第7話 さよなら、お月さま

文字数 4,269文字

「あれから、一年……か……」
 感慨深げに和樹は店の外観を眺めた。
「……なんだかもっと、大昔のことのような……気がするね」
 和樹の背中の上で、初菜は身じろぎをした。
「……立つ……?」
「……うん……」
 腰をかがめた和樹の背から、初菜は大地に足をつける。すぐに崩れそうになる初菜の脇に、和樹が肩を挿し入れた。信じられなくなるくらい軽くなってしまった初菜の身体。その体重さえ、筋肉の衰えた足では支えることが出来ない。
「ありがと……」
 力なく微笑む初菜に、和樹の涙腺が緩む。
 初デートから一年。二人は再びセルベッテへと足を運んだ。これが多分、最後のデート。二時間という条件付きとは言え回復の兆しの見えない初菜に、外出許可の出た事実がそれを証明していた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
 店内に客は無かった。まるで貸切のようだねと初菜が言った。
実際、そうだったのかもしれないと和樹は思う。扉を開ける時には気付かなかったけれど。
 隣り合わせの席に腰を降ろした。もしも初菜が倒れた時に、和樹が支えてあげられるように。……少しでも近くにお互いを感じていられるように。和樹がメニューを拡げ、二人でそれを覗き込んだ。
「……あは、クリームあんみつだ……」
 懐かしさに初菜が瞳を細めた。
「俺が何食べたか、覚えてる?」
「……ティラミス、でしょ?」
「凄いな、ホントに覚えてるんだね」
「……和君のことだもん、忘れたりしないよ」
 自然と暗くなる気持ちを奮い立たせるように、最期のデートが切なくも楽しい思い出に変わるように。
 初菜の瞳が一つのメニューの上で止まった。ジャンボストロベリーパフェデラックス。はずかしさのあまり、選べなかった、けれど、本当は一番食べたかったメニュー。
「……ジャンボストロベリーパフェ、行く?」
 和樹が尋ねる。覚えていてくれた。そう思うと初菜の胸がじんと熱くなった。
「……んーん、今の私じゃ、たぶん全然食べられないから……」
「……なんなら、俺一人で頑張るけど?」
「……それじゃ、意味、ないでしょ?」
「……確かに」
 本当は食べたかった。一年前のように健康だったなら、絶対選んだのに。悔しさと寂しさに初菜の胸が張り裂ける。和樹の気持ちを暗くさせないように、初菜は笑おうとした。
「……じゃ、これ行ってみようか?」
 代わりにと和樹が指差したのは、『ドッペルファンタジー』と書かれたドリンクだった。大きなグラスにミックスジュース、ストローが二本。お品書きにも『愛し合う二人へおすすめ』と書かれている。
「……そうしよっか」
 控えめに、けれど本当に嬉しそうに初菜が微笑った。注文を受けたウェイトレスがにやりと笑った。ばつが悪くなった和樹は照れを誤魔化すように話題を探した。
「……それにしても、この店ってこのテのメニューがやたら多いね」
「ん~。ちょっと趣味、悪いかもしれないね」
「……と、言いながら頼んでる俺らも俺らだけど」
「……それ以前に『ドッペルファンタジー』って、凄いネーミングセンスだよね……」
「……初菜並のセンスだね……」
「それ、どーゆー意味?」
「『ラブ・ノート』並ってこと」
「……ふ~ん、和君そういうこと言うんだ。ほぉ……」
 微笑みから、思案顔に。思案顔から、怒ったような顔に。ころころと変わる初菜の表情。自然と会話が弾むのは、気の滅入るような病室の外だからだろうか。初菜の胸元で、青水晶のペンダントがきらりと光った。
 
