第1話 異世界転生withオフセット印刷工場

文字数 3,360文字

「貴女は異界へ転生し、不遇な人生を再履行する権利を得ました」

耳朶を打つ鈴なりの声を、虚ろな意識はかろうじて捕らえる。但し私にはそれが誰の声かも分からなかったし、言葉の意味も理解できてはいなかった。

「転生にあたり、願いを一つだけ、何なりと聞き届けましょう」

誰何を問う気力もない。自分が立ち上がっているのか、地に伏しているのかさえ定かではない。あらゆる感覚が消失している。ふわふわと混濁した意識。

言うなれば白。一面の白。

そう認識した瞬間、私の視界が、ぼんやりと像を結んだ。
視界いっぱいに満たされた白一色の空間は、しかし不思議と眼に痛くはない。
無窮に広がる白砂の中、彼女は女神の如き柔和な笑みで私を見下ろしていた。

「過労により、貴女は命を落とされたのです」

何を言っているのだろう。
ここはどこだ。
私は、そう、工場――快走印刷株式会社の板橋工場にいたはず。

とうに終電を見送った私は、徹夜を覚悟で仕事をしていた。
副工場長に押し付けられた有り得ない超短納期案件。
もはや流す涙も枯れ果てて独りきり。
ぼろぼろになりながら、印刷機に紙をセット。
刷版を入れ替えるためタラップを踏み――そうだ。踏み外した。

「転生先では今度こそ幸福を掴めるよう、我々は貴女のような非業の死を遂げた方々の願いを、予め叶えて差し上げております」

踏み外したという事は、刷版の交換はできていない。
ということは、印刷はまだ開始していない。納期は刻一刻と迫っているというのに。

「……あの、聞いてますか?」

焦燥が私の心臓をガンガンと容赦なく打ち鳴らす。
納期遅れはまずい。我々快走印刷はスピード命。
納期は絶対厳守だ。朝までに五万部を刷了。それがミッション。絶対厳守。

「ああ、何を希望されるか迷われているのですか? でしたら、他の方々の願いを参照されてはいかがでしょう」

まずいまずいまずいまずい。
書籍の発売日とか正直私にはどうでもいいが、副工場長や営業部長からのお説教フルコース耐久五時間嫌味添えは勘弁願いたい。
いますぐ仕事を再開しなければと思うが、私の身体は微動だにしない。

「例えばですが、レベルカンスト、ハーレム、チート等が人気のようですね。それらの能力を獲得した皆様は、異世界ライフを満喫しておられます」

動かせたのは、唯一、口だけだった。

「仕事……」
「はい?」
「仕事が終わらねーです……」

譫言のように呟く。
頭の中はこの遅れを如何に挽回するかで一杯だった。
一号機だけでは終わらない。刷版をもう一枚出力して、二号機も回そう。本来二号機で片づけるはずだった仕事はまだ納期に多少の余裕がある。明日徹夜すれば何とか挽回できる。
これか。これでいくか。

「仕事――ですか? 珍しいですね、仕事を持っていきたいだなんて」

二台の運用は色合わせが難しいが、こだわっている場合ではない。どうせ納本分しかクライアントには見せないのだ。

「その願い、確かに聞き届けました。仕事と共に貴女を転生させましょう」

女神を中心に、視界いっぱいに光が広がっていく。
閃光が彼女の姿を包み込み、今度こそ何も見えなくなる。
刹那、一転して闇が包み込んだ。
暗闇に呑み込まれるようにして、私の意識は再び遮断される。

そして――盛大に何かをやらかしたような気がした。


   ◆

鳥の囀りで目が覚めた。
低血圧で思考は霞んでいる。ぼんやりとした視界には、見慣れた天井が広がっている。くすんだ白色をした無骨な天井。噴霧器。嵌め殺しの窓からは陽光が差し込んでいる。
彼女は一日の大半をここで過ごしていた。それこそ、家にいる時間よりも余程長く。

快走印刷株式会社、その板橋工場で、彼女は目覚めた。

ゆっくりと身を起こすと、身体はガチガチに固まってしまっている。
緑色のリノリウムの床の寝心地は最悪だった。
深呼吸して酸素を身体全体に取り入れる。小さな両手で顔を覆い、盛大に息を吐いて、周囲を見渡してみる。

