ひとつのもの

文字数 1,448文字

 じいちゃんは、病の床で静かに話し始めた。
「人は、この世に生まれ落ちたからには、何か『ひとつのもの』を探さにゃいかん。
 それは人によって違う。わしもずっと探し続けてきた。若い頃は、船で外国へ放浪の旅にも出たし、いろいろな仕事をしてさまざまな人にも出会った。
 そして、こうして歳をとり、今になってやっとわかったよ。
 わしがずっと探していたもの、それは輝かしい仕事でも、没頭できる趣味でもない、ばあさんだったんだ。
 これまで自分らしい人生を歩んでこられたのはばあさんのおかげだ。わしにとっての『ひとつのもの』はばあさんだ。だから、ばあさんのこと、くれぐれもよろしく頼むな」
 そう言って、じいちゃんは俺の手を弱々しく握りしめた。
 しばらくして、じいちゃんは逝った。小学生の俺には、その時の言葉の意味を半分も理解できなかったはずだが、不思議と心の奥深くに刻まれた。
 
 やがて俺は成長し、『ひとつのもの』を探す時がやって来た。
 そして、ひとりの女と出会い、結婚した。じいちゃんと同じで、この妻が俺の『ひとつのもの』になるのかもしれない、と内心思っていた。ところが、その妻とは五年目に別れてしまった。子どもがいなかったせいか、ひどくあっさりとしたものだった。
 以後、結婚というものに関心がなくなった俺は、定年をひとりで迎えた。俺はとうとう『ひとつのもの』を見つけられないまま終わるのかもしれない、そう思いながら、家の前にある公園のベンチで過ごす日々が続いた。
 そして、ひとりの少年がいつもいることに気がついた。ひとり同士、いつしか言葉を交わすようなった。小学二年のその子は、母親とふたり暮らしで、働いている母の帰りを毎日、この公園で待っていた。
 あの家がおじさんの家だから、お母さんがいいって言ったら、いつでも遊びにおいで、と俺は自分の家を指さして言った。
 翌日、さっそく少年はやって来た。ふたりで食べる菓子やジュースはことのほか美味しい。その日あったことを懸命に話す少年を俺は愛おしく感じ、その話に聞き入った。
 それから、毎日のように少年は家へやって来るようになった。俺は、子どもが喜びそうな菓子やビデオを用意して待つようになった。そして、趣味の将棋も教えた。
 こうして数年がたった。少年は大きくなっても、ちょくちょく顔を見せた。しかしその目的は、母親の留守の寂しさを紛らわす自分のためではなく、俺の寂しさを癒すためにと変わっていた。
 
 そして、互角に将棋が打てるようになった頃、俺は老いた体を横たえることが多くなっていた。すると、かつて少年だったその青年は、俺の家に寝泊まりして俺の世話をしてくれるようになった。母親に申し訳ないと思いながらも、もう長くはない身であることはわかっていたので、少しの間、甘えさせてもらうことにした。
 そんなある日、俺はじいちゃんが亡くなる前に話してくれたあの話を青年にした。最近のことは忘れても、子どもの頃の記憶というものは鮮明に覚えているものだ。そして、最後にこう付け加えた。
「俺にとって、この世に生まれて探していた『ひとつのもの』は、君だった。今まで、本当にありがとう」
 青年の目には涙が溢れ、その手は俺の手を強く握りしめていた。
 これで何も思い残すことはない、いい人生だった――
そう思った夜、俺は青年とその母親だけに見送られて旅立った。そして、これ以上ない簡素な葬式だったが、俺はとても幸せな思いで天に召されていった。

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