第4話

文字数 1,600文字

 自分の部屋が欲しいと言った時、父は「中学生になったらお前の部屋をあげようと思ってたんだ」とヘラっと笑いながら私に言いました。父はこの日もお酒を飲んでいて、帰宅後ずっとダイニングテーブルの椅子に座ってテレビを見ていました。テレビ前のソファに座れば良いのに、わざわざテレビから遠いダイニングテーブルの椅子に座って、いつもぼーっとテレビを見ているのです。
 母は眉間に深いしわをつくり、わかりやすく嫌な顔をしていました。てっきり母も反対するのかと思われましたが「わかった」と返事をしました。「日曜日仕事から帰ったら、一緒に物置部屋を片付けるから」と続けて言うと、母は買ってきた惣菜の容器をビニール袋から出して、私に手渡しました。父の分は買ってきていないようでした。このやりとりが終わるまで、母は父の方を一瞥もしませんでした。父の意見は最初から存在していないかのようでした。

 日曜日、母が帰ってきたのは夜8時でした。
 母はこの日もイライラしていました。帰宅するなり「ただいま」の声もなく、リビングのドアをけたたましい音を立てて閉めたので、そう思いました。イライラと一緒に疲労感も見える痩せた頬に、かつての母親らしい柔和さはありません。肌はカサつき、うっすらといくつもシワが刻まれ、乾いた砂のような質感に見えました。美人と褒められて誇らしかった母の顔から、すっかり笑顔は消えていました。

 ドンドンドンと、無意味に大きな音を立てて階段を登る母の背中を追って、私も2階に上がりました。母の背中に向かって「おかえり」と言いましたが、返事はありませんでした。
 物置部屋は、ダンボールが壁の半分ほどの高さを埋めて置かれ、使っていない家電やら、私が昔使っていたベビーチェアや絵本、オモチャ箱、幼稚園の発表会で着たてんとう虫役の衣装などが置かれていました。隅には埃が溜まっており、換気も十分にしていないからか淀んだ空気が立ち込めていて、都合のいい時にだけ存在する部屋という感じでした。でも私には、リビングよりこの部屋の方がマシに思えました。リビングの方がごちゃごちゃしていて汚くて、陰湿で、ドラム缶に押し込められているかのような息苦しさを感じていたからです。

 物置部屋の掃除を始めると、母は割り切ったかのようにテキパキとダンボールを仕分けし始めました。私は母の指示通りに父と母の部屋に荷物を運び出しました。ひと通りダンボールを仕分け終わると、最後に「これ捨てて良いわよね」と私の幼少期の思い出たちを指差しました。私の意思で残しておいた物ではなかったので、なんで私にそんな事を聞くのかわかりませんでしたが、「うん」と答えました。「じゃあゴミは後で出しておくから、床掃除は後で自分でやって」と母は言い残して埃臭い部屋を後にしました。都合のいい時にだけ存在する部屋は、晴れて私のものになりました。

 私は夕飯を食べそびれてしまっていたので、部屋の片付けが終わってから、夜10時頃にようやく食べることができました。炊飯器に一杯分、カピカピに乾燥した残り物のご飯があったのでお茶漬けにして、啜って一瞬で食べ終わりました。
 父はもう自分で何か買ってきて食べ終わっていたようだし、この日は休みで朝からずっとお酒を飲んでいましたから、母が帰ってくる頃にはいびきをかいてリビングのソファで寝ていました。母は掃除の後シャワーを浴びてすぐ寝てしまったようなので、私は1人でお茶漬けを食べました。
 米を大して咀嚼もせずに、水と共に流し込むだけのお茶漬けを、この頃の私は愛用していました。お腹は膨れるし、台所で立ったまま食べられるし、リビングに長く居座らなくて済むので、お茶漬けは最高の食事でした。そもそもこの頃は冷蔵庫にまともな食材がなかった気がします。
 父も母も、何を食べて生きていたのでしょうか。一緒に食べていないから、知る由もありません。

つづく
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