ない。そこへ同じ歳とまではいかずとも、同性で落ち着きもある皐月が親身に接しくれたのだから、銀狐もようやく姉以外の他者へ寄り添う事が出来たのだ。
 そうして銀狐の話し相手が増えるのは嬉しい事であり、それによって彼女の表情や心が豊かになれば、金狐は安心出来るというものである。ただ、もしかすると、一度も見る事の出来なかった亡き母上の面影を皐月に見てしまっているのでは。そう考えてしまった時には、金狐の心内にどうも言葉として言い表せない靄がかかるのであった。
 一つ安心したと思えば、また心配事が生れ出てくる。今しばらくは腰を落ち着けられそうな妖怪の隠れ里を見つけたものの、銀狐の事に関しては、金狐もまだまだ気を落ち着けられそうになかった。
 自室へと辿り着いた彼女は、部屋の中へ入ってまず蝋燭に火を灯す。皐月邸自体が元から薄暗い中でもやや明るさを秘めているため、火を灯した皿燭台を手に持つだけでも、書を読むのに十分な光源は確保出来る。
 金狐は書机の前に腰を下ろし、書を読み始めた。
 内容は、和を以て民心を治めるという一つの統治論についてである。天下の賢人の間では最も広く支持されている書であり、これは以前、母上から読み書きを教えてもらう際に最も親しんだものでもあるため、彼女は完璧に諳んじる事が出来た。
 皐月の持つ書には、実に様々な種類がある。どこかの貴族が詠った詩や句などを集めた書もあれば、戦術や戦略について記録された兵法書までも置いてあり、物によっては書簡、また別の物は竹簡に記されているなど、古今東西の書という書を蔵書しているようであった。
 それらの蔵書を、金狐は皐月の厚意によって読む事が許されていた。おかげで本当に手の空いた時間を持て余す事はない。誇り高き狐一族「九尾の狐」の末裔として、彼女は一族の尊厳を汚さぬよう勉学を怠る事なく、こうした暇を見つけては書を読んでいた。特に最近は、皐月が銀狐の相手を良くしてくれるため、少し寂しいと感じてしまうほど自由な時間が出来てしまうのだった。
 そうなると、いつもは引き締めている金狐の気も緩んでしまうというもの。静謐な薄明かりの下、黙々と目で文字を追っている内に、金狐の首はうつらうつらと小さな波を打ち始めた。目蓋が開いては閉じるを繰り返すごとに重くなり、瞳は次第にその裏側へと身を隠しつつあったかと思うと、金狐の頭はついに、自分の右腕を枕に書机の上へと伏せてしまったのであった。

  ↓

 不意に鋭い寒気を覚えた金狐は、つと目を覚ました。
 起き抜けのために朧気な記憶を辿ろうと目元を指で擦り、自分の突っ伏していた書机を見遣る。そこに開きっぱなしになっている書を認めた彼女は、ああ、書を読んでいる内にいつの間にか眠ってしまっていたんだ、と理解した。
 自分が眠ってからどれくらいの時が経ったのか、金狐は知ろうとする。ここは地下にある里の邸であるため窓はなく、例え縁側に座っていたとしても空の光を望む事が出来ないため、今が何時なのかを知るのは難しい。
 彼女が辺りを見回した時、傍に置いていた皿燭台の蝋燭が目に留まったのだった。入室時には灯したはずの火の光はすでに消え、蝋も完全に溶け切っている事から、少なくとも一刻かそれ以上の時が経っているのだと推測出来る。
 それだけの時間が経っているのだと知った金狐は、次に銀狐の事が気にかかった。
 何故、ここで自分が書を読んでいたのかといえば、そもそも足を向けた先にいた銀狐が皐月と話をしていたからであり、その話の内容を聞く限り、少しすれば彼女達の方から自分のところへ会いに来るだろうと思えたからである。それにも関わらず、銀狐と皐月はいまだに姿を見せていない。髪飾りを付け身支度を済ませるのに一刻もかからぬはずである。
