七 ー十一月ー

文字数 7,989文字

 御付きの机の上にある、白くて小さな丸い平皿。水の入ったその皿には、真っ赤に染まった紅葉の葉が二枚浮いていた。
「こちら、これで以上になります」
「そうかい、ご苦労様」
 神様は朗らかに御付きへ礼を告げると、手にしていた筆を筆置きに置いた。御付きも手元の書類を重ねると机の隅に置く。
 出雲の御集りから数十日。しばらく落ち着いた日々が続いたせいか、久しぶりに立て込んだ仕事に御付きはいつもより疲労感があるように思う。つもった疲れを減らそうと肩を回すが、少し良くなったかと思えばすぐに舞い戻ってきた。
「凝ってるなら、私が肩もみをしようか」
 無邪気な顔で肩もみしているような真似をする神様に、御付きはゆるりと首を振る。
「いえ、大丈夫です」
 もとより相手が神様である以上、御手を煩わせることを御付きがさせるわけにはいかない。しかし、神様からしたら面白くなかったみたいだ。唇をとがらせると、椅子から降りて水鏡の方へ向かった。
 ゆらりと動いているであろう水面になにやら呟く神様に、御付きはふと先月のことを思い返す。
 神様の気まぐれによって出会ってしまった人間の少年・佐原(さはら)一誠(いっせい)と鬼の少女・さち。少しずつ仲を深める二人に神様は会いに行ったのだ。玩具(おもちゃ)を面白がる幼子のようにちょっかいをかける神様を、白猫の姿になった御付きは鳴いて引き留めることしかできなかった。
「見てごらん、君。一誠の学校でもお祭りがあるそうだよ」
 微笑みながら手招く神様に御付きは肩をすくめると、神様の横に並び立つ。水鏡には友人たちとともに割り箸で鉄砲を作る一誠が映っていた。
「楽しそうですね」
「ああ、ぜひとも行ってみたいよ」
 歌うような呑気な声音に、御付きは勢いよく神様を見た。
「……御冗談ですよね?」
「なんだい、その面白い顔は」
 けたけた笑う神様を、なおも御付きは凝視する。
「御冗談ですよね」
「ああ、冗談、冗談だよ。だからそんなに顔を近づけないでくれ」
 今にも吹き出そうとする神様からやや距離をとり、それでも御付きはじとりとした視線を向ける。
「先月はつい引き留めそこないましたが、本来ならばあってはいけないことなのですよ。それを貴方様、反省の様子も見せずに」
「反省も何も、私は神じゃないか」
 にっこり、あっけからんと神様は言った。そんな神様に、御付きは盛大に肩を落としてわざとらしくため息をつく。くじけそうになるたび御付きは思う、どうして自分がこの神に仕える御付きに選任されたのか。
 考えることが嫌になったせいだろうか、御付きは密かに思い続けた疑問をつい口にした。
「何故貴方様はさちさんに最後、あのようなことをおっしゃったのですか」
「さちに、最後?」
 少し逡巡したのち、ああと神様が思い出すとくすくす笑った。
「ちょっとした気まぐれさ」



倉田(くらた)、それで割り箸鉄砲何個目?」
 手元にあるでき上がった割り箸鉄砲をいじりながら、一誠は隣の席で同じく割り箸鉄砲を作っていた倉田を見る。手を止めた倉田は、掌を突き出した。
「これで五個目! 一誠は?」
「俺は八個目」
 一誠の机の上には、でき上がった割り箸鉄砲で膨らんだ袋があった。
 十一月半ばにある文化祭まで残り一週間。何処のクラスも、文化祭の準備で活気にあふれている。一誠たちのクラスでは、縁日を開催だ。射的にスーパーボールすくい、輪投げにくじ引きの四つのゲームをすることができる。一誠は、射的の担当だ。
「一誠早くね?」
「そう? さくさくと作れてる方だとは思うけど」
 放課後の今、他の射的担当者は部活動や塾でいないため一誠と倉田だけで割り箸鉄砲を作っている。予備も考えて一五個作ることになっているが、二人で全てできてしまいそうだ。
「俺、明日からはバスケ部の出し物準備メインで出ないとだから、今の内にできることしときたいんだよなー」
