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 さて、ハジメを弟子にしたはいいが、まずどうしようか。河合は、部屋で考え込んでいた。

 だが、そうやって考え込んでいるうちに、名前以外、彼のことは何も知らないことに気がつく。河合はさっそくトイレ掃除をしているハジメを呼び寄せ、ちゃぶ台を挟んで向かい合わせになり話を切り出した。

「まず簡単に、自己紹介をしてみてくれないかな」
「……自己紹介って、どんなことを話しゃあいいんだ?」

びっくりした。自己紹介と言えば、小学校や中学校でも、普通にするはずだろう。それに、養成所でも自己紹介は、まず一番初めにやることだ。養成所時代に、自己紹介をしろと言われて、どうやるんだと聞き返したやつなどいない。みんな、分からないなりに自分の自己紹介をしていったのだ。芸人志望の人間に囲まれてウケを狙い、初っ端から爆死していったかつての同窓たちの顔を、河合はつかの間思い出した。
 だが、知らないものは仕方がない。河合は仕方なく、助け船を出す。

「まず名前だろ、それに……」
「いや、名前はもう知ってるだろう」
「いやいや、自己紹介なんだから、あらためてもう一回言わないと」
「なんで、わざわざそんなことをしなくちゃいけないんだ」

みるみるうちにハジメは、不機嫌になる。既に教えている名前を、もう一度言うか言わないか、その程度の小さな問題だ。それを、ここまで顔を朱に染めて怒るやつは初めて見た。
 だが、ハジメの筋骨隆々な体を改めて見て、思い直す。こんなやつに大暴れでもされたら、手がつけられないし、部屋も自分の身も危ない。河合は、名前のことについては、何も言わないことにした。

「じゃあ、出身地とか」
「東京」

「性格とか人となりとか」
「ケンカっ早い」

「年齢」
「29」

「尊敬してる芸人」
「ワイワイ河合」

「今後どういうお笑いをしていきたいか」
「とにかく面白いやつ」

ハジメは矢継ぎ早に答えると、今度は逆に河合に聞いてくる。

「自己紹介は終わったな。じゃあ、師匠。俺にお笑いというものを教えてくれよ」

そう言い終わると彼は、目をキラキラさせて、河合に頭を下げた。

「…………」

自己紹介について、かなり言いたいことはある。が、それはひとまず置いといて、河合はハジメの言葉を受けて考え込んだ。そして、考えに考えあぐねた結果、何も言うことができなかった。人に笑いを教えるなんて、自分にはできそうにない。自分の頭の中でどんなに考え込んでも、そんな結論しか出てこなかったから。
 そもそも笑いの何たるかというものを、自分自身がよく分かっていないことに気づく。今の売れてない状況を考えれば、むしろ、こっちが教えてもらいたいくらいなのだ。
 河合の額に、みるみるうちに汗がにじんでくる。この筋骨隆々で、どうやら短気らしい弟子を前にして、恐怖の感情が芽生えてくる。こいつに笑いを教えられるのか、その笑いで、世に羽ばたかせてやることが果たしてできるのか。
 その瞬間、河合は別の視点にも思い至る。師匠になるということは、弟子が売れなかったらそいつの人生を丸々背負うことなのだということに。自身の背中に、そんな物理的な恐怖と重い責任が覆いかぶさっていたことに、ようやく気づいた河合は、沈黙を続けながら深く考え込む。
(適当に笑いというものを教えてしまうか、それとも正直に教えられないと白状するか……)
適当に教えれば、この場を切り抜けることはできるだろう。だが、後でばれたら、あの筋肉で、こてんぱんにされることは想像に難くない。反対に今、正直に言えばすぐさま殴られるだろうが、それ以降は胸を張って生きることができる。ハジメは弟子でなくなるかもしれないが、もともとそれほど弟子を取るのに乗り気ではなかったのだから、自分の元を去っていくのならば、それはそれで構わない。
 考えに考えた結果、河合は後者━━正直に話すほうを選択した。後からばれたら、この男に殺されかねない、でも今なら、せいぜい殴られるだけで済むだろう、そう考えたからだった。

「その……、笑いについて、ということだけどさ」

河合は、頭をかきながら言いにくそうに話を切り出す。

「俺も売れてねぇからさ、笑いなんてよくわかってねぇんだよ」

その言葉を聞いても微動だにしないハジメを見て、河合はあわてて付け足す。

「でもさ、芸人続けていけば、他のいろんな芸人に会えるし、いろんなネタが見られる。だから……」
「ようするに、見て盗めってことだろ、分かってるさ。まあ、でも俺は、そもそもあんたの芸にしか興味ねぇから、あんたの芸しか盗まねぇけどな」

ハジメは、みなまで言うなとばかりに師匠の言葉を手で制し、そう言った。
(そういう意味じゃ、ないんだけどな……)
困惑する河合の顔を見ながら、ハジメは、大丈夫、分かってるという顔つきをしている。
(まあ、本人がそう思うなら、それでいいとするか)
河合はそう思い直しながら、殴られずに済んだことにホッとしていた。

(ああ、そうだ。これだけは、ちゃんと言っておかなきゃ)
河合は、ふと思い出したことを、軽い口調でひょいとハジメに言う。

「あのさ。俺、師匠なんで、敬語使ってくんないかな?」

 言った瞬間、部屋の空気が凍りつく。よく見ると、ちゃぶ台の向こうのハジメが、ものすごい顔でにらんでいた。

「あ?」

ハジメは、素早く河合ににじり寄り、師匠の胸ぐらをつかむ。

「てめえに笑い以外のことは聞いてねえんだよ!」

その言葉とともに、河合の左ほおに激痛が走り、その衝撃で部屋の壁にぶつかって右半身にも鈍い痛みが走った。それだけに飽き足らず、ハジメは部屋を暴れまわり、男の一人暮らしにしてはきれいな部屋の器物を次々と損壊していく。
(まず、笑い以前に礼儀から教えていく必要があるな。怖いけど)
痛みをこらえ、自分の部屋が壊されていくさまを見ながら、河合はそう考えていた。
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