毒閃欲

文字数 1,968文字

 彼女は、誰にでも優しくて、器用で、自信家だ。

「ねぇ、神田くん聞いてる?」

 教室の真ん中。前後の席。彼女の黒髪は、オレンジに染められている。

「神田くんにしか頼めないんだよ、お願い」

 僕の前で手を合わせ、ぎゅっと目を閉じるその仕草だって、彼女は効果的であることを知っている上で、計算して行っているものだ。

「元彼がウザくてさ」

 突然そんな話をされたのは、つい一週間前ほどだったと思う。元彼がしつこく付きまとってくるのが鬱陶しい、という内容の愚痴を、放課後誰もいない教室で彼女は僕に零した。
 彼女は先述した通り、誰にでも優しい。誰かの愚痴を言っているのも、何かを自慢しているのも見たことがない。そして彼女は器用だ。誰かを嫌っていても、それを相手に悟らせない。しかしそれは、僕以外に。

「神田くんってさ、私のこと嫌いだよね」

 そう言われたのが、一ヶ月前のこと。放課後、残って復習をしているときに、なぜか残っていた前の席の彼女が突然振り返り、僕にそう言った。僕は彼女のことを嫌っているというほどではなかった。得意でもなかったけれど。

「私愚痴零せる人いなくてさー」

 いつも、クラスメイトに向けて話す声より、ワントーン低い声。

「私のこと既に嫌いだし、神田くん友達いなさそうだから問題ないかなって思って、お願いがあるんだけど」

 失礼な言葉と共に向けられた、悪いことを思いついた子どものようなその目は、見たことがなかった。

「たまにでいいからさ、愚痴聞いてくれない?」

 そんな、僕にとっては何のメリットもない関係が出来上がって一ヶ月。目の前の彼女に、ふぅ、と一つ息を吐く。

「で、何?お願いって」
「彼氏のふり、してほしいんだよね」
「は?」

 彼女は僕に時折何かをお願いしてくるときがある。もう嫌われてるんだから今更気を遣う必要もない、という滅茶苦茶な彼女の考えに、僕は振り回されていた。

「なんで僕がそんなこと」
「他に誰に頼むって言うの」
「……知らないけど」
「じゃあ神田くんじゃん」
「滅茶苦茶な」

 正直呆れていたけれど、彼女のことだ。どうせ強引に僕を連れていくのだろう。容易く想像できる。

「……ごめんね、一樹」

 そして、想像通り僕は彼女に引きずられる形で、彼女の元彼に会わされたのだった。彼女は先ほどの強引さはどこへやら、いやにしおらしい。彼女の元彼である彼は友人が多い。彼女は本性を見せて言いふらされることを避けようとしているのだろう。

「こんな奴のどこがいいんだよ」

 苛立った様子の彼に鋭い視線を向けられる。確かに僕は友達も少ないし陰気だし、彼や彼女とは相容れない。何を言っても納得してもらえる気はしない。

「神田くんは、良い人なの。私のこと、よく理解してくれる、優しい人」
「俺よりコイツの方が好きなの」
「……うん。一樹のこと好きだったけど、ごめん。もう、私には、神田くんのことしか、見えないの」

 泣いてしまうんじゃないかと思わせるような表情、声。それが全て演技であることを、僕だけが知っている。彼はそんな彼女の姿に、辛そうに目を伏せる。正直、全てを知っている僕にとっては滑稽だった。

「……もういい」

 彼は一言そう言って、僕達に背を向ける。そして、彼の姿が見えなくなった頃。

「さ、教室戻ろ」

 さっきとは打って変わってけろりとした表情の彼女が、僕の方を見た。涙で濡れた瞳。よくもまぁ器用に、そしてスラスラと出まかせを話せるものだ。

 教室に戻り、彼女は「あぁー疲れたー」と伸びをする。僕が言うのもなんだけど、本当、良い性格をしている。

「引き受けてありがとう神田くん。神田くんに私のアレ、効かなかっただろうに」

 彼女の言うアレとは、お願いをするときのあの仕草だろう。彼女は面白そうに笑って、鞄を持つ。

「さ、帰ろ帰ろ~」

 目の前の彼女の黒髪が、ひらりと靡いた。誘うように、試すように。僕の中で、パチンと光が弾けた。

 ガタン、と音を立てて、先ほどまで彼女が座っていた椅子が倒れる。

「えっちょっと、何」

 戸惑う彼女の手首を掴み、机に彼女の体を押しやる。

「痛いって、神田くん、どうしたの」
「……効いたって言ったら、どうする?」

 僕の言葉に、彼女は目を見開いた。

 彼女は、他人の感情の機微に敏感だった。だからこそ、他人に好かれるように振舞うのが上手かった。しかし、彼女は気づいていなかった。僕の、彼女に向ける感情と、彼女の知らない、彼女自身の魅惑的な毒に。

 僕は、僕にしか見せない彼女の、冷たく暗い側面に惹かれていたのだ。僕だけしか知らないという優越感、そして、これからも、僕だけが知っていればいいという独占欲。いつの間にか、彼女の毒に溺れていた。

「……いい性格してんね」

 彼女はそう言って笑った。僕にしか見せない、悪い笑み。それがたまらなく僕を駆り立てる。

「そっちこそ」



End.
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