街で買った女。

文字数 11,378文字

 僕の住む村は、遠い偏狭の山と盆地に間に位置する。主要な産業は農業と林業で、人口はわずかに六十人ほど。しかし各地の村や町との交流のお陰で生活には問題なく、雪が吹き荒れる厳しい冬が来ても飢える事は無かった。
 僕の住む家は、村の中心を流れる小川の辺にある。大きさは居間と寝室があるだけの小さな家で、僕一人がそこで住んでいた。不養生な僕の性分のせいもあって、家の中は物が纏まっていなく、埃っぽくって淀んだ空気がいつもたまっていた。たまには身辺整理しろと、周りの人からいつも言われるのだが、中々やる気が起こらず、僕はいつも生返事でその場をしのいでいた。そんな戯言と仕事を交互に繰り返す毎日を送りながら、僕はこの世に存在していた。存在していた。という表現を用いるのは、僕が生きる目的も、実感も無く唯この村に居るから、と言う意味を込めてだ。だから昨日の夜も、特に祝うことも、忘れたいことが在る訳でもないのに、親戚の叔父さんや村の仲間達と一緒に、ついつい深酒をしてしまった。
「今日は町に出るか」
 昨日酒を鱈腹飲んだ叔父さんが、誰に向かうでもなくそう呟いた。
「町に行ってどうするのですか?」
 僕は昨日の酔いが覚めやらぬ状態で、叔父さんに聞き返した。
「香辛料やら何やらを手に入れる。それと町の武器店にも行って銃弾用の火薬なんかも手に入れないと。お前も来るか?」
「ええ、行かせてください」
 僕は余り深く考えずに、唯そう答えた。
 それから数十分で身支度を整えると、僕は叔父さんが運転する、村に一台しかない貨物自動車の荷台に町に持っていく布や毛皮、畑で取れた芋などを積んで、荷物番を兼ねて荷台に乗り込んだ。村から町までは、自動車で片道三時間。順調に行けば日が暮れる少し前頃には村に戻れる。
 することの無い僕は荷台の上から目の前に広がる地平線に視線を向け、何か面白いものは無いだろうかと辺りを見回してみたが、見えるのは遠くの空を行く大型の鳥と、唯ひたすら広がる平原だけだった。
 また俺はこんな事をしているのかと、僕は自分で毒づいた。何も無いことに意味を見出して、今を生きる自分に必死に意味づけしようとしている。一体何故僕は自分をそこまで追い込んでしまうのだろうか?僕の奥にある何かが欠損しているせいで、そんな事を考えてしまうのだろうか。
 そんな事を考えながら荷台に揺られていると、車は町に着いた。石造りの門を潜ると、人々が立てる喧騒と共に、食べ物や汗の臭い、排泄物や煙草の臭いが混じった町独特の臭いが、僕の鼻先に漂ってきた。この臭いは僕の住む村と違って、人間の複雑な感情や多様な価値観、それぞれに歩んできた人生を含んでいる臭いのような気がする。荷台から改めて人の流れを眺めてみると、行き交う人は肌の色や服装も同じものは一つとしてなく、人々の行動も、その人たち各個人の信念のような物が見て取れた。
 叔父さんの運転する車は卸問屋が立ち並ぶ町の一角に入ると、そのままいつも村の人間が世話になっている卸問屋の前に停まった。叔父さんが車を降りて店のドアをノックすると、でっぷりと太った店の主人が降りてきて、叔父さんと親しそうな挨拶を交わした。
 手の空いた僕は叔父さんに一言断って、町を散策する事にした。
 卸問屋が立ち並ぶ区域を抜けて、様々な商店が立ち並ぶ区域に入ると、地面から密生した菌類の柱のような人ごみに、僕は圧倒された。狭い往来を行き交う人だかりと、道行く人たちに声を掛ける商店の主の威勢良い声。まるで人と人の間を突風が突き抜けているようだと、その時僕は思った。僕はその間を拭って前へ進み、店先に並ぶ魚の干物や革の長靴などに目を移した。それらの品物は皆手ごろな値段で陳列されていたが、僕の飢えた心を癒してくれる物とは思えず、無視することにした。
 そうして人ごみを抜けて、三叉路に出ると、中央で客引きをしている肌の黒い異国の男と目が合った。はっとした僕は目をそらしたが、男は僕を絶好のカモと思ったらしく、近づくなりその黒い手を伸ばして僕に声を掛けてきた。
