第5話 朝まで一緒のbirthday

文字数 4,089文字


     



「……お邪魔しまーす……」

「ささ、どーぞどーぞ、どうせ誰もいないから」

 遠慮がちに靴を脱ぐ和樹を、初菜が玄関で出迎える。リビングに入ると、和樹は買ってきたケーキの包みをテーブルに置いた。和樹が椅子に座るのを見届けて、初菜も隣の席に腰を降ろす。

「……おばさんやおじさんは?」

「……お父さんは単身赴任中、お母さんは……わかんない」

 何でもないように笑う初菜。けれど瞳は確かに揺れていた。

(あの人たちには娘の誕生日なんて、関係無いことなのかもね)。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、初菜はにやりと笑う。和樹に余計な心配をかけないように。

「邪魔モノはいないよ? 安心した?」

「だ、誰がっ!」

「水着の私をやらしーい目で見てた和君が」

「あ、あれは……露骨に目を逸らすのも何だかな~って思って見てたんだ」

「はいはい、そういうことにしておきましょう」

 和樹の目に映る初菜は、レモン色の長袖に紺のスカート。見慣れない秋服に異性を意識してしまう。スカートから伸びる白磁のような太股に和樹は目を奪われた。

 初菜は困ったように半端な笑いを浮かべていた。邪魔モノはいない……『二人きり』。自分から振った話なのに、意識すると身体が熱く火照った。和樹の視線がくすぐったくて、はずかしくて。堪えきれずに太ももがぴくりと震えた。

「……和、君?」

 知らず溜めていた息と一緒に言葉が漏れる。

「あ、ご、ごめん」

 石化の魔法が解けたように、和樹は慌てて謝った。「ううん」と呟く初菜の頬の朱色がかわいくて、ますます和樹の鼓動が早くなる。

「け……ーき、食べよ?」

「う、うん……」

 同時に伸ばした手。互いに触れ合う皮膚の熱さ。爆発しそうなときめきに、手を引っ込めあう二人。次の瞬間、どうしょうもなく気になって、盗み見た視線が絡まって。頭の中が真っ白になっていく。喉がこくんと鳴った。衝動のままに、初菜は和樹にキスをした。心もち触れた舌先と舌先、背筋に伝わるさざなみに、初菜は驚いて唇を離した。熱に浮かされたように、ただ見つめ合う。

「……もう……一度……」

 掠れたような声が和樹の口から零れ、初菜はゆっくりとうなずいた。かたんと音を立て、二人は椅子から立ち上がる。まるで何かの儀式の始まりのように。

何かに耐えるようにきゅっと目を閉じる初菜に和樹はそっと、口づけた。初菜の両腕が、和樹の広い背中に回された。時折漏れる苦しそうな吐息と、吸われた唇の立てるちゅっという音。 音と感触の狭間に心のたてるはしゃぎ声。初菜がゆるりとまぶたを開けると、瞳を閉じる和樹が見えた。焦点すら合わない程、極限に近く。重なり合う身体の隅々、阻むものは皮膚と薄い着衣だけ。たぎるような感覚が身体の奥底から浮かび上がっていく。力が入らず、膝から砕けそうになる初菜を、和樹の両腕が抱きかかえるように支えた。溜まった唾液を飲み下す、こくっという音がリビングに響く。唇同士吸いあうたびに、軽く噛み合うたびに、初菜の背中は小さく波打った。



膨れ上がった水滴が、重みに耐えかねて蛇口から落ち、その音で我に返った二人の身体が離れるまで。濃密なキスは続いた。

唇の離れた後も、真っ白な頭で呆けたように見詰め合う。緩慢な動作で和樹が初菜に近づき、服の袖でそっと初菜の口の端を拭った。これ以上無いくらい赤くなる初菜に、和樹の囁く声が聞こえた。

「……ハッピーバースデー初菜……」

 それを言ってくれるのは、今日ここにいる和樹だけ……。

「……ケーキ……食べようよ……」

「……そればっかだね、初菜は……」

 起き抜けのように鈍い頭と、昂ぶる身体の織り成す不可思議な感覚。部屋の電気を消す為に、立ち上がる和樹を初菜はぼんやりと眺めていた。

 常夜灯の豆電球が照らす下、十六本のロウソクに火をつけて、促されて息を吹きかけて。肺活量の少ない初菜が七吹き目でようやく吹き消して。蝋の燃える香りと軽やかなケーキの舌触りが、いつのまにか脳を覆う薄い靄を晴らしていく。

「……これ、食べていい?」

 祝福の言葉が綴られた、茶色と白のチョコレートプレート。

「……もちろん。それは、月のものだよ」

「ありがと」と言いながらカリカリと噛んだ。

「……一足先に結婚できる年に、なりました」

 何がおかしかったのか、初菜の物言いに和樹が笑った。つられて初菜も笑い出しその衝動が収まった頃、和樹が部屋の電気をつけた。

「……プレゼントが、あるんだ」

 和樹が取り出した、小さな包み。

「気に入ってくれると、いいんだけどな」

 和樹に見守られていると思うと、指が緊張した。包みを開く。

「……わぁ……」

 顔がほころんでいくのを初菜は感じた。それは確かに、『幼なじみ』にではない、『恋人』へのプレゼント。電灯の下できらきらと輝く、ペンダントについた青水晶を、初菜の指先がなぞった。