運ばれてきた『ドッペルファンタジー』は、りんごとオレンジの果汁に炭酸を混ぜたミックスジュース。ストローの角度を調整して、二人は顔を見合わせた。
「それじゃ、飲むね」
 初菜が宣言し、二人はゆっくりと吸い始めた。触れ合う肩がこそばゆい。寄せ合う初菜の髪から、甘いシャンプーの香りが漂った。喉がこくりと波打つ音。和樹の腕に触れた初菜の胸が、繊細な柔らかさと、息も出来ないくらいの鼓動を伝えている。
三口ほど飲んで、初菜はストローを離した。
「……いっぺんには、飲めないね」
 舌の上で踊る炭酸に、初菜が苦笑いを浮かべる。
「その方が、良いんじゃない?」
 和樹もストローを離し、笑った。
「……どうせ、子ども舌だって言いたいんでしょ?」
「……あはは、それもあるけど」
唇にぴりりと炭酸の刺激。
「合間にこういうこと、出来るしね」
「……相変わらずだね、和君は」
「嫌、かな?」
「……意地悪……」
 ジュースを吸って、唇を吸った。甘酸っぱくて情熱的なキス。頭の芯がじんと痺れている。身体の奥底が灼けるように熱い。初菜の足がぴくりと動く。
「……イチゴとブルーハワイ、混ぜたらどんな味になるかなぁ」
「……味はともかく、色が凄そう……」
「……ダメだよ、和君。そんなロマンの無いこと言っちゃ。私はきっと、こんな風にとっても甘い味だと思うな」
 唇を通して一つになる。刺激を、感覚を、鼓動を共有している。時間と空間を重ね、悦びや照れや寂しさを重ね合わせることが出来る得難い相手。二人の意識の底にわだかまっている終わりを、甘い痺れで忘れさせようと。
初菜の生命に和樹は触れていた。和樹の優しさに初菜は包まれていた。
「……和君……好きだよ……」
 相手の世界に自分がいる。自分の世界に相手がいる。
「……俺も……初菜が……好き……」
 刻一刻、未来は現在に塗り替えられ、現在は過去へと移ろっていく。
「……『今』が永遠に、続けばいいのに……」
 忘れ切れなかった寂しさが見え隠れする初菜の瞳に、和樹は胸を詰まらせた。
初菜は和樹に伝えたかった。どんなに自分が和樹に感謝していたか。初めて出来た異性の友だちだった。不在がちの両親に代わって、兄のように見守っていてくれた和樹。遊び相手になってくれた。相談相手になってくれた。和樹が傍にいたから、初菜は淋しさを忘れることが出来た。
一年前、学校の帰り道で。突然の告白だったけれど、初菜にとっては突然ではなかった。ずっと昔から、初菜も和樹を見つめていたから。和樹とそうなれたらと、淡い空想を抱いていたから。
入院するまでの五ヶ月間。愛されているのを実感できた。メールの返事が遅いことだけが、初菜には少し不満だった。忙しいのは解るけれど、『受信メールはありません』の文字が辛かった。十五分おきに確認してしまう、自分のせっかちさに苦笑した。
潮風の匂い、かき氷の味を覚えている。映画館で見た、恋愛映画にあてられてはずかしい言葉を囁きあった。ボーリング、カラオケ、ウインドウショッピング。くすんだ日常が和樹と一緒にいるだけで煌いて見えた。
誕生日の夜、一つになったこと。恐怖に打ち勝てたのは、和樹と一緒だったから。贈られたペンダント。二人の写真。嫉妬したくなるくらい、輝いていた過去。文化祭のお化け屋敷。一人なら入れない場所だって、和樹と一緒なら踏み込めた。
入院してからの七ヶ月。毎日のように来てくれる和樹から、笑顔が消えていくのが苦しかった。自分の存在が、枷のように和樹を縛り付けていることに気が付いた。……だから……。
 初菜は和樹に伝えたかった。自分がいなくなったら、新しい生活を始めて欲しい。いつまでも自分に縛られて、哀しみの沼に沈まないでほしい。……けれど……。
「……ジュース、なくなっちゃったね……」
 伝えられなかった。伝えたかった想いが、確かにあったはずなのに……。忘れないで欲しい。いつまでも自分のことを想っていて欲しい……。矛盾する心が、喉まで出かかった言葉を押し戻してしまう。それは再び喉を通って、初菜の胸にやりきれなさを残して行った。
「……そろそろ出よっか」
 携帯を確認して告げた和樹の声は重かった。許可の降りていた二時間はとうに過ぎていた。
 
「この後、どうする……?」
「……家を、見てみたい……」
帳の降りた夜の暗さに包まれ、愛する少女を背中に乗せて和樹は歩き出す。
「……次こそは、ジャンボストロベリーパフェデラックスに、挑戦しようね……」
「……そうだね。楽しみは後にとっておくものだからね」
 静かな夜だった。背中越しに伝わる初菜の柔らかさだけが、和樹の世界の全てだった。
「……ごめんね……」
 額をこすりつけるようにして、初菜が謝った。はっとするくらいに切ない声だった。
「……重いでしょ……?」
「……そんなこと、ないよ」
 小さな身体に秘められた初菜の気持ちが重すぎて、和樹は思わず涙ぐみそうになる。
「……和君に出会えて……和君に愛されて……私、幸せだったよ……」
「……これからもっともっと、愛していく。月を幸せに……してみせるから……」
「……今更だけどさ、私のことを『月』って呼んだり、『初菜』って呼んだり……するのはなんで?」
「……幼なじみで、彼女だから……。俺は……君のことが大切で……大好きで……。ごめん、上手く言えないや……」
「……ううん、わかるよ。かき氷のシロップみたいなものだよね。……私にとってもあなたは、和君であってお兄ちゃんだもの」
 通い慣れた通学路、初菜にとっては懐かしい道を進む。ひんやりと涼しい夜風が、初菜の髪をくすぐった。遠くの家から犬の吠え声が聞こえ、初菜はぶるっと肩を震わせた。
「……怖い……?」
 初菜は一瞬逡巡し、「ちょっとだけ」と笑った。
「……だけど、和君がいてくれるなら、怖いものなんて何もない……」
「……そんなこと言って……。お化け屋敷でもびびってたくせに……」
「……意地悪だな……和君は……。……そうだね、怖いというよりも……淋しいかな……」
 感覚が共有出来なくなることが。哀しみや切なさや幸せを、重ねられなくなることが。
 感覚が閉じていく。意味が分解され、ミルクの中に溶けていく。
「……好きすぎて……眩暈がするよ……」
 夜風がひゅうと笑った。初菜はペンダントを握ろうとした。
「……切なくて……息が苦しいよ……」
 和樹の足が止まった。
「……着いたよ、初菜。ここが君の家。隣が俺の家だ」
 声が聞こえる。遠い遠い、ここと向こうの境界線で初菜はそれを聞いた。振り向く和樹が、やけにゆっくりと見えた。
「……ばいばい、和君……」
 和樹の瞳が涙で光っていた。
「……さよなら、月……」
 青水晶のペンダントがきらりと瞬いた。
まるで少女が、手を振っているかのように。

       
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