 倉田が作っていた五個目の割り箸鉄砲が完成する。ややいびつな形のそれは、彼の座る席の机の上の袋にしまわれた。
「男バスは何することになったんだ?」
「劇だよ、劇。オール男だけのシンデレラ」
「何だそれ」
 苦笑しながら一誠は次の割り箸に手をかけた。ふと手元に影ができる。
「佐原くん、ごめん。ちょっといい?」
 バインダーを手にした木下(きのした)が机の向かいに立っていた。
「どうしたの、木下さん」
「図書委員の展示のことで聞きたいことがあって」
 そう言って見せてきたバインダーには、先週の委員会の集まりで配られた紙が挟まっていた。要所要所にメモ書きが記されている。
「この部分の件なんだけど、担当の子が一人でするの大変みたいで。できるときだけでも助けてあげてほしいの」
「この件か、うん、わかったよ」
 一誠がうなずくと木下の顔がほころんだ。
「ありがとう。本当は、私が助けれたら良かったんだけど」
「仕方ないよ。文化祭の準備、クラスや部活だってあるし。加えて図書委員長としても頑張ってるよ」
 十月から生徒会や委員会の役職は、二年生に引き継がられた。木下が委員長になったのは、委員内からの推薦によるものだ。
「そーそー。木下さんめっちゃ頑張ってんだから、帰宅部の一誠にどんどん仕事ふればいいんだよ」
 そう言いつつ、倉田は新たな割り箸に手を伸ばす。そんな彼に一誠は眉根を寄せた。
「その通りだけど、それ倉田が言うか?」
「え、言ったら駄目だった?」
 きょとんとする倉田に、一誠は肩ををすくめた。木下も困ったように笑う。
「佐原くんは縁日で役職持ちだし、図書委員の展示でもメインの部分お願いしてるからそれなりに大変だよね。最近放課後もよく残ってるし」
 文化祭の準備にホームルームを使うが、やはりそれだけでは時間が足りない。連日の放課後の居残りは必須だ。
「大変なのはみんな一緒だし、自分のできることをやっていかないとだから」
 一誠が笑みを見せると、木下もつられるように微笑む。それから、思い出したように口を開けた。
「そういえば、さちちゃんは元気?」
「え、さち?」
「うん。九月に会ったきりだから、文化祭来てくれたら嬉しいなって」
「俺も会いたい! 文化祭来るんの?」
 作業の手を止めた倉田がわくわくした目で一誠を見る。そんな彼に、一誠は曖昧に笑った。
「誘ってはみたんだけど」
 歯切れの悪い物言いに、倉田と木下がそろって首を傾げる。
 時計の針は五時、窓の外では真っ赤な夕日の上に紺色が舞い降りてきていた。



「……烏の声」
 遠い遠い先にいるだろう鳥の声を耳に、さちは家の中に入る。土間に面した台所に収穫し洗った薩摩芋を置くと、窓の向こうを見た。生い茂る木々に夕日が射しこんでいる。
「……いつになったら会えるのかな」
 そのまま小さくため息をついてから、さちは慌てて口を抑えた。それから考えを追い払うように頭を振った。
『来週から中間テスト一週間前なんですけど、テストが終わったら文化祭って学校行事の準備をしないとで。今度いつ山に来られるかもわからないんです』
 そんな話を一誠から聞かされたのも、三週間ほど前だ。忙しいなら仕方ないとさちは納得したものの、やはりこれだけ長期になると寂しさが強くなってしまう。
「でも、一誠さん頑張ってるんだ」
 さちはしまっていた包丁を取り出すと、薩摩芋の皮をむいていく。紫の皮から白い実が露わになった。
『良かったら文化祭来てみませんか? ただ、学校に来るまではひとりで来てもらわないといけなくて』
 そう一誠から言われたとき、さちは自分でも顔が強張ったのがわかった。今までずっと一誠がいてくれたのに、人の中に急に一人きりなんて想像もしたくなかった。
 そんな彼女の顔から、一誠もすぐに不安を感じ取ったのだろう。慌てて無理しなくていいと付け加えた。笑って、大丈夫終わったら思い出話聞いてくださいと言った。その笑顔に、さちは胸が痛くなった。
「……一誠さん、たくさん私にいろんなことしてくれた」