 気になった金狐は書机から体を離して廊下へ出ると、皐月邸内を歩き始めた。
 我ながら心配性だと思いながらも、唯一の身内である可愛い妹の妖気を探りながら銀狐の姿を探し求める。まず、最後に銀狐の姿を見た──正確には襖越しに銀狐の声と妖気を感じた──居間を覗いてみるもそこには誰もおらず、次に寝室、その後に銀狐のいそうなところや縁側に行ってみるも結果は同じであった。
 もしかすると外へ出掛けているのだろうかとも思い、金狐はやや焦るような気持ちを抑えつつ、しばらく自室で待ってみようかどうかと迷った。
 が、大事な銀狐の事を思えば、多少過保護であっても気にかけておくに越した事はない。我が妹は目も耳も利かず、彼女を補助する誰かが傍にいなければ、何らかの事故や事件に巻き込まれてしまう可能性も十分に考えられるのである。もし銀狐の身に何かあった後では、きっと自分は後悔してもし切れないだろう。
 そう考えた金狐が最初に思いついたのは、一番の信頼に足る捷天へ相談してみる事だった。
 金狐は早速彼に話をしようと、皐月邸の外へ出ようとした。駆け足気味に玄関まで行き、人の姿へ化けている以上必要である草履を履いていた時である。
「ん? 嬢ちゃん、どっか出掛けるのかい?」
 足元を見ていた金狐は、自分の前から聞こえてきた捷天の声に顔を上げる。
「ああ、捷天さん。良いところに……」
 金狐のやや急ぐような様子に眉をひそめていた捷天へ、彼女はなるべく大げさな物言いにならぬよう注意しながら、銀狐の行方について話をした。一人で考え込まずに他人へ事情を話していると、彼女も少し、自分の事ながらまるで娘を溺愛する母親のようだとも思え、省みた自らの言動に恥じらいを覚えない訳でもなかった。それでも金狐の話を聞いた捷天は、彼女の妹思いを茶化すような事はせず、至って真面目な態度で請け負ってくれたのだった。
「そりゃあ、嬢ちゃんも心配だろう。だけどよ、嬢ちゃんも狐なら、ごんちゃんのにおいを辿る方が早いんじゃねえか?」
 そう言われて、金狐は確かにそうだと気付かされた。この里に落ち着く前までは、彼女の傍に銀狐のいる状態が常であったため、わざわざそのにおいを辿るという狐らしい発想も半ば後退していたのだ。
 これでは本当に子煩悩な親のようだと照れながらも、金狐は銀狐のにおいを探り始める。が、すぐにそれも無駄に終わった。これはにおいに限った事ではないのだが、妙な事に、銀狐の妖気やにおいといった痕跡は皐月邸の中に留まっているものだけであり、一歩その外へ出ればそれらの一切がぷっつりと途切れてしまうのである。表の人通りが少ない事実を考えれば、余程時間が経過してしまったという事でもない限り、妖気やにおいが空気中で薄れたり、他の妖怪のものでかき消されたりする事はないはずだった。
 金狐は不思議に思いながらも、捷天へ向けて首を横に振ってみせた。
「そうか、駄目か。……だったら、そうだな、隣の燐火にでも聞いてみたらどうだ? あの姉ちゃんは結構世話焼きなところがあるからな。嬢ちゃんやごんちゃんの事も気にかけてくれているみてえだし、皐月からも何か聞いているかもしれねえ」
 彼の提案は冷静で的確であった。確かに燐火は皐月との親交が深く、時たま金狐達と皐月との間の言伝を頼まれてくれる事もあるため、こういった時にこそ真っ先に当たってみるべき妖怪であろう。
 金狐は捷天を伴って、早速燐火の住む隣の家屋を訪ねた。玄関先から家内へ彼女が控えめな声をかけると、しばらく返事もなく留守にしているように思えたが、次に捷天が張りのある声を出してみればすぐに反応があった。
「はいはい、今行くよ!」
