二十二

文字数 5,578文字


「奥さんは、何度か病院に入ってらしたみたいですよ」
「病院というと――
「双ヶ丘病院です」
「双ヶ丘病院ですか……」
「この先の新丸太町通りを東に行って、大きな陸橋の事前にある坂道を左へ行くと、左側に見えてくる病院ですけどね」
「そうですか。ありがとうございます。後で寄ってみます」
 双ヶ丘病院がどこにあるのかは知っていた。以前、美貴が発作を起こして倒れたとき、救急車で運ばれて行った病院だった。
 埼玉から越してきたというこの奥さんによると、入居後、ひと月ほどしてから、美貴は大声を出すようになり、病院に強制入院させられることがあったというのだった。
 なぜ、こんな危険で大胆なアプローチができたかというと、このマンションは、ワンフロアに三戸しかなかった。しかもわたしの住んでいた部屋は二階にあり、エレベーターに乗る必要はなかった。
 それで、念のため、一階の集合ポストで両隣りのネームプレートを調べてみた。すると、二部屋とも、わたしの知らない住人の名前になっていたのだった。
 仮に前の住人がいたところで、新聞を見て飛んできたといえば済むこと。自分の女房が殺されたというのに、その亭主が舞い戻ってきたからといって、糾弾できるわけのものでもない。
 いずれにせよ、わたしにとって両隣りがいずれも以前の住人と入れ替わっていたのは不幸中の幸いだった。
「で、ご主人の行方は、まだわかってないんですよね」
「そうみたいですよ。刑事さんにも訊ねられたんですけど、わたしたちがここへ越してくるひと月ほど前に、ふっと家を出られたままみたいで……」
「そうですか」
「それにしても、ひどいご主人ですよね。奥さんがあんな目に遭うまで放っておくなんてねぇ……」
「そうですね。わたしもそれが気になって……。しかし、いまもここにきていないところを見ると、この事件のことを知らないんじゃないでしょうか」
「そうかも知れませんわね。奥さんによると、ホームレスになっている可能性もあるって言っていましたから……」
「そうなんですか」
 そんなことまで言っていたのか――。
 わたしは思ったが、もちろん口には出さなかった。
「ホームレスは、おそらく新聞も取らないし、テレビも見ないでしょうからね。でも、犯人は自首したり、捕まったりはしていないんでしょう」
「それは無理でしょう。まだ二日ほどしか経ってないんですよ。いくら日本の警察が優れているといってもねぇ」
「ご存知なんですか」
「ご存知というと……」
「いや、日本の警察ではなく、事件のあと、行方を晦ましているという隣室の方のことですが……」
「ああ、知ってますよ。まだ学生さんみたいに若く見える方で、痩せ型の、眼つきの鋭い、とても神経質そうなひとでした。わたしに言わせると、あのひとも、ある意味、異常でしたけどね」
「と、おっしゃると――」
「あまりにも神経過敏というか、一旦パニックが起こると、お隣りの奥さんとあまり変わらない状態になっちゃうんですよ」
「そうなんですか」
「でも、あの奥さん、その男の方に手料理を作ってあげたり、なにかと面倒看てあげていたみたいですよ。ご気分のよいときに、ロールキャベツのおすそ分けをいただいたことがあるんですけど、ほんと上手に美味しく作っておられましたよ」
「ほう。で、二人は、どんな間柄だったんでしょうか」
 わたしはついうっかり、心に浮かんだことばを口にして臍を噛んだ。
 悟られなければいいが……。
「さあ、どうでしょう。深くはわかりませんけど、息子さんくらいに思ってらしたんじゃないでしょうか。お歳もお歳だし、そんな変な関係では……」
 ほっと胸を撫で下ろした。わたしがその夫であるとは思っていない。
「もっとも、かなりお若く見える奥さんではありましたけどね」
「なるほど。わかりました。お忙しいところ、色々とお時間取らせて申し訳ありませんでした。では、わたしはこれで――」
「あ、いえいえ。ごめんくださいませ」
 わたしは、もっと話を続けたそうな奥さんをあとにして、双ヶ丘に向かった。
 病院は、なだらかな坂を登った高台の上にあった。
 わたしは受付で、吉田美貴の夫であることを告げ、強制入院の件で彼女を担当した主治医に面会させてくれるよう頼んだ。
 名前を聞くと、奇しくもその主治医は、あのときの先生であった。
「山田です。この度のことは、ご愁傷さまです」
 医師は、小さな応接室で待っていたわたしを見るなり、礼儀正しいお辞儀をし、ソファに腰を下ろした。「この度の奥さまのことは新聞で知り、大変驚きました……」
