第3話

文字数 1,321文字

 ワタシはヒトではない。よって「一般的な感覚」というものがわからない。ただ一つ、「感情」を除いては。
「春の匂いがする。ふふっ暖かくなるなぁ」
 芽を出したその日、綿毛のような軽やかな声が頭上から降ってきた。あれはヒトの女の声だと、近くを通るアリから聞いた。ヒトには、声だけではなく顔や体があるらしい。茎や葉と似たようなものだと、忙しなく働くハチから聞いた。だが、女は顔や体を見せたことはない。ワタシの頭上の四角い穴――窓というらしいが、それが開いている時に声が聞こえるだけだ。女はよく歌と呼ばれる奇妙な鳴き声を発したり、別のヒトと話したりしていた。そして、よく笑った。女の笑い声を聞くたびに、体中の細胞が活性化し、小さかった葉はぐんぐん伸び、丸く閉じた頭は大きくなった。硬く黒い地面はワタシのような花が咲くのに適していない。風に乗って飛んできた他の兄弟たちは、芽も出せず暗い地の中で息絶えるか、芽を出しても葉を伸ばせず枯れていった。だがワタシは違う。女の笑い声が糧となり、たった3日でつぼみをつけるまでに至った。だから愛した――ワタシの養分として。
 ある時、ワタシの前にヒトの男が現れた。いつも決まって太陽が傾き始めた頃にやってくるその男は、枯れ葉を繋ぎ合わせたような格好をしていた。頭は鳥の巣のようで、瞳はキツネのそれに近い。その男について、私は特段気にしなかった。ヒトとは花を愛でる生き物だ。見られることに快も不快もない。勝手に「のぞみ」という名を付けたことも許した。むしろ、やや好意的に捉えてさえいた。この男がいる間、女から得られる養分が増したからだ。喋らず笑い声も立てなかったが、頭上から金の砂のように星の雨のように恵みが降り注いでくる。たったいっときではなく、永遠に続けばいいと考えていた。だがあの瞬間、一変した。
「俺のこと、誰かと勘違いしてるのでは? そういうの、迷惑なんでやめてください」
男が立ち去った後、窓の向こうから初めて聞く種類の声が降ってきた。
「歩美!? 何があったの? 何で泣いてるの?」
女は「泣いている」らしい。その泣き声はワタシの養分となるどころか、細胞を少しずつ死滅させていった。いけない。ワタシが死んでしまう。だが、どうすることもできない。結局、窓が閉まるまでの間、ワタシの細胞は死に続けた。
 翌日も男はやってきた。女が泣いた原因がこの男だということはわかっている。顔を見るだけで火にくべられたように茎も葉も熱くなった。風もないのに全身がゆらゆらと揺れ震えだす。男がいつものように語り始めたが、何も聞こえない。初めて抱く感情は、既に制御不能に陥り暴走しかけていた。そして、蜘蛛の糸のように細く保っていた正気が、ある一言で断ち切られた。
「昨日みたいに邪魔が入る前に、俺の話を聞いてくれ」
邪魔と言ったのか。あの女のことを。ワタシの養分を。許せない。許せない。許せない。お前こそがワタシの生命にとって邪魔な存在だ。
――パンッ。
その瞬間、頭が弾け飛んだ。茎も葉も枯れていく。ワタシの生命は、そこで終わりを迎えた。
「アハハ……」
 後に残ったのは「怒り」という感情で死んでいった無惨な枯れ花と、かすかな女の笑い声だけだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み