「兄貴、暇か」
 突然の言葉に、僕は何も反論で出来ずに黙った。
「良いものあるよ、見てきなよ」
 男は僕の腕を掴むと、強引に小さな角へと引き込んだ。あっけに取られた僕はただ狼狽するばかりで、男の力に任せるまま薄暗い路地に入っていった。
 小さい頃、町に出たとき変な人に付いていかない様にと、死んだ母が口うるさく何度も言っていたのを、今でも覚えている。だが年齢が上がるにつれ、親の言いつけよりも、自分の好奇心や所有欲を満たしたい気持ちが勝るようになってきて、こうして知らない男の後に着いていく・・・今の僕は、そんな男だ。
 男に連れられて入った路地には、表通りでは並ばない、並べられないような品物を売る店がいくつも並んでいた。怪しい効能の薬草や植物の根、恐らく盗まれてきたであろう豪華な調度品や服飾品などが、それぞれ異様な雰囲気を放って狭い路地を埋め尽くすその光景は、空想上の怪物たちを描いた絵巻物のようなおどろおどろしさに満ちていた。
 すると、路地の一角に十人ほど老若男女が、麻で織っただけの粗末な服を着て、地面に敷かれた茣蓙の上に座っていた。その隣ではいかつい目をした四十がらみの男が一人、手に棍棒を持って彼らに威圧とも侮蔑とも受け取れる視線で、彼らを見下ろしていた。足枷を嵌められ、僕の視線を投げつけられている人たちは自分の運命を受け入れているのか、皆諦めたように項垂れて、繋がれた山羊のような目で通りを行く僕を見つめていた。
 そんな悲しい運命を背負わされた人々の中に、一人の美しい女が居るのを見つけた。年は僕よりもいくつか年下で、てらてらと叱る美しい黒髪を、頭のてっぺんでお団子にまとめている。肌は透き通るように滑らかで、目は宝石で作ったように大きく透き通っていた。そして服の上からもはっきりと分かる大きな胸のふくらみの上には、まだ何も知らすに唯眠っているだけの、小さくてか弱い赤ん坊を抱えていた。
 そんな彼女に見とれていると、僕を呼び込んだ異国の男が付いて来いよと僕を呼んだ。僕は彼に謝ると、小走りでその場を後にした。
 男に通された店は、表通りでは並ばない、南国の変わった衣類や服飾品を扱う店だった。並んだ品々はどれも異国情緒にあふれ、手ごろな値段で売られていたが、特別欲しくなるような物は無かった。だが何も買わずに帰るのも後が怖かったので、動物の骨で出来たペンダントをひとつ買い、その場を何とかやり過ごすことにした。そして表道りに戻る途中、またあの人売りの店の前に立ち寄った。さっき見つけた女はどこに居るのだろうかと、売られている人の中を探すと、さっきの女は茣蓙の上に座り込み、健やかに眠る赤ん坊を抱いて、ぼんやりとした表情で宙を見つめていた。すると、見つめている僕の存在に気付いたのか、宙に結んでいた視線を僕に向けた。視線がぶつかった僕は、心臓が指で押されるような痛みを覚えて彼女から視線をそらし、足早にその場を去ろうとした。
「兄さん。待ちな」
 突然、僕の背後で声がした。僕は背中から爪先に向かって見えない釘に打たれたように足を止めて、その場に立ち竦んだ。
「うちの女に興味があるのか?」
 もう一度、僕の背後で声がする。酒と煙草にかすれた、ぼろぼろ粉が落ちる錆びた鉄のような声だ。その声はそれ程社交的でない僕にも、堅気の人間の声ではないことが用意に想像できた。
「いえ、何も」
「嘘をつくなよ。さっきジロジロ見ていたじゃあないか」
 慌てて否定しようとした僕の声を、男の声が遮る。僕は無言でその場を立ち去ろうと足に力を込めたが、それよりも先に、金の指輪を嵌めた男の手が僕の肩を掴んでしまった。
「まあ寄ってけ、時間はあるんだろ」
 男の有無を言わせない声が、僕を無力な木偶の坊に変える。僕は男になされるがまま身体を反転させて、再び女の方を見た。女は僕が動揺しているのを察してか、不安げな視線で僕を見つめている。売られている女に心配されるなんて。と僕は自分をあざ笑いたくなったが、隣に居る男が僕に顔を寄せて来て、僕を再び現実に突き戻した。