 ということは、この事件のことは、この病院の精神科医や看護師たちの間で話題になっているということだ。おそらく刑事なども訪ねてきていることだろう。
「いつぞやはお世話になり、申し訳ありませんでした。せっかく、ご親切なアドバイスをいただいていたというのに、そのとおりにできませんで……」
 わたしは、当時のことを憶い出して謝った。
 健康保険証もなく、入院費もないという理由で、二度とこの病院に足を向けなかったからだ。だが、行くのは嫌だと言っていた当人自身が、自らの与り知らぬうちに運び込まれていたというのは、いかにも悪戯な運命の神がやりそうなことであった。
「それにしても、こんな最期になるとは……」
 山田医師が肩を落とすようにして言った。
「わたしも、こんな風になるとは思ってませんでした。皮肉なもんで、あのとき、先生の言うこと聞いて、あれをここに入れとけばよかったとも思いますけど、現実を考えると、結果的に同じことやったんやないかなぁと……」
「と、おっしゃいますのは――」
「いや、なんにしても、わたしが悪いのは事実なんですけど、病院にかかるお金もないし、生活費もない。いずれは、こうなる運命にあったんやないかと……」
「とんでもない。奥さまは、きちんと治療をお受けになりさえすれば、治る運命にあった方なんです。時間は要かっても、ちゃんとした社会生活が送れるようになる立派なひとでした……。
 他人ごとながら、本当に心根の優しい女性でした。
 いまとなっては、すべて後の祭りですが、あなたは惜しい奥さまを亡くされました。どんなことがあっても、助けるべきでした。
 入院費用や生活費がないということであれば、ご主人が福祉事務所や医療機関で手続きを行なって、生活扶助や医療扶助を受けることも可能だったはずですよ」
 わたしは答えずに顔を上げたが、医師の、その眼にはわたしに対する非難と落胆の色がありありと看て取れた。
「言っておきますが、奥さまは、最後の最後まで、あなたのことを心配していらっしゃいましたよ……」
 医師はわたしをひたと見詰め、厳かに続けた。「いいですか。奥さまは、あなたが出て行ったのも、自分が故意に仕向けたものだ。
 そうでもしなければ、あなたは死ぬまで独り立ちのできない、情けない男になる――。そうおっしゃっていました。だからこそ、心を鬼にして追い払ったのだと……。残念ながら、奥さまはあなたが想定していらっしゃったとおりの結果になりましたがね」
 山田医師の言わんとするところがわからなかった。
 わたしが他力依存型の利己主義者だというのなら、それは厳然たる事実であった。だから、反論するなどという、不遜な気持ちは微塵も持ち合わせていなかった。彼女の死を暗黙のうちに了解していたのだけは認める。確かにわたしは、彼女の自死を生活苦からくる不可抗力と見做すことで未必の故意を実現しようとしていたのだから……。
 いっぽう彼女は、わたしを放逐することによって、わたしが真っ当な人間になることを願っていたのだという。
 本当なのだろうか。もし本当だとするなら、そのメリットはどこにあるのだろう。
 放逐してしまった以上、わたしが生きようと死のうと、彼女には一切関係ないはずだ。現に本人も、それを口に出して言っていたのではなかったか……。
 それとも真人間になって戻るのを待ってくれていたのだろうか――。
 怪訝な顔をしているわたしに、医師は続けた。
「奥さまは、純粋な方です。だからこそ、この種の病気にもなられたのだと思いますが、おそらくあなたの奥さまほど天使に近い心の持ち主はいなかったのではないでしょうか」
 なにが言いたいのか、わたしには伝わらなかった。
 わたしは、医師のことばを聞いていて、土肥の謹厳な顔を憶い出した。若いころ、彼はクリスチャンで、ずいぶん傾倒したように聞いていた。その彼がいま、わたしを説教しているように錯覚したほど、彼と医師の顔がダブって見えた。
「これを、ご覧ください――」
 山田医師は、入室するときに携えてきた大きな茶封筒から、ダイレクトメールなどによく使われる普通の大きさの封筒を出してテーブルの上に置いた。
「見ていいんですか」
「どうぞ。奥さまから預かった封筒です。手紙や文書は入っていませんが、保険証券が入っています」
 三ッ折のそれを開けてみると、懐かしい署名があった。美貴の細い字とわたしの拙い字であった。彼女がヨシダ・ワークスをする前から掛けていたあの保険だった。やはりあのときのことばどおり、苦しい苦しいと言いながら、掛け金だけは払い続けていたのか……。
