第6話

文字数 1,838文字

 物置部屋掃除の翌日、学校から帰った後、私は1人で床を掃除しました。
 物置部屋の床は、埃を掃いてしまえば大して汚れていませんでした。荷物置きにしか使われていませんでしたから、荷物がなくなってしまえば、あの部屋が家の中で一番綺麗でした。
 床掃除は、箒で掃いてから雑巾掛けをしました。一階のクローゼットの中に掃除機があるのは知っていましたが、ゴミが扉の前に山積みになって取り出せなかったので、使うのをやめました。

 床掃除をしながら、父方の祖母のことを考えていました。

 群馬の田舎生まれの祖母は気が強い人でした。同じく群馬の田舎生まれの祖父と、ずっと群馬の田舎に住んでいました。

 祖母は掃除の仕方にこだわりがあって、箒の取扱いや雑巾の掛け方なんかにも、細かい作法を持っていました。掃除機は決して使いませんでした。「箒と雑巾があれば掃除はできる」とよく言っていました。ポリシーというより、意地みたいなものでした。
 私がまだ小さい頃、母は家事や掃除の仕方について、よく祖母に口を挟まれ叱責されたようでした。そんなだから、母は祖母のことを毛嫌いしていました。私も祖母に会うと、「女の子は家事ができなきゃだめだ」「料理を手伝え」と言われるので、小うるさくて嫌いでした。祖母の掃除の作法とやらも習わされ、年に2回しか会いませんでしたが、どれも楽しい思い出ではありません。

 父方の祖父は大工をしていて、頑固で見栄っ張り。酔うと自慢話の多い人でした。酒もタバコも大好きで、ヤニ臭いので祖父に抱っこしてもらうのは小さい頃から嫌でした。「俺は病院にかかった事がない」が、お決まりの自慢話でしたが、まさか風呂場でストンと亡くなるとは本人さえ思わなかったでしょう。入浴中に意識を失って、それきりだったそうです。ヒートショックって言うんでしたっけ。私が小学2年生の頃の話です。

 祖母は祖父が亡くなってから、ずいぶん気弱になりました。年2回会いに来れば満足、それどころか「子育ては自分達でしろ、親を頼るな!」と言って追い返す勢いだったのに、「いつでも遊びに来い」「一緒に暮らそう」と言うようになりました。
 祖父が急に亡くなり、祖母は生活に不安を覚えるようになったようでした。祖母は私達との同居を望みましたが、母の断固たる拒否により同居に至りませんでした。父の姉、叔母もいますが、四国のどこかに嫁にいったらしく、ほとんど関わりがありませんでした。叔母とは祖父の葬式で会ったのが初めてだったと思います。

 その後、祖母は祖父が乗っていた軽トラに乗って、舗装もろくにされていない群馬の田舎道をノロノロと走りながら生活していました。運転免許は持っていたけど、ほとんど祖父が運転してたから慣れないらしく、しばらく父に習って練習したそうです。
 小学3年の夏に最後会った時、「ばあちゃん運転できるようになったから、また遊びに来い。今度は助手席に乗せてやる」と群馬訛りの語気の強い話し方で言われて、心の中で嫌だなと思ったけど、適当に「うん」と答えておきました。

 その後祖母は、時折父の携帯に電話をよこしているようでした。
 酔っ払った父が「ばあちゃん話したいって」と私に携帯を渡してくることもありましたが、私は出ませんでした。遊びに来いと言われるのが嫌だったからです。というより、そんな事を言われても困るからです。我が家の家族仲は悪くなるばかりで、祖母に会いに行く余裕は、心理的にも金銭的にもありませんでした。それに、私をダシに我が家におもねろうとしている気がして、気持ち悪かったのです。
 父も「またそのうち遊びに行くから」と言って、あしらっているようでした。父もたぶん、群馬に行く気なんてなかったと思います。今はガソリン代が高いとかなんとか、お金のことを気にしていましたから。

 祖母が狭い田舎で意地になって磨き上げた掃除の作法は、私達のなんの役にも立ちませんでした。現に、私が床を掃除する時も、祖母に教えられたことなんて何一つ覚えていませんでした。ただ、いつも学校でやっているみたいに、箒で掃いて、雑巾がけしただけ。たぶん、父も母も、祖母から押し付けられた鬱陶しいこだわりを、家のどこかに積み重ねて、他のゴミと区別がつかなくなっていたんだと思います。ゴミが溜まっていくばかりのあの家が、それを証明していました。


 綺麗に拭き上げた自分の部屋の床に、祖母の顔が浮かんで嫌な気持ちになったので、そこに来客用の布団を敷きました。

つづく
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