第五幕 ―妖と人の相違とは如何に―

文字数 23,453文字

 遠望の山々が茜色に染まり始めた頃、弓千代の視線の先にようやく巫女一族の分社──大社ノ耶国内において、要所要所に配置された巫女の詰め所であり、その周辺地域の浄化や妖怪の監視などを担っている──が見えてきたのだった。
 分社まではまだ十分な距離がある内に、耄厳が弓千代へこう話しかけてくる。
〝桜の巫女、おぬしは確かあの分社に寄るのであったな。なれば、妖怪である儂は外で待っておいたほうが良いかな?〟
 弓千代はしばし考える。その事については、分社に一度立ち寄ると決めた時から悩んでいた事であった。
 最初は、分社での混乱を避けるため耄厳を一旦外で待たせるほうが良いかと思えた。が、そうする事によって被る不利益もある。目を離した隙に耄厳が仲間を呼び分社へ奇襲をかける可能性もあり、また逃亡されれば、これから向かう老山での天狗との交渉が滞ってしまう事も考えられた。妖狐の足取りがまったく掴めぬ現状において、妖怪である耄厳の手助けを失う事は弓千代にとって大きな痛手となる。
「いや、その必要はない。分社の者達には私からなんとか話してみよう」
 弓千代がそう答えると、耄厳がそれ以上口を出してくる事はなかった。
 分社まで後二町足らずと迫ったところで、弓千代は分社の様子を確認する。
 防壁に囲まれた砦の様相を呈した正面には、防壁の上に設置された物見櫓と出入口である門を構えている。目に見える限り、物見櫓には三人の巫女が立っていた。彼女らは見張り役の巫女なのだから、すでにこちらの姿を視認しているだろうし、妖怪を引き連れている事も妖気から察しているはずだろう。
 門前まで来た弓千代は立ち止まって物見にいる見張り役を見上げる。
「守護大社より、大総巫からの妖狐討伐の命を受け参った、『護ノ巫女』弓千代だ! 禁忌領内老山へと赴く道中なのだが、日も傾いてきた故、今宵一晩の宿をお借りしたい!」
「承った! しばし待たれよ!」
 返答を寄越した見張り役の一人が物見の奥へと姿を消す。
 しばらくして、姿を消していた見張り役が再び現れると同時に、分社の門が重い音を立てながら鈍く開かれた。中から分社の長である分司(ぶんじ)と副長である副司(ふくじ)が二人の巫女を引き連れて出てくると、その内の分司が弓千代の前に進み出る。
「お会いできて光栄です。弓千代様のお顔は存じておりますが、これも規則故、失礼ですがご身分の確認をさせて頂きます」
 分司が言い終わると、その後ろに控えていた二人の巫女がこちらへ近寄り、「失礼致します」と断ってから弓千代の腰巻きを丹念に調べ始めた。弓千代の身に着けている腰巻きは桜の刺繍が施された特殊な装束の一つである。これは『護ノ巫女』のみが身に着ける事の許された腰巻きであるため、その真贋こそが身分を証明するものとなる。
 調べ終わった巫女二人は「失礼致しました」と言って下がり、分司に問題ない事を伝えると再びその後ろへと控えた。弓千代の身分が証明された事で、分司もまず「大変失礼致しました」と頭を下げてから次の言葉を紡ぐ。
「妖狐の件については、我々も力を入れております。不審な妖怪が禁忌領へと立ち入っていないか、監視も徹底的に強化し、他の分社との連携や情報共有にも努めております。現在、こちらには不審な動きをする妖怪は見られず、ここより子と午の方角に配置されております分社からも異常を知らせる報は届いておりません」
 ところで──と、分社は声音を若干低くし続ける。
「何故、そこの妖怪が弓千代様のお傍にいるのでしょうか。見る限り、狼一族に属する妖狼のようですが……」
「ああ、これは耄厳と申す、分司の言う通り狼一族の妖狼だ。確かに滅すべき妖怪ではあるが、我々の妖狐討伐に利用できると判断した故、こうして捕虜として連れている」
 妙な疑いをかけられないよう、弓千代は毅然とした態度で説明したものの、やはり妖怪の存在を看過できないのか分司は耄厳をじっと睨みつける。それから、その引き締めた表情を保ったまま今度は弓千代へと視線を移した。
「このような事を聞くのは大変無礼だと存じますが。もしや、弓千代様は、妖怪に対してお心を許しておいでなのでしょうか」
 分司の浅慮な発言に、弓千代は純粋な怒りを覚えた。誰に向かって口を利いている、そう喉から出る寸でのところで言葉を呑み、毅然とした態度を崩さぬよう努める。ここで感情的に言い返しては心証が悪いだろう。
 何か言いたげな目つきをする小夜を横目に、弓千代は分司の目をしかと見返す。
「いや、そんなつもりはさらさらない。心配するな。私は『護ノ巫女』だ、妖怪共を調伏する事はあっても、奴らの邪な心に惑わされるような事など断じてない」
 弓千代の眼差しから何かを悟ったのか、分司は弓千代に向かって頭を深く下げ、「軽率な発言でした、とんだ無礼をお許し下さい」と己の非礼を詫てきた。
「守護大社からの遠征とあっては、弓千代様もさぞお疲れの事でしょう。さあ、どうぞ、中へお入り下さい。……ああ、ご心配なさらず、そこの妖怪の事は私の方から皆へ周知させましょう」
 先導する分司に従い、弓千代は分社の中へと入る。弓千代と小夜、耄厳が前を行くのを見届けた後、副司と二人の巫女もそれに続く。
 分社へ入場して間もなく、耄厳と弓千代は分社内にいる巫女達からの視線を浴びる事になった。それらの視線は弓千代へ対する敬意や耄厳に対する物珍しさといったものではなく、弓千代と耄厳とを交互に見遣る怪訝なものであった。中には口々に何かを囁き合っている巫女らの姿もある。
 それも当然の事だろう、弓千代はそう思った。かつて今日までに、分社とはいえ神聖なる巫女一族の社へ妖怪を招き入れた事など一度もない。しかも、それが自分のような『護ノ巫女』という重役によって持ち込まれた妖怪となれば、彼女らが私に対して嫌悪と疑心を抱くのも無理からぬ事だ。
 そう思っていると、弓千代の耳へどこから微かな囁き声で「もしかして、弓千代様は妖怪にほだされてしまったのかしら」という発言が聞こえた。後程、分司が公式として訳を周知させてくれるとはいっても、妖怪を絶対悪だと考える弓千代にとっては心苦しい言葉である。
 と、その言葉を弓千代が聞いた直後、小夜が彼女の傍から離れ、右手に見えていた三人の巫女へと大股で歩み寄っていった。唐突な小夜の行動を制止する事ができず、弓千代はつと足を止める。
「ちょっと待って下さい」
 弓千代は急いで小夜を引き戻そうと彼女の名を呼ぶも、その声は届かなかった。
「弓千代様はちゃんとお考えあっての行動を取っているんです。何故、謂れ無き言葉を浴びせられなければいけないんですか?」
「なんだ、お前は」
 巫女三人の内、特に目つきの鋭い巫女に睨まれた小夜は仄かに怯んだようだった。それでも何かの感情が彼女を奮い立たせたのか、すぐに相手の目を睨み返し、自らの勢いを押し込むように続ける。
「『護ノ巫女』である弓千代様への不当な中傷は、不敬罪にあたります。前言を撤回して下さい」
 目つきの鋭い巫女は小夜の腰から足元を一瞥する。
「袴の色を見る限り、お前は修練者のようだが?」
