全1話

文字数 5,220文字

 もうすぐ幕が上がる。
 舞台袖の奥で緊張に震える手をどうにか抑えようと、僕は必死で手の平に人の字を書くと、それを飲み込む動作を三回繰り返す。二時間の舞台で僕の出番はたったの五分、台詞もひとつしかない。そのたった一つの台詞さえも本番でちゃんと言えるか自信が無かった。根っからのあがり症で、稽古の時は上手くいくのに、いざ本番になると毎回のようにミスをするのだ。演出家からは今日とちったら次は無いよと言われ、益々不安が増大していく。それでも芝居の魅力に取りつかれ、何とかこの劇団でチョイ役を任されて自分なりに頑張ってきたが、それも今日までかもしれないと思うと胸が張り裂けそうな気持ちになる。
 しかし今日の僕には秘策があった。
 ポケットに忍ばせたアレをそっと握ると祈るような気持ちでそれを取り出した。

『松極堂』。目の前のガラス戸にはそう記してあった。
 その日は舞台の稽古を終え、稽古場から自宅のあるアパートへの帰り道、突然の豪雨に見舞われ、仕方が無く雨宿りのつもりで、その古道具屋の軒先に避難していた。
 バイトも休みなので特に急いで帰る必要は無かったが、降り出した雨は一向に止む気配を見せず、手持無沙汰になり何となくその『松極堂』の扉をくぐると、そこは何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出していた。埃の積もった調度品の数々にラジオや扇風機などの年代物の家電製品。壁に並んだ僕の知らない歌手が笑顔を振りまいているジャケットのレコード。そして奥の棚には大量の古本や怪しい小瓶などが所狭しに並んでいる。気の向くまま壁に飾られた西洋風の絵画をぼんやりと眺めていると、突然、背後から低い男の声がした。
「お客さん、何かお探しですかな」
 驚いて振り向くと、小柄で口髭を生やした老人が顔を斜めにかしげて立っている。どうやらここの店主らしい。
「いえ、特にありません。ただ何か珍しい物が無いかなと物色しているだけでして」
 答えたは良いものの、老人から発せられる異様な空気に思わずたじろぐ。老人は珍しい動物でも眺めるかのようにゆっくりと全身を観察すると、やがて奥の机に向かい、引き出しから何かを取り出した。
 身じろぎながらその動きを目で追うと、彼は再び僕の前に立ち、手の中にある小さな長方形の紙箱を目の前に出してきた。
「これは迷住口香糖と言ってな、言い伝えによると、昔中国の山奥に迷住神水と呼ばれる湧き水があって、それを一口飲んで一言、言葉を発すれば、それを聞いた者はたちまち魅了されると言うシロモノじゃ。かの秦の始皇帝もこの水を飲んだとか飲まなかったとか。その迷住神水を口香糖――簡単に言うとガムにしたのがこの迷住口香糖じゃ」
 唖然として口を丸くしている僕に、老人は言葉を続けた。
「使い方は簡単じゃ。これを大事なプレゼンをする時や、好みの女性を口説く時に噛むと、噛んだ者の言葉を聞いた人はたちどころにメロメロになると言う訳じゃ。今日はこれも何かの縁だで、一枚無料でサービスしといてやる」そう言って髭面の男はそのガムを一枚僕に手渡すと、店の奥に姿を消した。

