第2話

文字数 1,263文字

 俺には、視覚、嗅覚、味覚、触覚、痛覚、その他一般的な感覚や感情は備わっている。ただ一つ、人間への愛を除いては。何度も人を愛してきた。幼なじみ、友人の恋人、高校の担任教師、一夜限りの人々。無償の愛だと口では言いながら見返りを求め、何も返されなければ冷めていく。そしてのぼせ上がっていた心が冷めると、粗が目につくようになる。受け入れがたい癖、思考、習慣……。一度気になると止まらなくなり、最終的に相手を罵り始める。人間は醜く、人間の愛は醜悪だ。その点、あの子は――のぞみは違う。出会ってまだ2週間ほどだが、この想いは膨れ上がっている。
 のぞみ――つぼみのまま咲かない1輪のたんぽぽを、真剣に愛している。のぞみとの初対面は、運命的だった。自転車で近所を巡るのが日課だった俺は、その日ふらりと入った路地で、道端の花になぜか視線を吸い寄せられた。ふっくらと丸いつぼみは、あと数日で花開くことを予感させている。俺はなんの気無しにじっと見つめていて、数メートル先を暴走するトラックにまるで気づかなかった。耳をつんざく爆発音と悲鳴が聞こえたのは、その数秒後のことだ。もしたんぽぽに見惚れていなければ、轢かれていたかもしれない。この子が俺を助けてくれた。俺は何も返してやれないのに。無償の愛をまざまざと突きつけられてからというもの、ひたすらのぞみに愛を注ぎ続けた。俺にも無償の愛があるのだと証明したかった。
 自転車を漕ぎながら、見慣れた小道を走っていく。ペダルを前へ進めるごとに口元が緩んでしまう。次第にのぞみの姿が見えてきた。いつものぞみの上にある窓が開いているが、今日は閉まっていた。上々だ。昨日は妙な女がその窓から顔を出し、妙なことを言ってきたから、少し警戒していた。初めて見る女だった。髪は長い栗色で、化粧っ気がなく、顔は青白い。簡素な白いワンピースが余計に青白さを際立たせていて、今思い出しても幽霊のようだ。恐らく視力の病気なのだろう。俺の方を向いていたが、見てはいなかった。俺の愛を都合よく解釈した身勝手さに腹が立ち、ついキツい言い方をしてしまった。申し訳ないとは思うが、それよりも大事なのはのぞみだ。自転車を止め、愛しい相手のそばにしゃがみ込んだ。
「やあ、今日は少し元気がなさそうだね。昨日の雨のせいかな」
普段よりも生気がないように見えるのぞみが心配だった。昨日、十分に愛を注げなかったせいかもしれない。気が急いて回らない口を叩きながら二の句を継いだ。
「き、君に話したいことがたくさんあるんだ。昨日みたいに邪魔が入る前に、俺の話を聞いてくれ」
 そう言った瞬間、のぞみに異変が起きた。今にも花開きそうなつぼみが、パンッと弾けたのだ。
「の……ぞみ……?」
まるで銃弾に撃ち抜かれたように、つぼみが散り散りに舞っている。つい先程まで美しい緑色をしていた葉も茎も命を失い、老人のように茶色くしおれて倒れ込んだ。
「……何故だ、のぞみ。どうして……」
 後に残ったのは、自転車の車輪がカラカラと回る音と、無惨に散ったたんぽぽのつぼみだけだった。
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