「そうですけど、それが何だと言うんですか?」
「ふっ、そんなお前のように末端の者が、巫女である私達に口を利く権利はない」
「それなら、巫女である貴女方も、『護ノ巫女』である弓千代様を中傷する権利などないはずです」
「貴様、口を慎め! 巫女に対する不敬は一族破門に相当するぞ?」
 弓千代はとても嬉しく思った。自分の尊厳を守るために行動を起こしてくれた小夜の勇気を心強く思うと同時に、二人を止めなければという気持ちが逸るものの、その言い争いの原因となった自分が二人の間へどう入れば良いか、少々迷い留まる。
 客観的に見ても、口論の口火を切ったのは小夜であり、また目上である巫女へ正当な理由もなく口を利いている点では彼女に非がある。小夜の言う事も間違ってはいないものの、彼女が巫女一族として未熟な立場である事と、弓千代が実際に妖怪を引き連れている事が事実である以上、形勢は不利だとしか言いようがない。
〝ふふ、やはり儂は顔を出さぬ方が良かったかな?〟
 弓千代だけに伝わるよう小さな思念で、耄厳がそう軽口を叩いてきた。
 弓千代は目線で「黙れ」と訴えるべく耄厳へ目を向けたところ、いつの間にか自分の左手後ろにはおらず、奴の妖気を辿って目を向ければ、耄厳は小夜と言い争いっている巫女のもとへと歩み寄っている途中であった。
 それに気づいた三人の巫女は弓を手に取り、手早く矢を番える。耄厳はその向けられた矢先を見ても足を止めず、少しも臆する事ない。
「妖狼、そこで止まれ!」
 目つきの鋭い巫女にそう警告された耄厳はようやく足を止めた。
「そのまま動くな。貴様のような不浄な妖怪は本来招かれざる存在だ。妙な気を起こしてみろ、即刻滅してやる」
 弓千代は、その巫女と耄厳との距離を見てこう考える。奴は巫女の警告を受け入れたから止まったのではない。この位置までなら巫女は決して矢を撃ってこない、そう判断したから止まった。巫女一族は有事の際に冷静な判断ができるよう、妖怪と対峙した時その距離に応じた客観的な対処法を教え込まれている。奴はそれを一瞬で理解したのか、もしくは以前から巫女一族との戦闘経験があったのか。どちらにせよ、伊達に何千年も生きた妖怪ではないらしい。
〝まあ、そう急くな〟
 耄厳が開口すると、弓矢を構えている巫女達の間に緊張が走った。
〝そう身内同士で醜い言い争いをするものではない。そもそも事の原因は儂だ。であれば、何故あの弓千代という巫女が、妖怪である儂を連れているかと皆思っておる事だろう〟
 弓矢を構える三人の巫女のみらなず、他の巫女達も黙して耄厳の話を聞いている。
〝儂はな、かの狐一族の生き残りに関する重要な情報をもっておってな? それで運悪くも、あの巫女に捕虜とされてしまったのだが。儂はなんとかしてこやつから逃げ果せようと、この分社へ入る際「儂がいては迷惑になるだろうから、外で待っておる」と提案したのだ。だが、こやつは儂の企みを見透かして「お前に逃げられては困る。一緒に来い」と返してきた。そこで儂が「一緒に行っては、巫女達が儂とお主の関係を邪推するであろう。そうなれば、お主の立場も危ういぞ」と甘言を弄すれば、こやつはきっぱりとこう言い放ってきた。「我々を見縊るな。巫女一族の者に、身内を疑うような下賤な輩はいない」と〟
 その耄厳の最後の言葉が、この場にいた全員の耳に行き届いたのだろう。皆々一様に目線を低くする。弓矢を構える三人の巫女は矢先と視線を耄厳へ向けたままだったが、奴の言葉にどこか思うところがあったのか、先程まで敵意の籠もっていた目つきに迷いが生じているようであった。
「戯れ言を、私を惑わそうと言うのか」
 目つきの鋭い巫女の語尾に続くように、耄厳は高らかな笑い声を上げる。それから弓千代を嘲笑うように見遣る。
〝どうやら、お主の目は節穴のようであったな。かつて、狐一族百三十五代目「九尾の狐」を討ち滅ぼした巫女一族とは違い、今の巫女一族は相当落ちぶれていたようだ。この程度であれば、我が狼一族でも……〟
「やめなさい」
 耄厳が言葉を続けようとした時、一つ厳かな声が響き渡った。
 見ると、その声の主は分司であった。それまで事の成り行きを静観していた彼女は、凛と細めた目元から覗く黒い瞳を耄厳へと差し向けていた。
「節穴は貴様であろう。我々巫女一族は規律を重んじ、明確たる序列に則った強固な繋がりを築いている。上は下に恩威を施し、下は上に忠節を尽くす。なれば、弓千代様の言に偽りはない事も明々白々。貴様がこの分社に入れたのも、我々が弓千代様を信頼しお慕いする故あっての事に他ならぬ。自惚れるでないぞ、妖狼」
 分司は大勢の巫女達へと振り返る。「どうだ、この中に弓千代様を疑うような不届き者などおるまい」そう確認を取る発言そのものは大衆へと向けられていたが、彼女の睨むような視線は特定の、弓矢を構える三人の巫女へと注がれていた。
 さすがに居心地が悪くなったのだろう。三人の巫女は構えていた弓矢を下げた。目つきの鋭い巫女は気まずそうな顔持ちで小夜をちらりと見る──同時に、弓千代の方へも一瞥する──も、すぐに目を伏せてしまった。
 そうした重苦しい空気が蔓延しない内に、分司が「さあ、皆持ち場へ戻れ。……ん? そこのお前達、まだ作業の途中ではないか。そう手を休めている間に、後三つは荷積が運べたのではないか?」と張りのある声を発した事により、巫女達はふと気づいたように慌てて体を動かし始めた。分社内は、まるで今が戦中であるといわんばかりの控えめなざわめきと乾いた砂埃に包まれていく。
 弓千代はこちらへと戻ってくる小夜と耄厳を見る。と、小さな笑みを浮かべた小夜が耄厳に向かって二言ほど何かを言った様子が目に入った。妖怪に親しげな表情を見せた小夜に、弓千代は複雑な感情を抱かざるを得なかった。先程の耄厳の虚言にどんな意図があるにしろ、弓千代の立場を救ってくれた事は紛れもない事実であるため、同じく彼女を守ろうとした小夜が奴に対して何か親近感のようなものを感じてもおかしな事ではない。だからといって、妖怪に心を許すなどあってはならないのだ。
「弓千代様、私の配下がご無礼を……」
 不意に声をかけられた弓千代は、その声の主である分司へと振り返る。
「いや、気にするな。それより、社内が随分と活動しているが、どこか妖怪の勢力が攻めてきているのか?」
「はい。妖怪と言っても、ほとんどが有象無象や魑魅魍魎の類ですが。狐一族の生き残りが現れたせいか、最近は禁忌領からの襲撃が頻発しているのです。所詮弱小妖怪である故大した事はないのですが、こうも続けて攻撃を受けては物資の消費が激しく、皆も気が立ってしまい、心身に疲労が積み重なるばかりで御座います」
 小夜と耄厳が弓千代の傍に戻ってくると、それを確認した分司に促されるまま、弓千代は先を歩き始める。小夜と耄厳にそれぞれ言いたい事や聞きたい事があったものの、それは後で落ち着いた時にでも聞いた方が良いと考えた弓千代は、分司とのやり取りに集中する事にした。
「そうか、恐らく他の分社も同じような状況にあるだろう。何か足りぬ物があれば遠慮なく申せ、私が守護大社へと書簡をしたためよう。ここだけを贔屓する訳にはいかぬだろうが、ここが禁忌領の監視を担う要である事も考慮すれば、多少の融通は利かせてくれよう」