 ただの猫だった頃の名残りか、木張りの床の上を足音一つ立てずに、やや猫背気味になった燐火が小走りで歩いてきた。金狐の前で立ち止まった彼女の微睡んだ目元を見るに、きっとさっきまで良く日の当たる縁側辺りで昼寝でもしていたのだろう──といっても、ここは地下のため太陽ではなく、土の天井に吊るされた提灯の仄かな光にしか照らされないだろうが。
 金狐は突然の来訪を謝りつつ、銀狐と皐月の事について尋ねた。すると、燐火は変だなという表情で「ありゃ?」という声を漏らす。
「あたしゃ、てっきり二人はもう家に帰っているものだと思っていたよ。いやね~、結構前の時分に、銀狐ちゃんを連れた皐月さんがここへ来て、伝言を頼んできたんだよ。『もし、金狐様が銀狐様をお探しになっているようでしたら、御心配は無用です。金狐様がお目覚めになるまでの間、少し散歩をして参ります』って言ってねえ? ……ただ、あたしゃ、伝言を忘れてついつい寝ちまっていたもんだから」
 燐火は気恥ずかしそうに首筋を軽く掻き、猫又らしい素振りで目を逸らす。
「いや~、伝えるのが遅くなって、悪かったねえ。さすがに、あたしもこんなに遅い散歩だとは思ってなかったからさ」
 頬から伸びた数本の白ヒゲを申し訳なさそうに垂れ下げた彼女を見て、金狐は何か気の利いた言葉をかけるべきかと迷った。すぐに言葉が出なかったのは、金狐はそれまで一刻も早く銀狐の行方を知りたいという思いだけを募らせていたからで、他人への気遣いが疎かになっていたのである。そう逡巡している金狐の様子を察した捷天が、彼女に代わって口を開く。
「いやいや、気にする事はねえ。皐月もわざわざ伝言にするんじゃなく、置き文にでもすればこんな入れ違いになる事もなかったんだ。……それで、皐月とごんちゃんがどこへ行ったかは分からねえか? せめて、里のどの方向へ歩いていったかだけでも分かれば助かるんだが」
「ああ、それなら」
 燐火は記憶を手繰るように少しの間を置く。
「確か、大通りを牛の方角へ歩いていったかね? 丁度、里の出入り口へ向かう方向さ」
 新たな手がかりを得た金狐は、燐火への挨拶を手短にしつつも礼を失さぬよう済ませ、彼女の指し示してくれた方向へ足早に歩いていく。ただの散歩であれば何も焦る事などないだろうと思いつつも、銀狐が姉である自分の傍をこれだけ長い時間と距離を離れた事は初めてだった故、妹の身に何かあってはと不安な気持ちを覚えずにはいられなかったのだ。いくら皐月と一緒にいるとはいえ、妹の姿をこの目で見るまでは安心などできないのである。
 小走りで道を抜けていく傍ら、金狐は周囲へ視線を走らせる。どこかの道端や軒先で一休みしている可能性もあり、あるいはたった今皐月邸へ帰る道の途中で、彼女の対向から歩いてくる数少ない通行人の中に紛れているかもしれなかったからである。妹の身を案ずるが故に僅かな見逃しもしてはならないと、同時に銀狐の妖気やにおいも探っていく。
 そうして銀狐の姿どころか妖気すら感じ取れぬまま、ついに大通りの果て、つまりは里の出入り口まで辿り着いてしまった。
 そのまま大通りを進んで突き当たった妖怪の隠れ里を包む岩壁には、丁度人に化けた姿であれば余裕でくぐり抜けられそうな大きさをした、一筋の裂け目がある。そこからは外界から流れ込んでくる森林の緑を感じさせる空気と陽の微かな斜光が漏れていた。金狐自身は森林内の斜面を転げ落ちて気絶している間に里へ運び込まれたため、実際にこの出入り口を見るのは初めての事であったが、この裂け目こそ外界とこの里を繋ぐ唯一の出入り口であろう事は理解できた。
 皐月さんとごんはこの出入り口を抜けたのだろうか。そんな不穏な事を考えてしまった金狐は咄嗟に頭を振り、もっと別の可能性があるはずだと思考を切り替えた時、
「なあ、嬢ちゃん」
 と、聞き慣れた声が背後から飛んできたため、はたと後ろを振り返った。
