第1話

文字数 1,999文字

 朝昼兼用のご飯をかっ込んでいたら、「(ひろし)、」と呼ばれた。振り返るとレジ袋を手にした母が立っている。
「おばあちゃんの所にこれ届けてもらえない?」

 今週から大学は夏休み。ふだんはやれサークルだバイトだと何かと忙しくて、そう言えばばあちゃんの顔ずいぶん見てなかったなあと言われてようやく思い出した。

「いいよ。今日はバイトもないし」
「あー。助かる。おばあちゃんも喜ぶ」
 ほっとした顔した母がガサガサいわせながらレジ袋を食卓の上に置いた。


 半パン、ビーサン、Tシャツにキャップ。それでも暑い。街路樹の下、街が揺らいで見える。
 ばあちゃんちは古い住宅街の外れに立つ木造の平屋だ。家からおれの足で15分ほど。昔はこの道を自転車で毎日のように往復してた。

 母より一歳年上のこの家はかなり小さい。その割に庭は広い。門柱のブザーを押す。年季物がブーと鳴っているのが家の外にまで聞こえてくるが、返事はない。しばらく待ってからもう1度押した。それでも無反応。
 諦めて、玄関横から庭に回る。


 やっぱりだ。昔からばあちゃんの姿が見えない時は十中八九、庭にいた。この炎天下、腰を屈めて何かしている。
「ばあちゃん、今は暑過ぎ。やめとこうよ」
 背に呼びかけると、
「ああ、洋、来てくれたんかい」
 大きなムギワラの下から声だけ返ってきた。
「うん、だから早く中入って何か飲もうよ。何ならおれがお茶でも入れるから」
「ありがとさん。大丈夫、もう終わった」
 よっこらしょ、と立ち上がったばあちゃんは、おれを見上げるとムギワラの下で顔をしわくちゃにした。

 冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぐ。ばあちゃんのとおれの二人分。
「何してたの?」
「これ取ってた」
 日焼けした小さい手の中に、白い花がついたミョウガ。
「洋が素麺持ってきてくれるって真佐子が電話してきたもんだから」
「何だよ、おれのためかよ」
 そういう訳じゃないよ、久しぶりに甘酢漬作ろうと思ったんだ。話すばあちゃんの割烹着のポケットからミョウガがわさわさと出てきた。

 じいちゃんとは見合い結婚だったそうだ。父親の上司だか親戚だかの紹介でって話をじいちゃんの葬式で誰かがしてるのを耳にした。
「じいちゃんこれの甘酢漬が好きで、よく作ったけど」
 結婚後に建てたこの家の庭に、ばあちゃんは家族が好きなものを植えていった。実のなる木、花、野菜。ミョウガは1年目に植えたと聞いた。
「ばあちゃんが好きで植えたのは?」
 学校で育てた朝顔の種を持ってきた時に聞いたら、
「家族が喜んでくれるものが私の好きなものだよ」
 と言って笑ってた。
 当時、おれは学校でいじめに遭っていた。誰にも話せずいつも気持ちは酷く重たくて、おれはこの家にひとり自転車でやってきては、庭で作業するばあちゃんの横で黙って土をいじったりダンゴムシをつついたりしていた。

 そんなある日。ばあちゃんが庭の端で何かをたくさん取っていた。
「それ、なあに?」
「これはミョウガって言って、薬味や漬物に使うんだよ。食べると物忘れするって言われてるけど、」
「美味しいの?」
 物忘れするならたくさん食べれば嫌なことも忘れられるんじゃないか。そう閃いた。
「食べてみる?」
「うん」
 取ったばかりのミョウガでばあちゃんは色々と作ってくれた。食べても嫌な記憶は消えなかったが、どれもおとなの味でそれを食べている自分もちょっとだけ大人になった気がした。何より漬けるとミョウガがきれいなピンク色に変わるのが手品みたいで面白かった。
 それは何度見ても不思議で、よく遊んでいたゲームから「課金したらいきなり何かに進化したみたいだ」と口からついて出た言葉を、ばあちゃんがきょとんとした顔して聞いていたのを覚えてる。場違いな言葉を言ってしまった自分が恥ずかしくて、おれは顔を熱くした。多分よく漬かったミョウガみたいな顔の色してたと思う。
 ばあちゃんはジャムの空き瓶に甘酢漬を入れ、「これは洋用だよ」と言って持たせてくれた。辛い時、おれは冷蔵庫の中に入れた瓶を取り出し、ひとつだけ頬張った。甘くて酸っぱくて大人の味のそれはいつもおれの味方だった。
 そんな味方をおれはいつの間に必要としなくなっていたのだろう。気付けば冷蔵庫からおれ用の瓶はなくなり、ばあちゃんの家に行くことも減っていった。

 久しぶりに会ったばあちゃんは、気のせいかずいぶん小さく見える。ミョウガを持つ手もしわ深い。
「ばあちゃん、昼、食べたの?」
 困ったように笑う所を見ると、多分、食べずにミョウガを取っていたのだろう。ため息をつく代わりに立ち上がると、
「おれも食べてないから素麺ゆでるよ、ばあちゃんはミョウガ刻んでよ」
 おれの言葉を聞いた途端、ばあちゃんの顔がほんのりと薄く色付いた。
 それはまるで漬けたてのミョウガみたいな色で、それを見たらそうだこの後、甘酢漬も手伝って作り方教えてもらわなくっちゃな、と心の中で呟いていた。








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