「お心遣い感謝致します」
「それと、先程は不審な動きをする妖怪はいないとの事であったが。後でここ最近の状況をまとめた書簡や各分社からの報告書などを私に見せてくれ。事が事だ、自分の目でも確認したい」
「承知致しました」
 分司が自分の肩を見るように、背後から続く副司に暗黙の指示を送ったようだった。弓千代との会話からもその意図は容易に察せたのだろう。副司は「失礼致します」と一言断りを入れてから、二人の巫女を連れて足早に先へと歩いていった。弓千代の要求した書簡などをまとめておくため、分社内の中央にある、宿舎などに囲まれた本殿へと一足先に向かったのだろう。
 弓千代は分司と話をしつつも、同時に禁忌領へ入る前に用意しておくべき物についても考えていた。食料はもちろん、少しでも早く老山へと到達できるよう、森林の入り組んだ地形や山の斜面などに適応した強い脚を持つ馬も欲しいところである。
 分司の話を聞く限り、度重なる襲撃を受けているこの分社から貴重な物資を頂戴するのも難しいように思われた。ここは数ある分社の中でも、本社である守護大社から特に遠隔の地にあり、また禁忌領との境界線手前に位置するため妖怪との交戦も一際激しい。この要害の分社と多くの巫女の命を預かっている以上、分司もそう簡単に兵糧や兵馬を分け与える訳にはいかないはずである。分司とどう交渉するべきか。彼女と同じく、必要な物資の不足している弓千代達にとっても悩ましい事であった。

 まだ日が落ちて間もない、浅い夜。
 分司との諸々の話を済ませた弓千代達は、酉門の防壁の内側に取り付けられた見回り用の通路に立っていた。彼女は防壁の矢狭間から外を眺める。弓矢を放つために確保された窪んだ穴から望めるのは、禁忌領の大半を占める窮屈な森林と山々、そしてその中央に鎮座する老山の一角である。夜の暗闇のせいで輪郭ははっきりとしていないものの、老山から放たれる強大な妖気がその存在を際立たせていた。夜目の利かない巫女達の目にもそれだと分かるほどに。
 弓千代は外の様子から一度目を離し、視線を左右に振る。付近には哨戒している巫女数人の姿がある。巫女達は緊張しているような強張った表情をし、よく見なければ分からない程度に肩を張っていた。普段はいるはずのないその場に、『護ノ巫女』である弓千代の存在があるからであろう。
 弓千代は禁忌領方面の外の様子を確認するためにここへ来ていた。これ以上ここに留まっては皆が肩に余計な力を入れてしまうだろう、そう思った彼女は早々に通路を歩き出す。後ろからは小夜と耄厳が続く。
 今の弓千代には思案している事が一つあった。
 それは小夜の事である。先刻での分司との交渉、食料や兵馬を分けてもらえないかという話は案の定承諾してもらえなかった。戦において、ほんの僅かな物資の差が勝敗を大きく左右する事もあるため、それは仕方のない事とはいえ、せめて足となる兵馬だけでも弓千代は欲しかったのだ。というのも、まだ実戦や遠征経験の乏しい小夜には、老山までの道のりがあまりにも酷だと思われたためである。弓千代と耄厳だけであれば昼夜を問わず走り続ける事ができるものの、まだ修練者である小夜では、そのような過酷な移動に体力がついてこないだろう。
 なれば、ここは一旦小夜を分社に待機させ、耄厳と私だけで老山へ向かうべきだろうか。事も急を要しているのだから、それが得策ではないか。
「小夜」
 弓千代は足を止め、小夜の顔を振り返る。
「はい、なんでしょうか」
 小夜は立ち止まり、弓千代の顔を見上げた。両手を体の前で慎ましくまとめ、どこか不安気ながらも健気な表情をし、弓千代の次の言葉を待っている。
 そんな彼女の表情が弓千代の継ごうとしていた二の言葉を躊躇わせた。小夜をお供とする事を許したのは弓千代である。それなのに今度は自分の都合によって彼女を突き放してしまうのは、小夜の意志を蔑ろにする行為ではないかと思えたのだ。
「いや……。そういえば、あの時の礼を言っていなかったなと思って」
「え? あの時?」
「そうだ。巫女達が私への疑心をふくらませる中、お前は私を想って行動を起こしてくれただろう。それが嬉しかったんだ。ありがとう、小夜」
 弓千代が小夜の頭に掌を置くと、小夜は照れ隠しをするように目を伏せる。彼女の少女らしい素直な反応は、弓千代にささやかな安らぎを与えた。
 思わず別の話題を振ってしまったが、これも弓千代の本心である事に変わりはない。小夜は弓千代の事をとても慕っている。だからこそ、弓千代も小夜を愛おしく思い、その好意に応えようとまるで実の妹であるかのように彼女と接してきた。
 今まで、弓千代は毅然とした態度で『護ノ巫女』の責務を果たしてきた。その姿勢が時として、今日の言い争いのような誤解を生む事も何度かあった。それでも、小夜は常に弓千代の味方であり続け、「いつか、私も弓千代様のような巫女になりたいです」と一途ともいえる憧れの念を絶えず抱き続けてくれている。
 そんな彼女を今ここに置いていってしまえば、弓千代の考えを理解こそするだろうが、小夜はきっと胸の奥に湧く悲しさと悔しさを押し殺してしまうだろう。
 公私を分けるべき事は弓千代も重々承知している。彼女が巫女一族へ入門したのは絶対悪である妖怪を滅するためであり、目下その妖怪を滅する命を受けている以上、それを全うするために最善と思われる手段を取るべきである。
 弓千代が心の内にある私情を抑えこむようにし、もう一度小夜へ声をかけようとした時。
〝桜の巫女よ〟
 目線を小夜よりずっと下へ向けた先にいる耄厳から声が飛んできたのだった。思いもよらぬところから邪魔が入ったため、弓千代は苛立ちを覚えつつも、どこかほっとしたような心持ちになる。
「なんだ」
〝いや、別に大した事ではないのだがな? こやつだけにでなく、儂にも何か一言あっても良いのではないかと、そう思ってな〟
 言われて、弓千代はそういえばとあの時の事をさらりと思い出す。自分への疑心や小夜の言い争いを鎮めるよう働きかけてくれたのは、他でもない耄厳であった。それによって事が好転したのも事実だが、妖怪を毛嫌う弓千代にとって、小夜にした礼と同じように耄厳へ感謝の言葉を述べる気が起きる訳もない。
「いや……」
「そ、そうでしたね」
 弓千代が耄厳を突っぱねようとしたところ、小夜が慌てた様子で割り込んできた。彼女は自分の目線を耄厳の目線に合わせようとぎこちない動作で膝を折ってから、弓千代よりも率先して礼を述べる。
「えっと、耄厳さん。その、私や弓千代様を助けてくれて、ありがとう御座いました」
 耄厳は薄っすらと笑うような目の色を浮かべた。
〝お主からはもう聞いた。二度もいらんよ〟
 耄厳の「もう聞いた」という発言から、弓千代はあの時に、笑みを浮かべた小夜が耄厳へ二言ほど何かを言っていた光景を思い出した。恐らくその時に礼を聞いたという事なのだろう、そう合点のいった弓千代は、丁度良いとばかりにその時小夜に言えなかった事を口に出す。