 花の図鑑を見せてくれたり、向日葵の種をもらってきてくれたり。町を案内してくれて、お祭りに連れていってくれた。それから、心結や真純といった家族や、倉田や木下といった友達を紹介してくれて知り合うことができた。
 さちがひとりぼっちの鬼のままだったら、決してできなかったことだ。
「私も」
 私も何か。たくさんのことを経験できた今ならできるんじゃないか。ひとりで人の世界に行くことだって。
『お前は決して人間と関わってはいけない』
 ぴたりとさちの手が止まる。そっと包丁をまな板に置くと、再度窓の向こうを見た。
雪代(ゆきしろ)さん、私」
 微かに闇が落ちてきた木々の向こう側は、黒く黒くなっていた。



 さちは一誠との連絡手段がない。スマートフォンの存在を一誠に教えてもらったときは、とても驚いたものだ。
 いつもなら別れ際に次会う日時を決めるが、次会う日が不確かだとそうはいかない。だからさちは一誠に、テストが終わる日の翌日から毎日、いつも待ち合わせる山の下の方の道路沿いに行くことを提案した。一誠は申し訳なさそうな顔をしたが、さちが繰り返し大丈夫と言うと渋々うなずいた。
 もしも一誠が来られたら、さちが気づいて会うことができるという算段だ。当初は早々に会えないかと期待したさちだったが、実際は一誠に会えない山の斜面を往復する一週間を過ごすことになった。
 二週目に入って二日目、今日も会えないだろうと半ば諦めた気持ちでさちが山の斜面を下りていくと人影が見えた。道路からこちらを伺っている姿が制服だと気づくと、さちは一目散に走り寄った。
「一誠さん!」
 突然の大きな呼び声に、一誠の肩が大きく跳ねる。その声の主がさちだとわかると、一誠の顔が緩やかにくずれた。
「さちさん、こんにちは」
 久しぶりに耳にした一誠の声に、さちの心がくすぐったくなる。少し目を伏せると、そっとはにかんだ。
「すみません、なかなか来れなくて。毎日ここまで来るの、大変じゃなかったですか?」
「いえ全然、大変なことなんてなかったです」
 いつも話している頭上が開けた場所、その端の方にある石の上に二人腰掛ける。方々に草の生えていた地面に、今では枯葉が所々乗っかっていた。
「今日は少し早く帰らせてもらうことができたんです。もしかしたら会えるかもと思って。会えて良かったです」
「私も、会うことができて嬉しいです」
 一誠がにこにこ笑うので、さちもつられて笑う。つい足もばたばた動かしそうになったが、ぎゅっと足の指を握るにとどまった。
「あの、文化祭のことなんですけど」
 気まずそうな一誠の声音に、さちは彼の顔を見上げる。苦笑を浮かべたまま一誠は続けた。
「あの、前会ったときに誘ったの覚えてますか?」
「はい、覚えてます」
 自分の反応のせいで一誠を困らせてしまった、そのときの申し訳ない気持ちが呼び起こされる。だけど、昨日さちは思った。
 自分で一歩を踏み出したい。
「私、行きます」
 力のこもった声がさちから出た。
「今まで一誠さんがいろいろしてくれた分、私も自分ひとりで頑張ってみたいです」
 そっと冷たい風が背を撫でていく。そのまま、小さく木の葉が浮いた。
「……わかりました。でも、ひとりでなんて言わないでください。俺も一緒に頑張らせてください」
 そう言って、一誠が優しく笑う。
 さちの唇からふっと息がもれた。



 文化祭当日のお昼頃。一誠からもらった洋服を着たさちは、山の下の方の道路沿いまで来た。
 一誠との話し合いで、さちは彼の休憩時間に被るように学校へ向かうことになった。さちは明確な時間を知る道具を持たないので、太陽の位置でおおまかに推測するしかない。だから、すぐに会える可能性の方が低い。
『本当に大丈夫ですか? 俺どうにかして迎えに行きましょうか?』
 心配した顔の一誠がそう言ったが、さちは自分で頑張るとしっかりと宣言した。そして、改めて今日会うことを約束した。
「大丈夫、頑張れる」