「この娘は東国の水のみ百姓の子供だったんだ。読み書きも何もできねえが、お前さんみたいな若いもんの相手には調度いいぜ。安くしとくよ」
「いや、その」
 僕が苦し紛れに呻こうとすると、突然女の胸で眠っていた赤ん坊が目を覚まし、生布を裂くような声で泣き始めた。慌てた女は意識を僕から赤ん坊に移し、泣き止まそうと必死になってあやした。
「また泣き出したのか、早く黙らせてくれよ」
 女の横で座っていた暗い顔を若い男が、女に向かって毒づいた。女は男に向かって平謝りしながら、必死に赤ん坊を宥めようとする。だが赤ん坊はそんな女の気持ちを無視して、直も泣き続ける。
「・・・まったく、何処の誰とも判らねえ男のガキ孕みやがって、そんなだからお前は買い手がつかないんだ」
「すみません」
 初めて口を開いた女の言葉は、平原に打ち捨てられた動物のように干からびていた。そうか、彼女は赤ん坊を連れているからこんなにも哀れで、世の中から零れ落ちているから美しいのだ。そう思うと、僕は胸の内側が窄まって行くような感覚を味わい、喉の奥に生暖かい膿のような物が溜まっていく感覚を覚えた。そしてその感覚は僕の口元まで上がってきて彼女に対する深い哀れみと、自分の中にある喪失感を埋めようとする感覚に変わっていった。
「君は、何時からここに居るの?」
 僕は女に向かって、そう声を掛けた。女は僕に声を掛けられたのが突然の出来事であったのか、慌てて日数を指で数えて、こう答えた。
「十日より多いから・・・何時だろう?この子が生まれる少し前です」
 女は数をそれ程多く数えられない自分の力を出し切って、僕にそう答えた。
「そうなのか・・・・・」
 僕は一言そう呟くと、隣の男に向かって「彼女は幾らだ」とたずねた。
「普通なら銀貨三枚って所だが、こいつは子供の世話に追われて禄に働けねえから二枚って所だな」
 男がそう呟くと、僕は持ってきた財布の中身を確認した。銀貨が一枚と、銅貨が六枚ほど。それが僕の財産だったが、彼女を買うには少し足りなかった。
「銀貨一枚と銅貨六枚しかない。それでもいいですか?」
「駄目だ。諦めな」
「私はそれでもいいです」
 僕と男の会話に、突然女が割って入ってきた。あっけに取られた僕は女の顔を覗き見ると、女はこの場所から逃げ出したいような表情でさらに続けた。
「ここに居てもだんな様に迷惑をただ掛けるだけですし、この男の人が私を欲しいと言うのならそれでも構いません」
 女はそう叫ぶと深々と頭を下げた。当の僕はというと、女が放った「私を欲しい」という言葉だけが頭の中で何度も反響して、それ以外何も考えが浮かばなかった。
「だまれ、お前の都合でやっている商売じゃないんだ」
 女の言葉に、人売りの男は語気を強めてそう言った。
「この人の元に行ったたら何でもします。お願いです」
 女はなおも男に懇願し続けたが、男は首を縦に振らなかった。それどころか腰のベルトに通していた棍棒を手にとって、女の事を殴りつけた。僕は慌てて男の手を掴み、棍棒を振るのを止めさせた。
「止めてください。暴力は」
「なんだ、こいつが欲しくなったのかよ」
 男の言葉に、僕は何も反論が出来なくなった。
「欲しいならくれてやる。ただし有り金は全部置いていけよ」
 男がそう答えると、僕は無言で財布の中身をすべて男に渡した。男は硬貨の枚数を数えると、渋い表情のまま女の右足についていた足枷を外した。そして子供を抱えて僕のほうに歩み寄ろうとした時、男が女に向かってこう叫んだ。
「おい、子供は置いていけ」
 声を掛けられた女は一瞬何を言われたのか判らずに、男の方を振り向いた。そして赤ん坊を守るように男から遠ざけると、畏れの中に怒りを滲ませた表情でこう答えた。
「そんな、この子は私の家族なんです」
「そこの旦那はお前を買ったんだ。その子供は入っていない。置いてきな」