「小夜、あまり妖怪に心を許すな。お前は心が優しいから、一度貰った恩に義理を感じてしまうだろうが、相手は所詮妖怪だ。腹の中では何を考えているかも分からぬ」
「えっ……」
 小夜は悲しそうな顔をして俯く。
 物分りの良い小夜の事だからきっと私の言った事を理解してくれるだろう、そう思っていた弓千代に対して、彼女は少し躊躇うような素振りを見せた後、こう口を開く。
「でも、巫女に歯向かう危険を犯して、あんな嘘を吐いてまで、弓千代様と私を助けてくれましたし。確かに耄厳さんは妖怪ですけど、そんなに悪意があるようには……」
 徐々に下がっていく目線とともに、小夜は口籠るように語尾を濁した。
 弓千代は驚いていた。いつもであれば、弓千代の言う事を素直に聞き入れてきたはずの小夜がたった今、半ば弓千代への反論ともいえる言葉を返してきたからである。何故、小夜が自分に反論してきたのか。今までの小夜の姿を思い返している内に、弓千代はつと気づく。
 小夜は少しずつ変化しているのだ。守護大社という一族の檻から出てこの旅で経験を積み重ねていく中で、これまでは弓千代の後ろをただ歩くだけだった彼女が、ゆっくりと確実に自分の考えというものを身につけ始めている。だからこそ、分社に妖怪を連れた弓千代が疑心の的となったあの時、それが一つの行動として現れたのだ。加えて、今程弓千代に対して意見した事も同様だろう。
 それだけでなく、小夜の妖怪に対する考え方も変わりつつあるのだろうか。巫女一族として教育を受けてきたといっても、小夜はもともと妖怪への強い嫌悪感を抱いていた訳ではないから、それもありえる話だ。だが、妖怪を好ましく思うなどあってはならない。妖怪は絶対悪である。人間の大事なもの、私の大事なお輪を奪った憎悪すべき、滅ぼすべき醜悪な存在なのだから。
「あの……、弓千代様?」
 小夜の声に気づき、弓千代はふと我に返る。目の前には、心配そうに弓千代の顔を覗き込む小夜があった。
 どうやら自分はじっと黙り込んでしまっていたらしい。そう理解した弓千代は、咄嗟に「いや、確かに小夜の言う事にも一理ある」と半ば心にもない返事をし、それまでの沈黙の不自然さを取り繕おうとする。
「そういえば、今の話で思い出したのだが。耄厳、お前はあの時、何故あんな出鱈目を言って私達へ助け舟を出した? あのまま私達に言い争いをさせていた方が、お前達妖怪にとっては好都合だっただろう」
 弓千代が純粋な疑問を口にしただけであったが、耄厳は彼女を小馬鹿にするような呆れた表情を見せる。
〝儂がお主に協力している理由を忘れたのか? 儂の目的は、お主を通じて妖怪に対する巫女一族の不当な仕打ちをやめさせる事だ。『護ノ巫女』としての立場が危うくなってしまえば、お主の妖怪に対するその偏屈な考えを改めさせる意味もなくなろう〟
「つまり、妖怪としてではなく、お前の目的のためだけに動いたというのか?」
〝そのとおり。儂にとって、巫女一族は天敵であっても、憎い敵ではないからな〟
 耄厳の言おうとしている意味は理解できるものの、妖怪の野蛮さを考えればいまいち納得のいかない弓千代は、奴の真意を掴もうとさらに追求する。
「だが、巫女一族は皆、お前達のような妖怪を憎い敵と見ている」
〝それは仕方なかろう。あやつらは皆、そういう教育を受けているのだからな。だからこそ、儂はその教育の根本を正そうと、桜の巫女に働きかけておるのだ。自分と違う生き物を一方的に虐げているだけでは、いずれ人間も妖怪も滅びるだろうからな。まあ、なんというべきか、これは儂らの本能みたいなものだ〟
「本能だと?」
〝そう、儂ら妖狼は何千年生きようが、根っからの狼だ。生まれた時からずっと群れの中で生きているせいか、身内の喧嘩や争い事には敏感でな。そういった事が起これば、群れの中の誰かが必ず仲裁に入る。何故だが分かるか? 儂ら狼は、強大な敵から身を守るためには、群れ全体を危険に晒すような仲間割れなどを起こしてならないと、すでに学んでいるからだ〟
「だが、それは身内での話であろう。私達人間のいざこざに、お前のような妖怪が仲裁に入る義理はないはずだ」
 その弓千代の言葉に、耄厳はもっともだと頷くどころか、失望の色を窺わせんばかりの溜息をついた。
〝桜の巫女よ、まだ分からぬのか? そのような人間と妖怪の区別など、所詮些細なことに過ぎぬ。生活、寿命、外見、そういったものが違うだけで、妖怪も人間も皆同じ生命を持ち、心を育んでおるのだ。そうだな、……いや、お主に聞くより、こっちに聞いた方が早かろう〟
 耄厳は見切りをつけたように弓千代から目を離し、その真っ直ぐな視線を小夜へ向ける。耄厳の目つきには、野生を何千年と生き抜いた確固たる芯と、それに裏打ちされた自己の信念に対する自信が見て取れた。
〝小夜、素直に答えてみるが良い。もし、桜の巫女が人間から妖怪に変わり果ててしまったとして、それを人間が理不尽に滅しようとしたら、お主はどうする?〟
「なっ!」
 何を戯言を!──そう弓千代が食ってかかろうとした時、小夜は迷う事なく、
「私が、弓千代様をお守りします」
 と、そうきっぱりと言い切った。
「こんな私一人じゃ、弓千代様を守る事ができないかもしれません。でも、私にだって、今日のあの時みたいに抗議する事ならできます。弓千代様は決して悪い方じゃないって、訴える事もできます」
〝しかし、お主は巫女一族だ。そんな事すれば、一族どころか人間全てを敵に回すかもしれんぞ? それに桜の巫女が妖怪であれば、どんな造形をしているかも分からぬ。その造形は決して、人間の受け入れられる外見のそれではないかも知れぬのだぞ?〟
 耄厳は執拗ともいえる意地の悪い聞き方をした。だが、そこに悪意がない事は耄厳の目を見れば明らかである。そんな意地の悪い聞き方をされてもなお、小夜の顔には一切の迷いがないようであった。
「強くて優しい弓千代様が例えどんなお姿であっても、私の憧れである事に変わりはありません。もし、巫女一族を敵に回す事になれば、私は耄厳さんと同じような行動を取ります」
 小夜の答えに満足したのか、耄厳は〝そうか、分かった〟とだけ言って、もう一度だけ弓千代の顔を見やる。弓千代を見る目には、今程まで小夜に向けていた真っ直ぐな色はなく、代わりに何かを哀れむような感情が静々と籠もっていた。
 それからすぐに、耄厳は先へと足を踏み出す。緩慢とした歩みで弓千代の横を通り過ぎる時、彼女にだけ聞こえるような小さな思念でぽつりと呟く。
〝……さて、お主はどうか。今は聞かんでおくよ。あえて聞いて、小夜を悲しませる事もなかろう〟
 弓千代は返す言葉もなく、ただ耄厳の言葉を噛み締めるばかりであった。
 奴が言いたい事は、小夜へ聞いた内容の逆だろう。もし、小夜が妖怪へと成り果てた時、お主はどうするか。耄厳の言う通り、その質問をされれば、弓千代には小夜のように即答できる自信がなかった。今の小夜の言葉は彼女にとって、とても心強くありがたいものであったものの、同時に心苦しさを覚えるものでもあったのだ。
 よく考えれば、耄厳の質問に対して弓千代も「小夜を守る」と答えを出すであろう。だが、その答えを出すためには、巫女一族としての立場や妖怪に対する憎しみ、小夜への信頼などを今一度改めて考え直すという膨大な時間を要するのであった。