 さちは大きく深呼吸する。一誠がいない今、コンクリートの地面は、身体にじんわりとした重さが襲ってくるように感じる。なんとか振り払おうとぎゅっと目をつむると、再度大きく深呼吸をした。それから、ゆっくりコンクリートに踏み出す。両足がついて、ふと安堵の息がもれた。それからあわてて頭を振る。
「ま、まだこれから」
 唐紅の瞳の先には、人々が生活を営む町。
 さちは強くうなずくと、強張ったまま足を踏み出した。
 以前一誠に案内してもらった道順を頭の中で反芻する。大丈夫大丈夫と鼓舞していると、坂を下り終えてすぐの交差点に人が数人立っていた。思わす固まりそうになって、小さく深呼吸を繰り返す。何度もしているうちに、目の前の背中が前へ進み始めた。ちらっと見上げた信号は青で、さちは小走りに渡った。
 あとは桜並木沿いに真っ直ぐ歩き続ける。
「お母さん、楽しみだね文化祭!」
 ふと前の方から幼い子どもの声が上がった。楽しそうな女の子の顔がさちの視界にちらりと映る。
「そうねえ、今年はどんなお店があるんだろうね」
 女の子の手を握る母親も明るい顔で応じる。
「なあ、みは高着いたら何食う?」
「俺、たこ焼き」
「じゃあ俺焼きそばー」
 今度は、さちの横を通りすぎていく一誠に年が近そうな男の子たち。
「あの子のクラスねえ、喫茶店をするんですって」
「それだったら、僕たちでもゆっくりできるなあ」
 後方からは、老夫婦の落ち着いた会話。
 いろんな所から聞こえてくる声は、和やかで温かいもののはずなのに、なんだか途方もない寂しさを感じる。穏やかな日が射す中、誰かとともに語らい歩く姿が、ひどく羨ましい。
 さちは服の裾をぎゅっと握ると、それから学校に着くことだけを考えてひたすら歩いた。
「わあ、きれい!」
 前を歩いていた女の子の声に、さちが顔を上げると色彩鮮やかな門が目に入った。門の上部には「第四十三回 ()(はる)祭」と書かれてある。さちは周囲の人にならい前に進み、門の下をくぐる。その瞬間不意に感嘆の声が出た。
 老若男女たくさんの人がいたからだ。先月一誠に連れて行ってもらったお祭りより倍以上数がいる。
 ここから、どうやって一誠を捜したらいいのか。さちは、途端に自信がなくなってしまった。頑張ると言ったのに、自分が情けない。
「ねね、さちちゃん?」
 聞き覚えのある男の子の声。さちがうつむいた顔を上げると、そこには違和感のある着飾った女の子がいた。誰かわからず泣き出したくなってきたさちに、女の子はあっと声をあげると金色の髪の毛をずらした。
「俺のこと覚えてる? 一誠の友達の倉田」
 今度は、さちがあっと声をあげた。それから改めて倉田のかっこうを見る。水色の全体的に可愛らしい服で、足元に向かって広がる裾からはしっかり男の子だとわかる足が伸びていた。
「あ、これ? 俺のとこの部活で劇すんだけど、俺はこれ着て宣伝してこいって先輩に言われてさー」
 にかっと笑う倉田に、さちも数秒遅れて曖昧に笑い返す。知っている人物に会えたせいか、さちの不安は少し小さくなった。
「そんで、さちちゃん、こんなとこで何してんの?」
「あ、私、その」
「もしかして、一誠を捜してるとか?」
 屈託ない顔で首を傾げる倉田に、さちは激しくうなずく。そんな彼女に、倉田はにししと笑った。
「おっけー、なら俺場所わかるし連れてくよ。あ、もしかしてどっかお店寄ってから行く?」
「いえ、すぐ連れていってもらって大丈夫です!」
 はっきりとしたさちの返答に、倉田は再度にししと笑った。
 校舎へ行く途中にもちらほらとお店が並ぶ。食べ物の美味しそうなにおいが、さちの鼻を誘っていく。だが、今はすぐにでも一誠会いたい気持ちが強かった。
 さちが校舎に入ると、倉田に指示された場所で彼を待つ。邪魔にならないよう隅の方に行こうとすると、肩を二度叩かれた。後ろを振り向くと、穏やかに笑む木下がいた。
「さちちゃん、久しぶり」
「な、()()さん」
 瞬くさちの目の前に、木下は来客用のスリッパを置く。一瞬戸惑うも、周囲の人を真似て靴を履き替えた。