「嫌です」
「なら、この商談は無し。子供と離れるのが嫌なら、お前はここに居るんだ。ここに居るのが嫌なら、子供は置いていけ」
 男の言葉に、女は目元を熱くさせながらその場で押し黙った。女のその表情が余りにも哀れに思えたので、僕は男に向かってこう訪ねた。
「その子供は幾らですか」
「銀貨一枚だ」
 男は僕の質問にそう答えた。銀貨一枚なら、今日村から持ってきた品物を売った売り上げで何とかなりそうな金額だったが、それは村で必要な品物を揃える為に必要な金で、とても赤ん坊一人の為に融通してもらえそうな金額ではなかった。もし金を用意するなら、僕が働いた金で何とかするしかない。
 すると、僕の中であるひとつの提案が、火花が飛ぶようにして浮かんだ。今は赤ん坊は買えなくても、近い将来にここに来て買えるかも知れない。
「あなたは、何時もここで商売をしているのですか?」
「ああ、しているよ」
 僕の言葉に、男は舐め切った声でそう答えた。
「なら、今は持ち合わせのお金が無いので、赤ん坊は後で買いに来ます」
「好きにしなよ」
 男は態度を一つも変えずにただそう答えた。隣に居た女は子供を抱えたまま僕のほうを振り向き、「本当ですか?」と訪ねて来た。
「ああ、必ず何とかする。金は無くとも、ちゃんと稼いで用意するから」
 そこまで言うと、僕は急に人を買ったことに対する罪悪感に襲われて、そこから先の言葉が出なかった。いまさら自分の罪悪感に苛まれてどうするのだ。と自分で自分を戒めるのだが、一度芽生えてしまった感情は自分ではどうにもすることが出来ず、ただ悶々とするだけだった。
「信用してくれとは頼まないが、お前の子供は必ずお前の元に連れて来てやる。だから、今はそれでいいか?」
 僕の言葉に女は暫く考え込んだままだった。やはり始めて会った人間の言葉など、簡単には信じてはくれないだろう。だが女自身も自分のおかれている立場を理解しているのか、目元に涙を浮かべながら小さく頷いた。
「なら、決まりだな。今日からあんたはそいつのご主人様だ。好きにしていいよ」
 男はそう呟くと、商売の邪魔だから向こうに行ってくれと手を振った。


 女の名前はサチという。
 彼女はここよりはるか東の小さな村で生まれ、八人兄弟の長女だったと言う。実家は貧しい小作人の家で、どんなに働いても家は貧乏だったと言う。そしてサチが十六歳になる頃、父親が肺を患い病床に着いた為、長女の彼女が食い扶持を稼ぐために家を出て働き口を探したが、途中知り合った斡旋業の男に言いくるめられ、人買いに売られたのだと言う。そしてあの赤ん坊はその頃に身ごもったと、彼女は語った。
「家には戻りたくないのか」
 僕は帰りの車の荷台で、サチに訪ねた。彼女は子供を取り上げられた時の苦しみに打ちのめされている状態であることは承知していた。だが財産の大半をはたいて買った女の事を知りたいと言う下衆な好奇心が、僕の心を突き動かした。
「戻ってもまた元に戻るだけです。父が生きているかどうかも分からないし、家族だって元の場所で生活しているか分からないから」
 サチはそう呟くと、涙に濡れた顔を折り曲げた膝に埋めた。僕はそんな彼女に何か心遣いをしてやりたかったが、適当な言葉が何も思いつかなかった。
 そんな事を考えていると運転席のおじさんが僕の名前を呼んだ。僕は運転席の方を振り向き、気難しそうな横顔を眺めた。
「お前大丈夫なんだろうな。人を買うってことは、買った人間をきちんと食わせるだけの力が必要なんだぞ、分かっているのか」
「今まで以上に真面目に働きますよ」
「ならいいが」
 叔父さんはやや不満げな様子で、そう答えた。
 車はそれから一時間半ほどして村に着いた。村の広場には帰りを待っていた村の人たちが集まり、町で手に入れた荷物が配られるのを待っていた。僕は荷台からサチと荷物を降ろすと、叔父さんと協力して村の人たちにそれぞれ必要な物を配った。
「その女の子は誰だい?」