 こんな私を見た小夜は一体どんな思いで、どんな顔をするのだろうか。弓千代は小夜に今の自分の表情を見せるのが怖くなり、彼女の方を振り返る事もできぬまま、耄厳の歩いていった後をただ黙して辿っていくしかなかった。

 見張り以外の者が寝静まった、その夜更け。
「敵襲!」
 分社を訪れた来客用の宿舎で寝ていた弓千代は、どこからか聞こえてきた甲高い声と警鐘で目を覚ました。有事の時のために巫女装束を着たまま寝ていたので、床から飛び出すと、傍に立てかけてあった妖打と矢筒を手に取るなり、すぐに宿舎の外へと走り出た。
 外では大勢の巫女達が慌ただしく動き回っていた。警鐘が鳴り響く中、あちらこちらから語気の強い指示が飛び交い、混雑する人の間をすり抜けるように弓矢を運び出す者や松明を掲げて各所へ明かりを届ける者もいる。とても夜更けとは思えぬ喧騒だ。
 弓千代は「おい」と近くを通りかかった巫女を呼び止め、「何事か」と状況を聞き出す。
「弓千代様。禁忌領方面より妖怪の大群が押し寄せてきたのです。しかも、魑魅魍魎や有象無象だけでなく、あの……、がしゃどくろが数体……」
「馬鹿な! がしゃどくろ一族は、数年前に我々が一体残らず滅ぼしたはずだ」
「嘘では御座いません。今、酉門に結集した巫女達が籠城の構えにて大群の進行を防ごうとしております。ですが、あの大群とがしゃどくろ相手では、じきに分社へと到達されてしまうでしょう。どうか、弓千代様のお力添えを!」
 弓千代は無意識の内に舌打ちを零し、酉門の物見へと向かう。動き回る巫女達を躱しながら走り、酉門に着くや見張り用の通路へと登る。通路ではすでに臨戦態勢を取っている巫女らの姿があり、その通路のさらに上へと取り付けられた足場には、特別な訓練を受けた巫女が立っており遠射による威嚇を開始していた。弓千代は彼女らの後ろを走り抜け、そこから門の上に構えられた物見へと一気に駆け上がる。
「弓千代様! あれを!」
 彼女の到着に気づいた巫女がそう指差すまでもなく、弓千代は遠方に広がる禁忌領を真っ先に見渡していた。
 そこには確かにがしゃどくろの姿があった。その鈍く不気味な光を纏った白骨の巨体で森林を掻き分けながら、脇目もふらずにこちらへと向かってきている。更けた夜の闇よりも深い暗闇を抱えた眼窩は、本来であれば物どころか光すら見えぬはずであるのに、まるで見るもの全てを吸い込まんばかりの視線をはっきりと示していた。そんな存在感を持ったがしゃどくろが一、二、三、四体もいる。そのあまりにも強大な妖気があっては、奴らの眼下で群れる有象無象の多勢など瑣末な粉塵に見えてしまう。
 弓千代は自分の見間違えかとつい思ってしまい、隣に立っていた巫女の肩へと掴みかかる。
「あれは、なんだ? 私には四体のがしゃどくろが見えるぞ!」
 掴みかかられた巫女は、眼前に迫る妖怪の気と詰め寄る弓千代の板挟みに合うような困惑の色を浮かべながらも、怖ず怖ずと口を開く。
「そうです、四体のがしゃどくろです。今、遠射によって警告しているのですが、進行を止める気配は全くありません。今までの襲撃とは規模が大きく違う事から、恐らくこの分社を徹底的に破壊するのが目的かと」
 弓千代は巫女の肩から手を離し、再び数体のがしゃどくろへと目を向ける。
 ここからでも奴らの並々ならぬ妖気の重圧が肌で感じられ、足元からは巨大な骸骨の足踏みによる深い地鳴りが伝わってくる。それらの確かな実感によって、あやつらは幻覚ではなく本物のがしゃどくろである事実を思い知らされた。
 数年前のがしゃどくろ討伐遠征には弓千代も従軍していた。その手でがしゃどくろ一族を滅ぼしたからこそ、何故自分の目の前にその討伐したはずの妖怪がいるのかと、疑問を抱かずにはいられなかったのだ。
 だが、そんな事を悠長に考えている暇はない。四体のがしゃどくろは今や、分社まで後一里足らずというところまで迫ってきている。遠射による警告も無視するというのであれば、残された術は一つ。
 弓千代は背後にいる巫女達へと振り返る。
「ここでの指揮官は誰だ?」
 そう聞いてからややあって、はっとしたように一人の巫女が弓千代の前へ進み出る。
「私で御座います」
「お前か。では、今から私の言う指示を皆に伝えろ。『これより、我々は分社より出、奴らとの正面交戦に移る。すでに物見と防壁に配置している者以外はこれに加わり、死を覚悟してこれにあたれ。がしゃどくろの脅威は甚だしく、奴らの分社への到達は我々の敗北を意味すると心得よ』と。すぐに皆を門の前へ召集しろ、急げ!」
「御意!」
 指揮官である巫女は傍の数人に伝令を指示し、弓千代の言う通り行動を始めた。
 弓千代もすぐに動き、物見から降りて酉門の内側に待機すると、用意させた一頭の馬へと跨った。内に間もなく分社内の巫女達のほとんどが弓千代のもとへと集結し、気づけばその中には耄厳と小夜の姿もあった。こちらを心配そうな顔で見る小夜の姿を認めた弓千代は彼女へと近づき、声をかける。
「お前はここで待っていなさい」
「嫌です。私も弓千代様と共に戦います」
 弓千代は馬から降り、小夜の目線に合わせるよう膝を折る。
「小夜、これはお前にはまだ早すぎる。相手は魑魅魍魎の大群だけではなく、強大な体躯と妖力を持ったがしゃどくろが四体もいるのだ。いくら私でも、お前を守り切れるかどうかも分からぬ」
 弓千代は小夜の事を第一に考え、本心からそう言った。だが、小夜が弓千代の言葉を良しとはせず、頑な面持ちで首を横に振った。
「私は……、いつまでも弓千代様に守られてばかりではいられません。弓千代様は、今回の旅に私のお供を許して下さった時、こう仰ったではありませんか。『自分の身は自分で守る事』私は自分の身を守れるようになった上で、弓千代様をお守りしたいのです」
 弓千代の目を真っ直ぐと見返す小夜の表情はいつになく力強く見えた。彼女の真剣な眼差しを見れば、その言葉は決して勢いから出たものではなく、確固たる自分の意志から発せられたものだと分かる。
 ふと、小夜はきっと結んだ口端を緩めた。力強い表情をみるみると変化させ、どこか不安気な様子を押し殺すように眉尻を下げて、弓千代へすがるような瞳を覗かせる。
「それとも、私は、小夜はまだ、弓千代様の足手まといなのでしょうか?」
 その小夜の言葉を聞いた弓千代はこう思う。もしや、私が小夜を置いて老山へ向かおうとしていた考えを悟られてしまったのだろうか、と。だが、小夜の瞳をじっと見つめる内に、彼女の心にある本当の不安がぼんやりと掴みかけてきた。
 いや、真に案じるべきはそんな事ではないだろう。私はなんて浅はかなのだろうか。旅の初めは、小夜を信頼し巫女一族として成長させるために連れていたはずであるのに、いつしか私は小夜をどう守るかという過保護な考えに固執するようになり、そんな自分自身が彼女の成長を妨げてしまっていた。もう十数日も前、私は小夜に「一族に相応しい佇まいに成長している」と言った癖に、その実は小夜の努力をこの目で確かめようともしなかった。小夜はいつか巫女になるのだ。なれば、これもまた初陣としてはうってつけの機会ではないか。小夜を置いて私と耄厳だけで老山へ行くべきかを決めるのは、この戦いで小夜の活躍を見てからでも遅くはないはず。