「失礼ながら、奥さまの了承を得て、中身は確認してあります。
 これによると、奥さまが不慮の事故によって死亡された場合の死亡保険金五千万円の受取人は、吉田栄一さん、あなたということになっています」
 山田医師は、そこでことばを切り、わたしが応えるのを待つかのように若干の間を置いた。なにか言わなければと思うのだが、コメントの出しようがなかった。
 わたしが手に取った証券を眺めるだけで、何も言おうとしないのを見て、医師が静かに続けた……。
「奥さまは、自分に何かがあったとき、それをあなたに渡してほしいとおっしゃったのです。最初は、お預かりすること自体ができませんとお断りしていたのですが、自分には親も兄弟も親戚もなく、ほかに頼るところもないからと執拗におっしゃるので、致し方なくお引き受けすることにしました……。
 引渡し方法はと尋ねますと、必ずご主人には、なんらかの形で知られるようにしておくとおっしゃっていましたが、具体的にどんなことでかは教えてもらえませんでした……」
 わたしは、妙な胸騒ぎを覚えて口を開いた。
「それが……」
「いいえ。それが、今回のようなことだとは思いませんし、思いたくもありません」
 医師は、きっぱりと否定して続けた。「ですが、少なくともご自分の死期が近いということだけは、自覚なさっていたようです。
 何度も言いますが、奥さまは純粋で、心の綺麗な方です。
 あなたほど幸せな男性はいないでしょう。
 この証券をお渡しするに当たって、いくつかお守りいただきたい条件があります。わたしは、あなたの奥さんにこれを引き渡す際の証人になってほしいと頼まれています。したがって、それらの条件をすべて行なうと、この場で誓ってほしいのです。これは、あなたの奥さまの、最期の願いでもあります」
「なんでしょうか……」
「まずその第一前提ですが、保険金の半分は、奥さまのお嬢さま、つまり、響子さんに渡してあげてほしいのです」
「当然でしょう。おっしゃるようにいたします」
「では、いまから、奥さまがおっしゃっている条件を読み上げますので、お聞きください」
 山田医師は、茶封筒から便箋を取り出し、箇条書きのような文を声を出して読み始めた。
「一、いまある借金の千三百万円を全額返済してほしい。残りのお金で、田舎に小さな家を買って住んでほしい。そして近くのお寺の墓地にわたしのお墓をつくり、できれば毎日遊びにきてほしい。
 二、生まれたての飛び切り可愛い柴犬を買ってきて、わたしだと思って育ててやってほしい。犬の名前は、チャッピーにして、その子が死んだら、その子が好きな食べ物と一緒にわたしのお墓に入れてやってほしい。
 三、部屋の中には、わたしが好きだった観葉植物や四季折々の草花を飾り、わたしがしていたように大切に大切に育ててやってほしい。道行くひとがほしいと言えば、頒けてあげてほしい。
 四、どこかに可哀想なホームレスがいたら、温かい食べ物を届けてあげてほしい。寒いときには温かい食べ物、暑いときには冷たい飲み物など、あなたなりに色々と工夫して届けてあげてほしい。
 五、ご近所や知り合いに因っているひとをみかけたら、必ず手を差し伸べてあげてほしい。自分も同じような気持ちになって、最後まで話を聞いてあげてほしい。
 六、辛そうな顔をして歩いているひとがいたら……」
 つぎからつぎへと新しい文が読み上げられるなか、わたしは鳴咽を洩らしながら聴いていた。涙と鼻水、そして後悔が後から後から湧いてきて、止まらなかった。
 ああ、わたしは、なんという大莫迦者だったのだろう。
 どうして、いまのいままで、彼女のことを信じてやらなかったのだろう。彼女は彼女なりに一生懸命、わたしに尽くしてくれたというのに、どうしてわたしは、あんな皮肉な捉え方でしかものを考えることができなかったのだろう。
「……以上ですが、吉田さん。誓っていただけますか」
「はい。誓います」
 医師から渡された便箋を受け取って、わたしは頭を下げた。「家内は、先生もおっしゃってくださったように、最後の最後までわたしにとっての天使であってくれました。先生には、なにからなにまでお世話くださり、このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました……」
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