 麻の反物を受け取りに来た知り合いのおばさんが、虚ろな目で立ち尽くしているサチを見つけて、僕に尋ねた。
「ええ、今日から僕の家に住むことになったサチという女の子です。色々とご迷惑が掛かると思いますが、よろしくお願いします」
 僕がそう答えると、おばさんは口角を吊り上げて不適な笑みを浮かべ、肘で僕のわき腹を突いてこう返した。
「町で買ったんだね。舐められないようにしっかりするんだよ」
 そう言うと、おばさんは自分の品を持って家に引き返していった。僕はおばさんの言葉にサチに対する蔑みと僕に対するやっかみの念があるのに気付いたが、気にしない事にした。これからもこういう事があるかも知れないのだ。こんな下らない事でくよくよしていては、いずれ村の笑いものにされてしまう。あの男は話の流れで女を買った情けない奴だと。そんな風に思われてしまったら、僕は真に生きる価値の無い男だ。
 荷物を配り終えると、僕はサチを連れて家に戻った。家は暫くの間掃除をしていないせいで埃っぽく、辺りには読みかけの本やら脱いだ上着などが散乱していたが、サチが来て身の回りの世話をしてくれれば、今よりもっと快適で清潔になるだろう。
「ここが俺の家だ。明日から早速働いてもらうぞ」
 僕は彼女の主人らしく上から目線でサチにそう言ったが、サチは薄暗い部屋を呆然と見つめたままで「はい」と力なく呟いただけだった。
 それから僕は木炭ストーブに火を入れて部屋を温かくし、ポットで湯を沸かしお茶を入れるとカップを差し出した。カップを渡されたサチは「ありがとうございます」と小さく謙遜すると、カップに注がれたお茶を珍しいもののように覗いていた。
 お茶を飲んで暫くすると、僕は竈に火を入れて作り置きの野菜スープを温め、戸棚に仕舞ってあったパンを四枚ほどスライスした。程なくしてスープが温まると、僕はそれをスープ皿によそって、パン二枚と共にサチに突き出した。
「明日から色々働いて貰うぞ。料理とか洗濯とかは、出来るよな?」
「はい、出来ます」
 サチはスープを飲みながら、小さくそう答えた。僕に手酷く扱われるのを覚悟して来たのに、予想外に厚遇されている事に以外なのか、サチの表情は手品を見ている子供のように素朴で、素焼きの花器のような独特の丸みがあった。
「とりあえず、今日はもう休むといい。色々疲れたろう?寝る時は奥の物入れから布団を出して床に寝るといい」
 食事が終わると僕は食器を片付け、靴を脱いでベッドに横になった。
 部屋の明かりが消えて暫く経ち、僕の脳みその一番深い所から睡魔がやってくると、僕のベッドの隣から、泥の中に水滴を落とすような、サチのすすり泣く声が聞こえてきた。
 僕のような哀れな若者に買い叩かれた事を恥じているのか、それともわが子と離れ離れになったことが辛くて泣いているのだろうか。
 一体どちらの理由で泣いているのか僕には分からなかったが、今の僕は彼女の主人なのだ、気にすることは無いと自分に言い聞かせて、目を瞑った。


 次の日、僕はサチより早く目覚めた。僕は床の上で布団に包まり、すやすやと平和な寝息を立てて眠っているサチに目もくれず起き上がると、僕は脱いだ上着を羽織って、閉じた窓を開けた。仄かに青く色づいた朝日と、見えない氷をぶちまけたように冷え切った空気が、淀んだ室内に入り込んでくる。その冷たい空気に触れて、サチはようやく目を覚ました。
「あ、おはようございます」
 サチは粘っこくて生暖かい声で僕に挨拶したが、僕は構わずに朝の支度を続けながらこう言った。
「謝るのは後でいい、それより今日は仕事があるから、部屋の掃除を頼むよ」
 僕が身支度を整えると、サチは小さく「はい」と呟いて、申し訳なさそうに頭を下げた。
 サチを後にして部屋を出ると、昨日一緒に町へ行った叔父さんと息子のシロウが、村の倉庫の前で作業の準備をしていた。


 仕事が終わって家に戻ると、サチが濡れ雑巾で床を拭いていた。僕は荷物を上がり口に置くと、サチは遅れたように「お帰りなさい」を僕に言った。
