天下味噌

文字数 2,000文字

「ううう、う、しぶい」

 信長公に招待された家臣総出の朝餉の膳。

 普段、京の白味噌を食す光秀は、出された味噌汁につい本音を口走ってしまった。

「うむ、日向、なにか言いおったか」

 すかさず信長公が尋ねる。

「い、いえ、なにも」

「で、あるか」

 光秀は、ホォっとひとつ息を吐いて、また汁をすすった。 

 やはり、しぶい。

 京の白味噌を好んで食す光秀はこの赤黒い味噌が苦手で仕方ない。

 うむ、だめだ、素材の味が死んでおるわ。

 光秀は心で小さくため息をつきながら隣を見た。と、そこには、昨今付き合いの深い羽柴筑前こと秀吉がいやらしげな顔で笑っていた。

 そして、さも楽しそうに口を開く。

「はは、日向殿には田舎の味はお気に召さぬようで」

 チッ、聞かれておったか。

「そんな事はありません。滋味深く、味わい深く、非常に美味であるかと」

「ほぉほぉ、ならば、なぜ日向殿は京味噌を好みまする」

 さらりとかわした光秀に、秀吉は素知らぬ顔で追い打ちをかけてくる。

「なんと?!」

「聞けば、日向殿の朝餉の膳はいつも京の味噌を使っていると聞きもうしたゆえなぁ」

 うまく答えねば大変なことになる、と、光秀が考え始めたその時、信長がボソッと呟く。

「禿げ鼠、騒がしい、控えよ」

「くはは、これは失礼を」

 信長にぴしりとやられて、平然と笑える。

 これが秀吉と俺の違いだな、と秀吉の振る舞いに感心しながらも、光秀はほっと胸をなでおろした。しかし、そのまま放たれた信長の一言に肝が縮む。

「ただ、郷里の味を、しかめ面でしぶいと言われるのは不快ではある」

 聞こえていたか。

 秀吉が薄く微笑む中、光秀はみずからの失態にうつむくしかない。

「しかし、儂自身も京に上った際、あの甘ったるい味噌には苦労したもの。食味の違いとは、なかなかこえられぬ厄介なものよな」

 その一言に、すかさず秀吉が相打ちを打つ。

「ですな、あのようなものが口にあうのは、肥え太った公家衆くらいのもの」

 秀吉の一言に、家臣団は大笑い。

 しかし光秀だけは、それが自分に対する嘲笑であると気づき、震えながらうつむいた。信長公の前でなければ、声を荒げていたかもしれないほどの怒りが胸を焼く。

 と、信長が突然ぴしりと音をたて箸を置いた。

 その仕草に、家臣団一同も箸を置いて信長に正対する。

「遠からず、この日の本は儂のものとなろう」

 それは、間違いない。
 
 この、気難しいだけが欠点の俊英信長であれば、きっと世を長き太平に包むであろうと、光秀も思っている。それ故に、今日まで粉骨砕身尽くしてきたのだ。気を取り直した光秀は本心からの言葉を漏らす。

「そうでなければなりますまい」

 そんな光秀の相打ちに、信長公はニンマリとほほえみ、秀吉は小さく舌打ちをした。 

「はははは、日向もそう思うか」

「御意に」

 光秀はうやうやしく答え、ほっと内心安堵の息を吐く。が、次の一言に、地面の揺れるような衝撃を得た。

「ふむ、そうなれば、京の味噌も、これとなろう」

 その一言に、光秀の脳裏に戦慄が走った。

「は?」

「味の違いは人心を惑わす。よって、京どころではなく、この日の本の津々浦々にまで、この味噌に統一するがのぞましい」 

 なんだ、と……。

 光秀の心中に、突如激しい怒りが突き上げる。
 
 京のあの雅やかな汁。いや、その素材生かして殺さぬ絶妙な味付けに、このしぶい味噌だと?! ならば、柚庵も田楽もあぶり餅ですらこの田舎味噌で食えというのか!!

 ならぬ!

 そんなもの、

ではなく

だ!

「それは良いですな、この日の本を我らの味噌で塗りつぶしてみせましょうぞ!」

 と、光秀を無視して、秀吉が喚く。

 馬鹿な、ふざけたことを抜かすな!

「まさしく!」

 秀吉の言に家臣団も諸手を挙げて賛意を示めす。

 クソ、味のわからぬ田舎者どもが!

「いやはや、味の天下布武とはさすが信長様じゃ!」

 そんな暴挙、絶対にゆるさんぞ!

 光秀の煮えくり返る腸をよそに、家臣団の歓喜は止まらない。

 と、それを満足気に見て、信長が軽やかに言い放った。

「どうじゃ日向、良い案であろう?」

 問われて光秀は、奥歯をグッとひと噛みして、覚悟を決めた。

 ならば、是非もない。

「はい、拙者も、決心が付きましてございます」

 そう言うと光秀は、椀の汁を一気にぐいっと飲み干す。

「この味噌を食らうのが楽しみになってまいりました」

「で、あるか」

 信長は満足気にそう言うと「楽にせよ」と一言つぶやいて朝餉の膳につく。

 家臣団もまた、興奮冷めやらぬ様子で朝餉の膳に戻る。

 しかし秀吉だけは、光秀の瞳の奥に見える、怪しい光を見逃しはしなかった。

……この味噌を食らうのが楽しみ、か。

 秀吉は何やら心中で思案しながらも、再び朝餉をつつき始める。 

 その横で光秀は、空の椀をひとり静かに睨みつけていた。



 時は天正十年の如月。

 これは、本能寺の変が起こるその年の、何気ない朝の一風景である。
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