 弓千代は立ち上がり、小夜の心意気をしかと受け止める。
「分かった。お前の好きにしなさい」
 弓千代の返答を聞いた小夜は途端に表情を明るくしたと思うと、次に気を引き締めるような声で「はい!」と返事をした。
 そんな小夜と弓千代のやり取りを聞いていたのか、耄厳の口元がまるで子を見る親のように緩んでいた。弓千代が耄厳に「なんだ」と聞くと、耄厳はただ〝いや、なんでもない〟と答えただけであった。
 弓千代が再び馬に跨った時、指揮官である巫女が彼女のもとへと駆け寄ってきた。
「弓千代様、分社に配置済みの者以外の巫女は全員集まりました。また、分司より言伝にて、『正面交戦の構えはご英断に御座います。分社に残りし我らはしかと後方を守ります故、弓千代様はご安心の上で野戦にご専念下さい。ご武運を』と」
「そうか。では、分司にこう伝えるのだ。『我らの戦利品は勝利のみ。もし敗北を喫する事あれば我が首を以てお詫び致す』と」
 指揮官へ手短にそう伝えた弓千代は集結した巫女達へと振り返り、号令を出す。
「これより、私がお前達の指揮を執る! 良いか、奴らを一匹たりともこの分社へ近づけるでないぞ! 奴らを殲滅したその時こそ、我々がここへ生還できる唯一の勝利と思え! 私が先陣を切る、皆我に続け! ……いざ、開門ッ!」
 弓千代の合図と共に門が開かれると、弓や薙刀を手に取った巫女達は弓千代を先鋒に、迫り来る妖怪の大群へと怒涛の勢いで進軍を開始した。
 森林を侵食するように進行してくる妖怪の大群との距離を、弓千代率いる巫女達は着実に詰めてゆく。森林の中へ入り、仰角に望むがしゃどくろの上半身を目印にしながら、木と木の間を通り抜けるように進む。ここら一帯はまだ森林の端であるため、木々同士の間隔が広い上に空を遮る枝葉の天蓋もほとんどなく、地の利上はほぼ互角に思われた。こちらの不利な点といえば、がしゃどくろとの余りある体格差と単純な手数の違いである。少なくともがしゃどくろ四体をこの森林で滅する事ができなければ、奴らの体躯に囲まれた分社はもはや砦の意味をなさず、赤子の手を捻り潰すが如く崩壊してしまうだろう。
「おい、そこのお前!」
 弓千代は自分の傍を並走する巫女へ指示を出す。
「後方にいる者達へ伝えろ。『我々前衛が敵と相対した時、後軍は手頃な木を櫓と見立て、前衛の援護射撃へと移行しろ』と。加えて、前軍の者達へはこう伝えろ。『弓矢を構え、弓千代の合図と共に一斉に射撃した後、白兵戦に移行しろ』と」
「御意!」 
 指示を受けた巫女は乗っている馬の手綱を操り、前方を向いたまま自軍の後方へと回り込むよう外側を移動しながら、徐々に速度を落とし始める。「弓千代様より命を伝える! 『前軍は弓矢を構え、弓千代様の合図と共に一斉射撃をした後、白兵戦に移行しろ』。繰り返す……」そう大声を上げつつ、じきにその巫女の姿は後方へと消えていった。背後では弓千代の指示を受けた巫女達がすぐに弓矢を放てるよう準備を始める。
 次第に、がしゃどくろの地鳴りと魑魅魍魎の唸り声が敵の接近を示すように大きくなっていく。目の前に広がる木々で姿は見えなくとも、仰角に望むがしゃどくろの姿と迫り来る妖気の波によって、魑魅魍魎の位置は手に取るように分かった。
「構え!」
 前方の巫女達は矢先を水平よりやや上へと向ける。
「放てッ!」
 弓千代が一本の破魔矢を放つと、その後に続くよう一斉射撃された破魔矢の雨が敵の先陣を襲い大きく切り崩す。弓千代達がすぐに弓矢から薙刀や刀へと持ち替えた時、互いの勢力は中背ほどの木々が林立する森の中で衝突した。弓千代含む前衛の巫女達は、目の前よりわらわらと踊り出てくる有象無象を次々と切り伏せ、後衛で木の上へ陣取った巫女達は、破魔矢を以て前衛の弓千代達を援護していく。
 有象無象はどれだけ群れようとも雑魚に過ぎぬ。例えこちらが手数の劣勢にあろうと、冷静に陣取って対処すれば決して負けはせぬ。問題はあのがしゃどくろだ。巨体故にその動きはさして俊敏でもない事から、奴らの攻撃をなんとか捌きつつ、まずはがしゃどくろを受け切れるよう十分な足場を築くため、目の前の有象無象をある程度滅しなければならない。
 と、上空を見上げた弓千代は視界の両端に映った二体のがしゃどくろを見て、咄嗟に声を張る。
「皆、一度下がれ!」
 弓千代の声に気づいた巫女達は、その指示を周囲の味方へ周知させようと「後退! 後退しろ!」と伝えていく。彼女らの声を聞いたらしい巫女達はまばらながらも、弓千代とともに一旦後退していく。すると、つい今程まで弓千代達のいた場所が、突然横薙ぎするように湧いて出た二つの大骨の掌によって容赦なく抉られ始めた。その場に溜まっていた有象無象や逃げ遅れた巫女らが巻き込まれ、大地を抉る轟音に紛れて妖怪や人間の悲鳴が混ざり合う。
 弓千代は立ち止まり、大地を抉ったがしゃどくろ二体を見上げる。
 奴らは、自分の手で握ったものをむき出しの口へ押し付けた。土、木、妖怪、巫女などが混ざっているのも気にせず、生まれ持った大顎でそれらを咀嚼し、喉の奥へと流し込む。そこには皮膚も食道も胃袋もないため、飲み下したものは当然肋骨の隙間から零れ落ち、無惨な姿になった咀嚼物が再び大地へと還っていく。
 がしゃどくろには骨以外なにもない。そのため、奴らが取る攻撃の手段は、手足で一蹴するか潰すか、大顎で噛み砕くぐらいしかない。かつて、がしゃどくろ討伐の際も、その脳のない手段によってどれだけ多くの同胞が奪われた事か。
 つと、弓千代は小夜の事を思い出し、辺りを見回した。がしゃどくろの脅威を目の当たりにする巫女達の中から、小夜の姿を見つけようと懸命に目を走らせた。どこだ。小夜、奴らの餌食になって……。
〝そう狼狽えるな〟
 弓千代の足元、彼女の乗っている馬の眼下から耄厳の声が聞こえた。
 見ると、そこにはこちらへ視線を遣る耄厳の姿があった。さらによく見れば、制御していた妖力をいくらか解放したのか、二回りほど体を大きくした耄厳が子狼へそうするように小夜の襟元を咥え持ち上げていた。小夜の姿を認めた弓千代はひとまずほっと胸を撫で下ろし、改めて自分の気を引き締め直す。
「早く小夜を離せ」
〝桜の巫女よ、少しは感謝してもらいたいものだ。儂がこうしなければ、今ここに小夜の姿はなかったぞ〟
 そう不機嫌そうに言いながらも、耄厳は優しい所作で小夜を離した。地にしっかりと立った小夜は耄厳へと向き直り、「ありがとう」と礼を述べる。
 どうやら、奴の言っている事は本当のようだ。こいつには小夜を助ける義理などないだろうに、わざわざ自らの身の危険を冒してまで小夜の命を救ってくれたらしい。同じ妖怪でも、あのがしゃどくろは非情にも命を奪い、耄厳は情を以って命を救ったとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。