「お疲れ様です。すぐお茶を入れます」
「いやいい、お茶は自分で入れる」 
 サチは畏まった様子で、雑巾がけの手を止めようとしたが、僕は構わずにお湯をストーブで沸かし、自分と彼女の分のお茶を入れた。
 僕がサチにお茶を渡すと、サチは昨日と同じように恐縮しきった様子で礼を述べ、カップに注がれたお茶を飲んだ。その口元を見ていると、彼女の唇は皮むいた果実の表面のように瑞々しく、指で触れたら弾ける様な弾力がありそうだった。そうしていると、彼女を買った時の、あの自分の中に湧き出た嫌な感情が再び襲ってきて、僕は自分に嫌悪感を抱いた。あの時女が欲しかったのは事実なのに、今になってうろたえてどうするのだ。僕はそんな自分の優柔不断さを呪った。
 それから僕とサチは共同で夕食の準備をすると、ストーブの火を囲みながら夕食を共にした。サチは子供が居ないのが辛いのか、今日一日暗い表情だった。
「子供が居ないと、やっぱり辛いか」
 僕は夕食のスープを飲むのを止めて、サチに訪ねた。サチは俯いたまま僕から顔を背け、そのまま押し黙った。
 またやってしまった。と僕はその時思った。彼女との距離を縮めたいのに、彼女の辛い部分ばかりに触れるものだから、こうして彼女を傷つけてしまう。もっと彼女に冷たく接すればいいのに。と一瞬考えたが、岩山の切れ目から咲く高山植物の花のように、穢れの無い心を持った彼女にそんな事は出来ない。もしそんな事をしてしまえば、僕は自分が想像する救いようのない人間になってしまう。
 結局その日の夜はサチとそれ以上会話を交わさずに、それぞれの寝床に入ることにした。
 寝床に入って暫くすると、ごそごそとサチの布団から音がするので目が覚めてしまった。目を半開きにし、月明かりに照らし出された部屋を見ると、サチが突然布団から起き上がって、流しに掛けてある手ぬぐいを手に取るのが見えた。するとサチは着ていた服のすそを上げてその大きな乳房を露わにして、手に取った手ぬぐいを押し当て、解すように乳房を揉んでいた。乳房に溜まってしまった母乳を搾って捨てているのだ。本来ならサチの子供の為にあるものだったが、今は彼女の負担になり辛い現実を呼び覚ます涙の様なものだった。
 あの乳房に甘える事が出来たら、僕が最近抱いている不自然な感情も少し収まるだろうか?と考えた。あの乳房を独占し彼女に何もかも委ねられたら幸福かもしれない。それとも声を出してご主人様らしくサチを叱ろうか。僕は喉元の奥にどろどろした熱いものがこみ上げてくるのを感じて、心臓が高鳴った。そうしてサチが乳房を暗闇の中で揉んでいる様子をただ静かに見つめていると、何時しか意識が遠のいて、そのまま眠りについてしまった。
 次の日は、僕よりも早くサチの方が目を覚ました。僕はというと昨晩の光景が頭から離れられずに、ただ悶々としていた。サチに視線を移すと、胸のふくらみの先端が少し濡れているのに気づいた。だがその事を指摘すると、昨日の事を口に出してしまいそうな気がして、中々言葉が言えなかった。
 今日は幸いにも仕事の予定が無かったので、僕は護身用に保管してあるリボルバー式拳銃の手入れを行った。手入れの傍ら、洗濯物を洗っているサチの様子を伺っていると、他の洗濯物に混じって昨日の手ぬぐいを洗っているのが見えた。
 洗濯物が終わると、僕はサチに休んでもいいよと話した。サチは僕に例を述べて頭を下げたが、僕は平静を装って、静かに本を読むことにした。だがそれでも昨晩のことが頭から離れず、どうしてもサチとサチの乳房に意識が言ってしまう。そしてその意識に耐え切れずサチの様子を覗き見た瞬間、サチが胸の辺りを手で撫で回しているのに気づいた。
「胸が苦しいのか」
 僕はほぼ反射的に言い放ってしまった。その事を指摘されたサチは驚いた様子で僕を見つめた後、目を伏せながらこう言った。
「胸が張って、すごく苦しいんです」
「そうか、やっぱり」