白紙のまま積載された紙。
刷版のセットされていない印刷機。
そして時刻は八時を五分過ぎている。

溜息。

「やっちまいましたね……」

徹夜で終わらせるはずだった、しかし手付かずの仕事。
激務続きで限界を迎えた身体は、睡魔に抗えなかったようだ。
慌てたところで事態は好転しない。逆に冷静になってきた頭で、このミスをどう挽回するかを考え始める。
何か妙な夢を見ていたような気がしたが、そんな些事はすぐに頭の片隅に追いやった。

「どうしたものか……。とりあえず、顔でも洗いますかね」

シャワーでも浴びてしっかりと意識を覚醒させたいところだが、残念ながら工場にシャワー室はない。ひとまずは洗顔だけでもと、トイレに向かった。

洗面台の鏡に映る自分の顔は、それはもう酷いものだった。
150センチに満たない小柄な体躯。腰に届く黒髪は滑らかさを失いボサボサ。
黒曜石のように煌めく黒瞳はそのすぐ下に刻まれた深谷の如きクマで台無し。
肌は幽鬼を思わせる青白さで、まだ潤いを失っていないのがせめてもの救い。

白磁の人形のような整った顔立ちにもかかわらず、不愛想な眼差しと「への字口」で残念な仕上がりに――この辺はまあ、生まれつきか。

戸叶絢理(とがのう・あやり)23歳の姿が、そこにはあった。

化粧を施していない顔を、冷水でバシャバシャと乱雑に洗う。首にかけっぱなしだったタオルで拭く。インクの匂いが染みついたタオルも慣れたもの。
専門学校を卒業して20歳で入社。すっかり板についた作業着には、数年をかけて色とりどりのインクの染みが無数についており、最早迷彩服を思わせる。

「今日はよく晴れてますね。それに――」

やけに暖かいな、と絢理は訝しんだ。
世間は年末進行。凍える夜気に身を震わせた昨夜は、遂に都内でも初雪となった。
それが、暖房を一晩中聞かせていたとはいえ、汗ばむような暑さだ。
絢理は外の空気を吸おうと洗面所を後にする。

工場の扉を開けて一歩を踏み出す。
と、地面を踏むはずだった足は空を切った。
全体重をかけるはずだった足は地面を求めて沈み込み、バランスを失った絢理自身もまた、前傾姿勢でそのまま宙に投げ出された。

「――は?」

咄嗟に扉を掴もうと伸ばした手は、しかし空を切る。

落ちる。
というか、落ちていく。

見上げる先、工場の扉はどんどん遠く離れていく。
否、絢理自身が離れていっているのだ。断崖絶壁からの自由落下で。

「嘘でしょ……っ」

工場の外はアスファルトの敷き詰められた駐車場だったはずだ。
納品用のトラックが何台も止まっていた。
脇にはろくに補充のされない自動販売機もあった。
快走印刷株式会社板橋工場は、決して断崖絶壁の上になど建てられてはいなかった!

空に身を投げた不安から、本能的に固く目を閉じる。身体を丸める。
すぐそこに迫る地面。死を覚悟する。否、嘘だ。覚悟を固める暇もない。

そして――戸叶絢理は、たまたま通りかかった馬車の幌に受け止められた。

ばふんっ、という緊張感のない音。続いてメキメキッと幌の壊れる音。
決して順風とは言えないまでも、絢理は無事に着地に成功した。

「痛ったあー……」

腰を打ったが、意識も正常だ。
絡まってくる幌布を手足で退けて、天地逆転していた姿勢を戻す。
後頭部をさすりながら見上げた先、推定二十メートルの崖上に工場が小さく視認できる。よく生きていたものだと自分でも感心する。

我ながら悪運の強さに呆れつつ、工場に何があったのかと忙しく思考していると、ふとした声が闖入してきた。

「神の使い……か?」

声のした方を振り返ると、青年が目を丸くしていた。
馬車の主人だろうか。頭を抱えたままの姿勢で呆然とするその姿はいかにも冴えない男然として、絢理はとりあえず疑問を疑問で返した。

「んなわけないでしょう頭湧いてるんですか?」



――これが、戸叶絢理と、オルト・ハウンドマンとの最初の出会いだった。

この遭遇を契機に、絢理は後に無窮魔導師と呼ばれ、世界を席巻することとなる。


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