 弓千代は再びがしゃどくろ二体の姿を見遣る。脳がないせいか、その二体は自分の肋骨から零れ落ちたものをまた掬い上げ、まるで反芻するように口へ運ぶという行為を意味もなく繰り返していた。奴らの行動によって、味方であるはずの有象無象らは、巻き添えを喰らう事に恐れてか進軍に二の足を踏んでいる。
 有象無象は所詮虎の威を借る烏合の衆、ひとたび迷いが生じればもはや機能しないだろう。加えて、二体のがしゃどくろが別の事に意識を向けている今、残り二体への集中攻撃をかける絶好の機会だ。
 弓千代は残りの二体へと視線を移す。するといつの間にか、奴らは巫女達の軍勢などに目もくれず、分社へ向かって一直線に歩みを進めていた。このままではまずい、そう思った弓千代は即座に判断を下す。
「皆聞け! これより、分社へと進行するがしゃどくろ二体を滅す。半分の者は私に続き右手の奴を、残り半分の者はこの巫女の指示に従って左手の奴を滅せ。良いな?」
 近くにいた一人の巫女を別部隊の指揮官に指名すると、弓千代は馬の手綱を操り方向転換をしながら、「それとそこの数人はこの場に残り、目の前の二体と有象無象の動向を監視せよ。もし、あやつらが再び進軍する動きを見せれば、すぐに私達へと報告しろ」と別の指示を出してから、馬を出す──その際、馬のない小夜を自分の後ろへと乗せた。
 弓千代の後ろからは半数の巫女達と耄厳が続く。彼女達が追うのは右手先に見えるがしゃどくろの背である。肩甲骨と背骨のむき出しになった奴の背は、こちらの接近にまるで気づいていない様子だ。
 奇襲をかけるにはうってつけだと考えた弓千代は自分の右隣で並走する耄厳へ目を向ける。
「耄厳。お前も妖怪なら、奴らの弱点ぐらい知っているのではないか?」
 弓千代の問いかけに対して、耄厳はこちらへちらりと目配せをした。
〝儂は狼一族で、あいつらはがしゃどくろ一族だ。同じ妖怪でも一族が違う。そもそも、儂が聞いた話に間違いがなければ、お主ら巫女一族は数年前、大規模ながしゃどくろ一族討伐を行ったらしいではないか。弱点の一つや二つ、すでに知っておるのだろう?〟
「私達が知っているのは、『破魔矢を何度も打ち込んで妖気を全て奪い、がしゃどくろの体を崩壊させる』滅し方だけだ。だから、こうしてお前に、もっと効率の良い滅し方はないかと聞いているのだ」
 それを聞いてか、耄厳は記憶を漁るように数拍の間を置いた。
〝これといった弱点はないだろう。なんせ、あいつらは妖力と骨だけでできておるからな。だが、しいていうなれば、少しばかり頭が弱い上に、動きも単純かつ鈍間だ。そこを利用すれば良かろう〟
 弓千代は呆れの込めた溜息を吐いて「そんな事は分かっている」と言葉を返し、続けて「その具体的な方法を聞いている」と話の次を促す。今度は耄厳の口から、彼女の言動に呆れるような溜息が聞こえてきた。
〝お主ら巫女一族は優秀だが、少し『破魔の力』に拘りが過ぎるな。何も自分の力だけで倒そうとせんでも良かろう。よく見てみるがよい、相手の頭数は運良く丁だ。巨体を潰すには巨体がお似合いだとは思わぬか?〟
 そう言われて、弓千代は耄厳の言わんとしている事を察した。正直なところ、奴の勿体振った言い方には若干の苛立ちを覚えたものの、もう目の前まで接近したがしゃどくろの背を見て、そんな苛立ちもすぐに忘れてしまった。
「そこのお前」
 弓千代は、左に並んで馬を走らせている巫女に声をかける。
「左手の別部隊に伝令。『がしゃどくろ二体を正面衝突させ、共倒れにさせる。そちらの部隊は目前の標的を誘導し、こちらのがしゃどくろへと衝突させろ』以上だ。急げ!」
「御意」
 弓千代から声のかかった巫女は馬の進行方向を転換させ、弓千代達から離れていく。
 それを見届ける前に、弓千代は他の巫女達にもこれから行う作戦を手短に伝えると、早速皆に弓矢を構えさせた。狙うは目前を歩く巨大な骸骨。まずはこの初撃でがしゃどくろの気を引かなければならない。
「放て!」
 巫女達の放った大量の破魔矢ががしゃどくろの背に降り注ぐ。
 背に矢を受けた奴は後ろを振り返り、弓千代達の姿を見つけると、すぐさま目標を分社からこちらへ変えて迫ってきた。それをしかと確認した弓千代は皆の弓矢を下げさせ、左手先に見える二体目のがしゃどくろを目指して走るよう指示する。
「遅れるな! 後方からの攻撃に注意しろ!」
 皆が走り出して間もなく、背後から追ってくるがしゃどくろは弓千代達を掴まえようと、その長い骨の腕をこちらへと伸ばしてくる。奴との距離はまだあるため、今のところその腕が弓千代達に届く事はない。だが、油断はできない。奴の動作が鈍間といえど、その巨体から踏み出される足の歩幅は人間のものと比べて数十倍以上の差があるため、少しでも遅れを取れば途端に追いつかれてしまう。
 弓千代は自分達の向かっている先へと目を向けた。視界の仰角、木々の合間に覗く先には、こちらへと向かってくるもう一体のがしゃどくろの姿がある。このまま上手く誘導すれば、この二体は互いに勢い余って衝突し、自らの体を崩壊させる事だろう。
 そう弓千代が思っていた矢先、左手より彼女へと馬を寄せてくる一人の巫女が現れた。姿を見れば、少し前に前線の監視を任せていた巫女であった。
「弓千代様、監視していたがしゃどくろが二体とも、再び進行を開始しました!」
「何!」
 報告を聞いた弓千代は足を止める事なく考えを巡らせる。
 今実行している作戦は、他二体の動きが止まっているからこそ、目の前の二体を倒す事に集中できるものだ。こうしてその二体が動き出した以上、奴らの行動も加味した上で作戦を変更しなければならない。現在誘導している二体を倒し、かつ他二体の進行を喰い止める方法。となれば、これしかなかろう。
「分かった。では、そのまま別部隊へ伝令。『後方二体のがしゃどくろが再動したため、急遽作戦を変更。そちらの部隊は誘導方向を転進し、向かって右手に見えてくるがしゃどくろへと衝突させろ』以上、急げ!」
「御意!」
 弓千代への報告とともに伝令の命を受けた巫女は、走らせる馬の速度を上げ、木々の先へと走り去っていく。同時に、弓千代は自分に付き従う巫女達へ命令を出す。
「我々も急遽転進、後方より進行するがしゃどくろの内、向かって左手に見えてくる一体へと衝突させる。良いか、決して足並みを乱すな!」
 巫女達の「御意」との返事を聞いてから、弓千代は手綱を操り、開戦時に最前線となっていた場所へと足を向ける。
 馬を走らせていると、次第に視線の先に二体のがしゃどくろが見えてきた。右手に見える一体は別部隊に任せているため、弓千代達は左手に見える一体への対処に注力する。
 弓千代は肩越しに背後を確認する。こちらのがしゃどくろは弓千代達を追うのに夢中になっており、丁度良い具合に勢いをつけて走っている。他に邪魔になるような要因も見られず、後ろよりついてくる巫女達の中に遅れをとっている者もいない。
 それを確認した弓千代は再び前を向き、前方より進行してくる一体との距離を少しずつ縮めていく。
 そして、ついに左手のがしゃどくろの目の前まで迫った瞬間、奴は眼下に群がり来る弓千代達に気づいたらしく進行を中断し、彼女達を握り潰そうと両手をぐっと伸ばしてきた。弓千代達の頭上から大きな骨の掌が迫り来る。