 そこには捷天が立っていた。どこか神妙な面持ちで眉をひそめる捷天を見て、金狐はたった今、自分と一緒に行動をしていた彼の存在を思い出した。愛しい妹の安否で頭が一杯だったとはいえ、自分の事を幾度となく助けてくれた彼の存在を少しでも忘れてしまった事を恥じつつも、気を改めて返事をする。
「どうしたんですか?」
「いやな~、どうも不自然だとは思わねえか? 皐月は今まで俺達、ああ、正確には嬢ちゃんとごんちゃんに対してだが、相当な敬意を払った言葉遣いやら振る舞いやらを取ってきただろう。それなら、例え一時の間だろうが、ごんちゃんを外へ連れ出すのであれば、その姉である嬢ちゃんに一声掛けるのが筋ってもんだ。それが今回に限って、何も言わず行動して、しかも一向に帰ってくる気配がない。と、なれば……」
 捷天の含みのある言い方を聞いて、金狐は先程振り払った不穏な考えを再び思い浮かべた。
 妖怪の隠れ里を隅々と探し回った訳ではない。だが、軽い散歩であるのなら、大通りから逸れて裏道や細道へ行く必要はないはずである。ここ最近の皐月も銀狐と少しずつ親しくなっており、彼女の目や耳の不自由さを良く理解してくれていたため、なおさら危険の潜む悪路へ銀狐の手を引く事など考えられなかった。ましてや、銀狐を里の外へ連れ出すなど、その理由が分からない。
 そうした困惑と不安の色が顔に出ていたのだろう。金狐の顔色を見た捷天は、少々慌てた様子を見せながらも努めるように明る気な調子を出す。
「いや、俺の考え過ぎだとは思うんだがな? 悪い癖だとは思っているんだが、どうも万が一の事を考えておかねえと落ち着かなくてな……、別に嬢ちゃんを脅そうって訳じゃねえんだ」
 悪い空気を作るまいとする彼の気遣いを、金狐はありがたく思った。これまでも自分やごんと接する時、彼は不器用な一面を覗かせながらも決して後ろ向きな様子は見せなかった。そこには狐一族と天狗一族の盟友としての絆以上に、捷天自身が抱いているであろう金狐達への義理と親しみが込められているのも良く実感できる。そんな彼の実直な姿勢は、数百年もの間を頼る身寄りや知り合いもなく逃亡生活を送っていた自分にとって、どれほど心強く目に映る事か。
 もし、捷天と出会う前にこれと同じような状況に出くわしていたのなら、きっと一人心細く不安な心地を抱えたまま気持ちだけが焦り、どうしたら良いか分からなくなっていただろう。そう思いながら、金狐は一度気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。
「大丈夫です。皐月さんは、とても心のお優しい方ですから、そんな事はないですよ。もしかしたら、どこかで気づかないところで入れ違いになって、もう自宅の方へ帰っているかもしれませんし……。一度、皐月さんの家に戻ってみましょう」
 そう提案した金狐が来た道を戻るべく踵を返しかけた時、捷天は何かに気づいたような素振りで彼女の傍を離れた。急な彼の行動を引き止める間もなく、かといって一人で道を引き返しても仕様がなかったため、金狐はその後を追っていく。
 捷天が歩く先は里の出入り口、その裂け目に近くの道の端である。そこに何かあるのだろうか、気になった金狐が口で確認しようとした矢先、彼は歩き出した時と同じく唐突に足を止めたのだった。
 危うく捷天の背中に衝突しかけた金狐は驚きながらも、そこから顔を覗かせ、彼の視線の先にあるものを目に留める。
 そこには、路端の岩に腰を下ろした妖怪が一体いた。しっかりした体格に布の服一枚を身に着けており、足元から頭までで目に見える限りの肌が青色に染まっている様子で、唯一色の違う箇所といえば瞳ぐらいである。