 舞台の本番が始まってもうすぐ一時間半が経とうとしている。もうすぐ僕の出番だ。ポケットから例のガムを取り出すと、包み紙を解き口に入れる。雑草のような苦みが口中を支配すると、何だか不思議と気分が落ち着いてくるのが分かる。なるほど、精神安定剤的な効果で緊張が落ち着くというワケか。大丈夫、自分は名家の執事だと言い聞かせ、役になりきると、舞台に一歩踏み出した。
「只今、ご主人様がお戻りになりました」
 しまった! ガムのせいで、いつもより口が上手く回らなかった。僕の発したその台詞に、周りの空気が一変したのが感じ取れる。観客がどよめき、本番中だというのに他の役者たちの目が僕に一斉に集まった。
 ヤバい、舞台が中断している。これはとんでもないミスをしてしまった。やっぱり今日が最後の舞台になってしまうのかと激しく後悔していると、やがて拍手の波が大音量で押し寄せてきた。
 今起こっている状況が僕には理解できずにいた。どこからともなくアンコールの声が聞こえてくると、役者の一人が僕の手を引き、舞台中央に立たせた。鳴りやまないアンコールの響きに、意を決してさっきの台詞を繰り返す。
「只今、ご主人様がお戻りになりました」やっぱりガムが邪魔してスムーズに言葉が出ない。
だが、観客席からは、さっき以上の拍手と大歓声が巻き上がると、自然とスタンディングオベーションが起きた。
 どうして良いか分からず、取り敢えず僕は深くお辞儀をすると、逃げる様に舞台袖へと逃げ込んだ。それから楽屋へ戻り化粧台の椅子に座り込むと、さっきの出来事を整理するために目を閉じる。
 僕は自分の出番直前にあの爺さんから貰ったガムをかんだ。それから普通に舞台へと上がり、何の変哲もない段取り説明の台詞をしゃべっただけ――そしたら謎の大拍手となった。生まれて初めてのアンコールも起きた。理由は全く判らない。あの爺さんからもらったガムのせいなのだろうか? いや、そんなはずはない。それほど効果のあるガムをおいそれとくれるわけがない。という事はやはり答えは一つ、自分はからかわれたのだ。
 あのガムのせいで台詞が変な発音になり、それが妙に可笑しかったに違いない。
 途端に顔中が熱くなると恥ずかしさで胸が締め付けられる。
 でもどうしよう、僕のせいで止めちゃって大事な舞台を台無しにしてしまった。もう劇団にはいられない。大学の演劇部から芝居一筋でもうすぐ二十八歳、やり直すにはまだまだ十分な歳だ。からかわれたとはいえ、最後に夢だったアンコールやスタンディングオベーションを受けただけでも、僕の役者人生に悔いは無い。
 涙をこらえながら荷物を整理し、明日からのバイトのシフトを増やしてもらう算段をしていると、舞台を終えた役者たちが戻ってきた。僕は直ぐに立ち上がり直角に頭を下げる。
「今日は大事な舞台を壊してしまい、誠に申し訳ございませんでした。責任を取って今日限りで劇団を辞めさせてもらいます」そう吐き捨てると、楽屋を出ようと足を進める。
 すると、役者たちの奥から演出家が鬼の形相で現れ、僕の前に立ちふさがった。
「君、大変な事してくれたね。おかげで明日からのチケット、完売だよ」
「えっ?」
 演出家の表情が鬼から恵比寿に変わる。
「あんな才能が君にあったなんて気づかなかったよ。さっきの台詞には本当に感動した。演出家のくせに俺は何を見ていたのだろうな。明日もこの調子でよろしく頼むよ」そう言って僕の肩を叩き、強く握手をすると鼻歌交じりに楽屋を後にした。その後、茫然と立ちすくむ自分に劇団の仲間たちが賞賛の嵐を送ったのは言うまでもない。

 それから次の日、再び僕は『松極堂』の門をくぐると、あの髭面の老人に昨日あった出来事を話して、あのガムを買いたいと申し出た。
「三万だ」彼は指を三本立てて僕に迫ってきた。
「三万ですか……」安くはないとは思っていたが、正直、予想を超えた金額だ。
「十枚入りだから一枚三千円、効果を考えると破格じゃと思うがな」
 確かにそうだ。一回三千円であんなに感動させられるのであれば、決して高くはない。
「分かりました」僕は、仕方なく、なけなしの三万円を男に手渡す。
「それから使い方には気をつけろ。一日一回、効果は一時間じゃ。それ以上使っても意味ないからな」彼はそう言い残して店の奥に姿を消した。僕はそのガム『迷住口香糖』をポケットへ大事にしまうと、バイト代の出る月末まで食費をどう工面しようかと頭を抱えながら店を後にした。

 次の日、劇場へ顔を出すと、すぐさま演出家に呼ばれ、昨日の台詞を聞かせてくれと指示された。ガムが惜しかったので、紙でくるんだ昨日の残りカスを再び口に入れて台詞を吐くが、演出家の表情はピクリとも動かない。
「今日は調子が悪いようだね。それとも昨日は奇跡だったのかな?」訝しげな演出家の目が僕を突き刺す。やはり一度しか効かないようだ。後ろを向き、さり気なくガムを紙に戻すと「本番では必ずうまくやりますから」と啖呵を切った。
 実際うまくいった。
 出番直前にガムを噛むと、昨日と同じ感覚になり、舞台で台詞を言い放つと再び大絶賛を受けた。演出家には「僕は本番に強いタイプですから」と言い訳したが、「この前まで逆の事言ってなかったか」と揚げ足を取られた。

