序章 予感〈透子〉

文字数 1,315文字

ひとを好きになるのに理由はいらない。

 わたしは白い石膏像を前に、以前何かの本で読んだ言葉を思い出していた。そう。好きになるのに理由はいらない。それが人であろうと、石膏像であろうと。
 
 平日の人影もまばらな美術館の一室に、その石膏像は立っていた。展示室に足を踏み入れた途端、まるでそこにだけスポットライトが当たっているかのように、わたしの目は惹きつけられた。
 作者の意図なのだろう。その石膏像の女性は、入り口に背を向けて立っていた。左手に花瓶のような壺を持ち、何か考え事でもしているかのように、少し首を傾げている。そして、その視線は、まるで花をそっと摘んでいるかのような右手に落ちていた。
 見れば見るほど、心が吸い込まれていくような美しさだった。でも、何よりもわたしの心を捉えたのは、その後ろ姿に漂う雰囲気だった。何て言えばいいのだろう…。自分を炎のように焦がした情熱や抑えきれなかった憎しみ、そして、打ちのめされるような悲しみ…そういったものをすべて乗り越えて、行き着くところまで行き着いてしまったかのような、そんなことを想像させるものが、その後ろ姿にはあった。彼女に漂う雰囲気から、まるで一つの物語が浮かび上がってくるような感じだった。
 仕事柄、いろんな作品を見てきたけれど、こんなに一つの作品に純粋に惹きつけられ、心を揺さぶられるような感覚を味わったのは初めてだった。わたしは魅入られたかのように時間を忘れて立ち尽くし、その後ろ姿にただただ見惚れていた。
 しばらくしてから、わたしはようやく前へ歩き出した。匂うような美しさが漂う首すじ、白くてすらりと細長い指先、彼女のほっそりとした、それでいてどこか艶めいた身体を包む、繊細で柔らかそうな布地が織りなす襞(ひだ)…。段々と見えてくる細部をひとつひとつ目に焼きつけるかのように、わたしは一歩一歩ゆっくりと彼女に近づいていった。そして、目の前まで来ると、今度はゆっくりと時計回りに歩き、彼女と向かい合わせになる位置でようやく立ち止まると、わたしはそっと、その顔を見上げた。

―なんて、美しい人なんだろう。

わたしはその神々しいまでの美しさにはっと胸を突かれた。
 その顔は、聖母マリア像のように、微かな憂いを帯びた、穏やかな笑みを浮かべていた。見る者の心に、祈りにも似た清らかな感情を起こさせるような微笑みだった。目には瞳がないけれど、もし血の通った人間であれば、透きとおるような、深く澄んだ瞳がそこにあるかのように思わせる、慈しみ深い眼差しだった。でも、その美しい顔は一方で、まるで内に秘めた思いを隠す仮面のようでもあった。
 もう一度後ろから見ようとしたその時、鞄に入れた携帯がわたしを現実に引き戻した。わたしは急いで手帳を取り出すと、プレートに書かれた作品名と作者の名前を書き記した。

『諦念―檜垣成志』
 
手帳を鞄にしまうと、わたしは足早に出口へ向かった。
 歩きながら今までに感じたことのない不思議な感覚が、胸の中にさざ波のように広がっていくのを感じた。これから何かが始まりそうな予感…とでも言うのだろうか。その感覚は次第に温かい潮となって全身を駆け巡り、わたしは美術館をあとにした。
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