 これほど単純な特徴から、その妖怪が青坊主であろう事は、今まで妖怪界隈との交流を絶っていた金狐でも思い当たるところがあった。猫又やすねこすりといい、この里には本当に争いを好まない穏やかな気質の持ち主である妖怪が多いようだ。青坊主も不意に現れた自分達へ敵意を示す事もなく、何用かとばかりの表情をするだけであった。
「少し聞きてえんだが」
 捷天は口を開いた直後、どう聞こうかと言葉を選ぶかのように少しの間を置く。
「この辺りで、皐月を見なかったか? ちょいと用事があるんだが、邸にいなくてな」
「ああ、皐月かね……」
 捷天の問いに心当たりがあるらしく、青坊主は腕を組んで自分の記憶を掘り起こすように黙り込んだかと思うと、そのまま皺を寄せた眉間に瞼を下ろした瞳の表情のまま喋り始める。
「確か、数刻ぐらい前だったか、ここを通ったと思うね。……ああ、儂はここで昼寝をしとったんだが、そん時にちらっと横目に皐月の姿を見たように思う。あやふやで申し訳ないね。ただ、あの方は滅多にこっちへ来ないから、中々珍しい事だよ」
 その話を聞いた金狐は、捷天よりも先に青坊主の前へと踏み出す。
「本当ですか? その、もう一つお聞きしたんですが、その時の皐月さんはごんを連れていませんでしたか?」
「ごん?」
 そう怪訝そうに聞き返す青坊主の顔を見て、金狐はつと我に返る。
 この里では名も顔も知れた皐月とは違って、自分達はまだまだここに来て日も浅い新参者である。妹の名を出したところで伝わるはずがないのだ。少し前から皐月の手伝いで里内を飛び回っている捷天の事ならば多少とも知っている者もいるかもしれないものの、自分や妹はほとんど皐月邸の内で過ごしているために、いまだ隣人の燐火ぐらいにしか顔と名を覚えてもらっていない。数日前に里へ来た狐一族の姉妹だという事実があるのみであろう。
 何よりも妹の行方の手がかりを聞き出したかった金狐は、別の聞き方へと変えてみる事にする。
「えっと……、私と同じ狐一族の妖怪です。化け身だと背が小さくて、黒く長い髪の女の子になるのですが」
 聞くと、青坊主はつい今しがた思い出したとばかりに軽く手を叩く。
「ああ、確かそんな連れもいたな。そうそう、丁度お嬢さんそっくりの小さい女の子だったと思う。そういえば、里の外へと出たようだけど、あれから帰ってきたところを見ないね」
「里の外へ?」
 青坊主の言葉を最後に、金狐は頭を重い物で打たれたような感覚に陥った。
 何故、皐月さんは里の外へ出たのだろうか。しかも、わざわざ目も耳も利かぬごんまで引き連れた理由も分からない。そもそも、里を出て一体どこへ行くつもりなのか。様々な考えが頭を巡っては消えていき、また消えていった考えを掘り返しては頭を悩ませる。金狐は皐月とそれほど打ち解けていないにせよ、彼女の人となりや思慮深さは理解していたつもりであった事もあり、彼女の取った行動の意図がまったく測れないでいた。
 ともすれば気の遠くなるような心地になりかけていた金狐の肩へ、不意にしっかりとした頼もしい片手がかかる。振り向けば、そこにいた捷天はいつになく真剣そのものと言った険しい表情をしているのであった。
「嬢ちゃん、悪いがこいつは疑いようもねえぜ。やっぱり、あいつは腹に一物を抱えていやがった!」
 湧き上がる怒りを堪えるような捷天の声に押されて、金狐は途端に言いようもない不安に駆られて、里の出入り口である裂け目へと走り出したのだった──それとほぼ同時に、胸の奥のさらに奥底で憤怒や焦燥ともまったく違った熱っぽさがくすぶるのを感じたが、今は自分の体調に気を留める暇などない。妖怪に安寧と平和を与えてくれるという隠れ里を出る事に恐れはなく、ただ一心に、愛する銀狐の姿を求めるが故に。
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