「あれ、木下さんじゃん」
「その声、倉田くん? その恰好……倉田くんがシンデレラするの?」
「これは宣伝用! 劇はさ四組の――」
 目の前で繰り広げられる会話に、さちは一歩後ずさる。和気藹々(わきあいあい)と話し込む姿が、学校に向かう途中見た人たちと重なって、少し寂しくなった。一誠の親しい友人たちだからこそ大切にしたいと思うのに、なんだか難しい。
「あ、さちちゃん。私佐原くんから、さちちゃんを迎えに行くように頼まれたんだ」
 さちの視界に映るものが、緑の履物から木下に変わった。
「本当は佐原くんが来たかったみたいだけど、席外せなくなっちゃったみたいで。私たちのクラスにいるから、一緒に行こう」
「俺も、せっかくだから教室までついてくな」
 笑みを見せる二人に、さちもゆっくりうなずいた。
 知っている人に会えたことがとても幸運だったと、さちは中に進むにつれて更に思った。決して広くない通り道には、そこそこの人たちが集っている。途中で動けなくなる自分が容易に想像できて、さちは少しヒヤッとした。
「さちちゃんはさ、一誠と普段どんなこと話してんの?」
 さちの左隣を歩く倉田が顔をのぞくようにしてさちに尋ねてきた。
 さちの肩がわずかに跳ねる。一誠とのことを訊かれると思っていなかっただけに、口ごもった。
「さちちゃん、大丈夫?」
 右隣を歩く木下が心配そうに訊くと、さちは慌ててうなずいた。それから、ゆっくり口を開く。
「花の話をしてます」
「あー、一誠よく図鑑借りてるの見るわ」
「佐原くん、いつも図鑑借りるの楽しそうだよ」
 初めて聞く一誠の学校での様子に、さちの目がきらりと輝く。自分が花を好きだからとそれに付き合わせているのではと、さちは微かに思っていた。だから、楽しそうと聞けて嬉しかった。
 階段を上って二階に行くと、一誠のいる場所までもう少しだと二人は言った。やっと一誠に会えるのだと思えると、今度はさちの心が次第に温まっていく。
 もう少し、もう少しだと言うところで、木下が女生徒に引き留められた。
 友人らしい女生徒は、木下が教室に行くことを確認すると、花が入った花瓶を手渡して持っていくよう頼んだ。
 木下が渡された花瓶を、さちがチラッとのぞく。
「ソリダスター……」
 小さなさちのつぶやきに、木下はすぐ気づいた。
「え、知ってるの、この花?」
「あ、はい。図鑑に載ってるの前に見ました」
「それじゃあ、実物は初めて?」
 さちがうなずくと、倉田が身を乗り出して花を見る。
「へえー、ちっちゃい花がたくさんで可愛いね」
 小さな黄色い花たち、身を寄せ合い束になって花瓶に入った姿は可憐だ。
 ぼーっとソリダスターを見つめていると、さちの左肩が叩かれた。倉田の手がそのまま正面を指さす。
「一誠、あそこにいるよ」
 やっと会える。一気に沸き上がった高揚感のまま、さちは倉田の指の先を見た――その瞬間、固まってしまった。
 さちにとって一誠は、ひとりぼっちだった世界を広げてくれた人。ずっとずっとひとりで真っ暗闇の中にいなければならないと思っていた自分に光ある世界を教えてくれた人。一誠の存在は、さちにとってとても大きく大切だ。
 少し前までは、確かにわかっていた。一誠は人間で、自分は鬼。そのことを、さちは忘れかけていたのかもしれない。
 ただ目の前で自分ではない、人間の女の子と一誠が親しそうに話している。その光景がひどく辛くて、
そう思ってしまう自分がさちは恥ずかしかった。一誠には一誠の世界がある、当然のことなのに。
 額の角がじんじん痛む。こんなことで自分が鬼だと認識したくなかった。鬼として一誠と出会いたくなかった。自分が人間だったなら、学校でも一緒に笑いあえたのかもしれないのに。
 誰かが呼びかけるその声が、虚しくさちの耳を通り過ぎた。
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