 それからの日々は正に順調だった。
 舞台での出番が徐々に増え、主役の話も何度も持ち掛けられたが、ガムの効果は一時間なので、それを越す出番が必然となる主役は辞退する他ない。また、一日二公演の場合でも体調不良を理由に断った。それでも噂が噂を呼び、僕を使いたがる他の劇団からのオファーも増え続けた。どの仕事も一日一時間の出番で終わる仕事ばかりを選んでいたが、それが逆に天才だと持てはやされる事となった。気がつけば、映画やドラマ、CDデビューまでも依頼が舞い込んできたが、どういうわけか録音された音声や、マイクを通して発せられた声は評判が悪い。きっと生声にしかガムの効果が発揮されないのだろう。
 そうそう、いつだったか、舞台の出番前にガムを噛んでいたら急に催してきて、「ちょっとトイレへ」と仲間に告げると「今、何て言った?」と感激してみんなが集まってきて困ったことがあった。
 
 それから二年が経ったある日。すっかり売れっ子になっていた僕は、久しぶりの休日に仲間たちと飲み歩いていた。昼間からすっかり出来上がっていて、いつの間にか終電を逃していた。仲間と別れ自宅に帰ろうとタクシーに乗り込むと、ふと、あるアイデアを思いつく。ここから家まで八千円くらいはかかるだろう。ガムを使ってなんとかチャラにならないかな。今日はまだ使ってないし。
 慣れた手つきでガムを頬張ると、運転手に向かって恐る恐るこう言ってみた。
「すみません、サイフ忘れたみたいなんですけど、何とかなりませんかね」すると運転手からは「え、今何とおっしゃいました?」と訊かれ、もう一度繰り返す。
「いやあ、今のお客さんの言葉、大変感動しました。お代はもちろん結構です。むしろこっちが払いたいくらいですよ」
 よし、上手くいった。これからもこの手で行こうとウキウキして、他に応用できないかと頭を巡らせた。
 それから運転手は上機嫌に僕を褒めたたえ、良かったらサインくださいと運転中だというのに助手席をまさぐり始めた。時計を見ると、タクシーが走り出してニ十分が経とうとしている。
 その時だった。
 目の前に猫が一匹、急に飛び出してきた。体勢を崩していた運転手は反応が遅れ、「あっ」と叫ぶと、慌ててハンドルを切った。
 だが、そのまま猛スピードで電柱に思いっきりぶつかった。
 ……気が付くと車中に焦げ臭い匂いが充満し、全身から激しい痛みを感じて、身動きが取れない。
 やっとの事でシートベルトを外してなんとか外へ逃げ出したが、運転手はぐったりとしていて動く気配を見せない。タクシーの前方はものの見事に潰れていて、黒煙が上がっている。助けを呼ぼうと周りを見渡すが、人影は見えず、そこには無人の畑が広がっているだけだった。痛む身体をどうにか動かして、ポケットからスマホを取り出すが、画面には大きなヒビが入っており、電源も入らない。額から流れ出している血液が視界を徐々に遮ると、意識がうつろになっていくのが分かる。
 不意に自転車のブレーキ音が鳴り、女性の声が聞こえる。
「どうしました? 大丈夫ですか」と、彼女は僕の上半身を抱きかかえる様にして、携帯電話を取り出す仕草が見えた。きっと近所の主婦なのだろう。淡い紫の割烹着を着ていて、自転車の籠には買い物袋が乗せられているのが微かに目に入った。
「しっかりしてください。今、救急車を呼びますからね」そう言って彼女は携帯電話を開き、ボタンに手を掛けようとする。
 助かった。目の前の中年女性がまるで天使の様に映った。
「あ、ありがとう」言葉を絞り出して僕は彼女に礼を言った。
「……え、今なんと?」彼女の手から携帯が落ちる。僕はイヤな予感がした。そういえばあのガムを噛んでから、まだ一時間経っていない……。
「とにかく……救急車を……」必死に彼女に訴えたが、彼女の瞳は魔法に掛けられたようにうっとりとしながら僕の目を覗き込んでいる。
「ああ、なんて素晴らしいの。こんなに感動したの、生まれて初めてだわ」
 すでに痛みを感じなくなっていた。薄れゆく意識の中で、彼女の言葉が頭に木霊している。

「もう一回言って。ねえ、もう一回言って」
                                   ――完結――
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