「怯むな! このまま、こいつの股下を通り抜ける!」
 弓千代は巫女達に声をかけ、馬体を蹴って馬を急かす。
 間一髪のところで、大地へと突き刺さったしゃどくろの手をかわした彼女はそのまま奴の真下を通り抜けながら、つと気になった背後を振り返る。
 間の悪かったせいか、奴の手に捕まらずに済んだものの、落馬してしまったためその場に取り残された巫女が三人ほどいた。これも戦だ。可哀想だが、ここで彼女達を助けるために引き返しては、次の瞬間衝突するであろう奴らの崩壊に巻き込まれてしまう。
 と、弓千代が思うが早いか、遠方の山々に響き渡るような轟音が森林を覆う。巨大な骸骨同士が衝突し、元々骸であった体をさらに細かい骨くずにしながら、大地へと撒き散らしていく音である。その二体の崩壊を追うように、別の二体が衝突し崩壊する轟音が響いてきた。それは別部隊の作戦成功を知らせる祝砲も同義である。
 その音を合図に、弓千代は自分達の勝利を認めた。
 がしゃどくろの妖気は拠り所となっていた骸を失ったがために四散し、多勢であった魑魅魍魎もいつの間にか退散していた。妖怪を完全に殲滅できなかった事は悔やまれたものの、この地の要害である分社を無傷で守り抜けた事は、素直に喜ばしい戦果である。
 気付けば、夜空に明けの色が滲み始めていた。
 目まぐるしく変化する戦況に身を投じていたせいか、弓千代はまだ宵の更け頃だとばかり思っていたため、夜明けの訪れがやけに早く感じていた。同時に、勝利と共に拝む日の出に吉兆のような予感を覚える。
 その後、弓千代達と別部隊は合流すると、せめての弔いのために可能な限り戦死者の遺体を抱え、分社へと帰還した。
 分社の中へ入った弓千代達は、分司と副司に迎えられる。馬を降りた弓千代の前へと進み出た分司は深々と一礼し、慇懃な佇まいで口を開く。
「このたびは、弓千代様御自らの助力を賜る事ができ、大変感謝しております。おかげ様で、未曾有の危機を乗り越える事ができました。もし、弓千代様がいらっしゃらなければ、今回のような総力戦に踏み切る事もできぬまま、籠城一手となり分社を失っていた事でしょう」
 そう賛辞を述べる分司に対して、弓千代は自分も至らなかったと首を横に振る。
「いや、此度の勝利は、この分社を守らんがために奮起した皆のおかげだ。私の采配が未熟なばかりに、いくつもの尊い命が失われてしまった。せめて、彼女達の遺体を然るべき者達のもとへ送り届け、それがかなわぬ遺体はここで丁重に葬ってやってくれ」
「御意」
 分司は早速彼女の意を汲むように副司へ促す。それを受けた副司はすぐに動き、近くにいた巫女数人に指示を出して、戦死者の遺体を奥へと運ばせる。一度別の場所へ安置してから、それぞれの遺体の状態や身元を確認するのだろう。
 奥へと運ばれていく遺体を横目に、弓千代は分司へと続ける。
「何か、書くものを用意してくれないか」
「少しお待ちを。……誰か! 弓千代様に書簡と筆をお持ちしろ」
 分司がそう声を飛ばすと、少ししてから一人の巫女が書簡と筆を持ち、もう一人の巫女が小さな台座を抱えて持ってきた。用意された書簡と筆を弓千代が受け取るなり、もう一人の巫女が膝をつき、抱えていた台座を弓千代の肘の高さへ合わせるように持ち上げる。
 良くできた巫女だ。弓千代は彼女の心遣いに感心しながらも、「よい、どうせすぐに済む」と台座を持った巫女を下がらせた。
 その言葉通り、弓千代は書簡に必要な文章を手早くしたためると、その書き上がった書簡を分司へと手渡した。それを受け取りながら、分司が「これは?」と尋ねるような表情を浮かべたところへ、弓千代はすかさず説明を加える。
「此度の戦で失った人馬の数は決して軽視できるものではない。そこで、その書簡には、私の署名を添えて『この分社より損失した人馬及び物資を勘定し、それに過不足のないよう増強を施すように』と書き記してある。後は、それを守護大社にいる千鳥という『護ノ巫女』へ渡すと良い。私の名を通せば、きっと事をうまく運んでくれるだろう」
 弓千代は近くの巫女へ使い終わった筆を渡して、その場を立ち去ろうとする。
「小夜、行くぞ」
 弓千代は小夜を見遣る。その自分に向けられた視線に不安を覚えたのか、小夜は僅かに体を強張らせたようだった。
 先の戦いで小夜が目覚ましい戦果を挙げた訳ではない。だが、彼女は初陣でありながらもあの過酷な戦況を生き延び、今もなお弓千代の後を懸命に追おうとしている。そんな小夜を今更置き去りにしようなどという考えは、もはや弓千代の頭の中になかった。
「これから、私達は禁忌領へと入る。気を引き締めろ」
 その言葉に安心したらしい小夜は緊張を解き、「はい!」と返事をした。
 分社を出る際、弓千代達は一度分司に呼び止められ、これは僅かばかりの返礼だと兵馬一頭と少しの食料を貰った。先の戦いで被害を出したばかりなのだから、僅かといえど大事な物資を受け取るわけにはいかないと断わったものの、分司が「ご心配には及びません。守護大社から救援がくるとなれば、皆も奮起致しましょう。どうか、弓千代様もご無事で」と頑なな態度を示したため、その兵馬と食料をありがたく頂戴した。
 分司とのやり取りを終えた後、今度は二人の巫女が立ちふさがった。ただ、先程の分司と違うのは、どうやら彼女達は弓千代にではなく、耄厳に話があるようであった。
 二人の内、思慮深そうな巫女は何かを思案するような面持ちで、耄厳にこう問う。
「先刻、敵襲の報を聞いた時、私は正直、あの妖怪達はお前の仲間かと思った。だが、共に戦う中で、お前が私達巫女を助け、とても演技とは思えぬ必死さで奴らと戦っている姿を見、その思いに疑問が生じたのだ。妖怪に助けられるなど生まれて初めての事で戸惑っている。そもそも、お前は弓千代様の捕虜となっている妖怪だと言っていたが、あれはとても捕虜の取る行動とは思えないのだ。一体、お前の目的なんだ?」
 もう一方の巫女も、彼女と同じ事を言いたげな表情をし、耄厳の口を開くのをじっと待っている。当の耄厳は、しばし彼女達の瞳を見つめながら押し黙った後、どうとでも取れる意味を含んだ笑みを零す。
〝儂の目的はただ一つ。今のお主達のように、儂ら妖怪に対する考えを改めるきっかけを与える事だ〟
 それだけ答えると、耄厳は弓千代に向かって〝さあ、桜の巫女、早く参ろう。『破魔の力』に護られたこの分社は、どうも居心地が良くないものでな〟と声をかけ、先へと歩み出した。
 弓千代は耄厳の後ろ姿を見ながら、こう思う。
 どういう形であれ、奴の行動が我々一族へ、少なくともこの二人の巫女と小夜へ確かな影響を与えた事は事実だ。妖怪に対する考えを改めるきっかけ、か。はたして、私の妖怪に対する考えは変わるのだろうか。
 弓千代は、昨夜耄厳が暗に問うてきた「もし、小夜が妖怪になったら」という内容について、今一度よく考えながら、二人の巫女へ会釈をすると、今ほど貰った馬を引きながら遠望の老山を目指して歩き出した。
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