 昨晩の事を僕がそう答えると、サチは喉の奥を凍りつかせたように息を呑んで、また僕の方に視線をぶつけた。
「まさか、見たんですか?」
 サチの漏らした言葉に、僕は観念してこう答えた。
「……すまない」
 僕がそう答えるとサチは胸元を両手で隠して、僕から背を背けた。その悲しそうな背中を見て、僕はああやってしまったと自分で自分を罵りたくなった。散々彼女を自分の至らなさで傷つけて、さらに彼女の羞恥心をえぐるような止めを刺したのだ。もう駄目だ。俺は最低の人間だ。と思っている最中に、サチが僕のほうに少しだけ振り向いて、ささやくような声でこう言った。
「すみません。部屋でやった私が悪いんですよね・・・」
「いや、そんな」
 僕が反射的に否定すると、サチは背けていた背を元に戻して、僕に向かって絞り出すような声でこういった。
「もし見たければ、見ても良いんですよ」
 サチは声をそう絞りながら、両手を服の裾に掛けた。そしてゆっくりと裾をたくし上げて、衣服の下に包まれていた乳房を露わにした。そのまま僕の方に近づくと、「ほら」と小さく呟いてその大きな乳房を僕に向かって突き出した。白い肌で覆われた膨らみと、少し赤茶けた色に染まった大きめの乳首が、僕の目前に迫る。だが僕は乳房からもサチからも目を逸らし、何も出来ずにベッドの脇を見つめた。
「私は貴方のものですから、何されても構わないんですよ」
 その言葉からもサチからも目を逸らし、ただ押し黙った。いまさら自分の女を前にして何を怖気づいているのだ。と一瞬思ったが、僕がサチを買った目的は、己の孤独と母恋しさを癒す為だったのだ。そのことに気付いてしまった僕にはもうサチをどうこうする勇気も何も無かった。
「もういい、止めてくれ」
 僕がそう漏らすと、サチはめぐり上げた服を元に戻した。
「俺がお前を買った理由はお前が欲しかったからじゃない、ただ自分の気持ちが、寂しくてどこか足りない部分を補えればそれでよかったんだ。すまない、こんな事になって」
 苦しさいっぱいで僕が言葉を吐き出すと、サチは僕の方にそっと寄り添い、こう言葉をかけた。
「結局、貴方も子供だったんですね」
「ああ、そうだ」
 辛さにも痛さにも似た空気が僕の身体を撫で回していると、サチは僕の手を握りそっとこう囁いた。
「その気持ちは、これからも忘れないで居てくださいね、その気持ちが優しさになるときがありますから」
 サチはどこか勝ち誇った様な笑みを浮かべた。その変化に気づいた僕は、自分の中にある痩せこけた見えない触手がサチに向かって伸び、同じサチから伸びていた見えない触手に絡んで彼女の中に引き込まれる感覚を覚えた。すると彼女の中にある甘く温かいものに触れて、僕は安らぎを覚えた。
 結局、僕はその夜サチを抱いた。自分の辛さや苦しさをぶつける様に体をあわせるとサチはわが子をあやすように僕を抱いてくれた。僕は裸でサチの素肌に触れて体温を直に感じながら、自分中にある弱さを彼女に押し付ける。それを受け止めてくれたサチは僕を撫で回してあやし、乳を蓄えて熱を持つ胸元に引き寄せてくれた。僕はその乳房に触れ柔らかな彼女の優しさを感じた。そして僕が子供に戻った事に気付くと、サチは乳房の先端を含ませてくれた。僕は何も考えずに彼女に甘えた。
「好きなだけいいんですよ。私はあなたの母親になってあげますから」
 サチの言葉は冷たかったが、乳房を貪る僕にはどうでもよかった。無条件に優しくしてくれるのが何よりも嬉しかったのだ。


 それから暫くしたある日、僕は再び町に出かけた。金が溜まったのでサチの子供を買い取るつもりだったが、当の子供は大分前に買われてしまっていた。その事をサチに話すとサチは少し悲しんだが、僕が居るから大丈夫と言ってくれた。
「私はあなたの物ですから」
 それから僕は彼女を独占しながら、この小さな村で暮らし続けている――。
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