「……ありがとう……本当に、ありがとう」

「……良かった。がっかりされたらどうしようかと思ったよ」

 ……和君がくれるものはみんな、宝物なんだよ……。

初菜は言葉を飲み込んだ。どんなものでも嬉しい。そう言ってしまったら、折角選んでくれた和樹に悪いと思った。だから……。

「がっかりなんてしないよ。青い水晶、凄く素敵だし、それに、和君が選んでくれたから、えっと、あぁもう上手く言えないや……」

 ペンダントを首にかける初菜のかわいい照れ笑いに、和樹の頬も緩んだ。

その後、ペンダントをつけた初菜と和樹で誕生日記念の写真を撮った。その場で現像した写真には、無理して笑おうとして変な顔になっている初菜と、子供のように初菜の頭の後ろに人差し指を立てる和樹が写っていた。

むくれた初菜がやり直しを主張し、二枚目の写真は和樹の悪戯を封じる為に腕を組んだ。

二人で一緒に夕ご飯を作った。新婚さんみたいだねと何気なく言った和樹の一言。照れた初菜は手元が狂い、人差し指を火傷した。

 二人で一緒にご飯を食べた。「あーんして」と初菜が言って、はずかしそうに和樹が口を開けた。初菜は春巻を選び、和樹の口へ運ぼうとする。緊張して上手く掴めず、箸から落ちた春巻が、和樹のズボンにぽとっと落ちた。必死で謝る初菜を見て、和樹は手づかみで春巻きを食べ、笑った。

お返しに今度は和樹が、ヘタをとったプチトマトを手づかみで初菜の口に運んだ。受け取る時に、和樹の指ごとしゃぶってしまう初菜。言い知れぬ陶酔が二人を満たす。それから交互に、二人はプチトマトと指をしゃぶり合った。熱い口腔から引き出された指が、空気に触れてひんやりと冷える。唾液でべたつく指に満ちた、こそばゆい快感が胸を焦がした。和樹の唾液で濡れた自らの指を、初菜は静かに口に含んだ。和樹も同じように、自らの指を舐めた。熱に浮かされたような瞳で、互いを見交わす。

「なんか変だね、私たち」

 ふつふつと湧き上がる、得体の知れない感覚に初菜はぶるりと身を震わせた。

「二人で変ならそれも良し、じゃない?」

 差し出された和樹の指に、初菜がふわりと指を絡める。触れ合った指から電流のような何かが流れた。



 後片付けも終わり、帰ろうとする和樹を初菜は引き止めた。

「……帰っちゃやだ……」

 甘えた声を出す初菜の瞳は、星の瞬きのように潤んでいた。

「……馬鹿、そんな事言ってると、悪い狼さんに食べられちゃうぞ?」

「……和君になら……いいかもしれない……」

初菜は暫くの間逡巡し、やがてぽそりと言った。怖かった。怖かったけれど、もしするのなら相手は和樹以外あり得ないと思った。純粋な興味もあった。何かを考えるように和樹が黙ってしまったので、初菜は慌てて言い募った。

「……べ、別にしたいって言ってるわけじゃないからね。してもいいかもって言ってるだけなんだから」

 和樹に笑われて、初菜は真っ赤になった。

 シャワーを浴びて、二人は寝た。朝まで一緒に、同じ布団で。




『十月三日。十六歳のお誕生日。いろんなこと……うん、そう、いろんなことがあって、まだ頭がぐるぐるしてる。その、普通で考えたら変なことが、二人の間では変じゃない。そういう関係を恋人って言うのかなって、ちょっと思いました。ペンダント……嬉しかったな……。それに、ケーキも和君が買ってきてくれたんだよね。ありがとうを言うのも忘れて、ケーキにがっついちゃったりしてみっともなかったな。和君、ごめんね。そして、本当に本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私、淋しく無かったんだよ』

 初菜はふと、暗い衝動に駆られた。写真立てに震える指を伸ばす。そのまま床に叩きつけようとする左手を、なんとか右手で押さえ、堪えた。惨めだった。過去に嫉妬する、今の自分が惨めで、情けなくて、悔しくて。胸が塞がる。涙が、滲んだ。

写真立ての中であの日の二人が笑っていた。組んだ腕の感触にはにかむ初菜と、腕に当たる胸の感触ににやける和樹。

抱きかかえたまま、初菜は泣いた。痩せ細った腕に伝わる心音が哀しい。

 自分の病気が治らないものであることを、初菜は確信していた。忘れたと思った頃に、眩暈が起こり吐血する。病名は一度聞いたのだけれど、忘れてしまった。そんなことを知っても、何にもならない。世界が閉じるまでに、後何回、大好きな人に会えるのだろう。本当に知りたいことは、誰も教えてくれなかった。

 初菜の想いは複雑だった。来てくれて嬉しいという気持ちは、変わらない。けれど、頬がこけ、すっかりやつれた自分を、和樹に見せるのは辛かった。自分の姿を見て、哀しそうな顔をする和樹を見るのが苦しかった。和樹を苦しめているのは自分だと思った。

 どうせ死んじゃうのなら……早く死んじゃえばいいのに……。初菜は他人事のように、そんなことを思った。
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