4 神と単位e

文字数 4,952文字

第四部 神と単位e
 つまり、神は単位eである。

Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?

I woke up in a Soho doorway
A policeman knew my name
He said "You can go sleep at home tonight
If you can get up and walk away"

I staggered back to the underground
And the breeze blew back my hair
I remember throwin' punches around
And preachin' from my chair

Well, who are you? (Who are you? Who, who, who, who?)
I really wanna know (Who are you? Who, who, who, who?)
Tell me, who are you? (Who are you? Who, who, who, who?)
'Cause I really wanna know (Who are you? Who, who, who, who?)

I took the tube back out of town
Back to the Rollin' Pin
I felt a little like a dying clown
With a streak of Rin Tin Tin

I stretched back and I hiccupped
And looked back on my busy day
Eleven hours in the Tin Pan
God, there's got to be another way

Who are you?
Ooh wa ooh wa ooh wa ooh wa ...

Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?
Who are you?
Who, who, who, who?

I know there's a place you walked
Where love falls from the trees
My heart is like a broken cup
I only feel right on my knees

I spit out like a sewer hole
Yet still receive your kiss
How can I measure up to anyone now
After such a love as this?
(The Who “Who Are You?”)

 コギトの明晰な意識による自己の存在証明から、神の存在が論証される。デカルトは、『方法序説』において、神の存在について次のように書いている。

 と言うのは、夢に現われる思想の方がしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想の方が他より偽であると、どうして確かに知りうるであろうか。私は思う、最もすぐれた精神を持つ人々が、どんなにこのことを詮索しても、もし彼らが神の存在を前提にするのでなければ、この疑いを除く十分な理由を示すことはできぬであろう。

 デカルトがこう告げていても、パスカルは、『パンセ』において、「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾をさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ」と記している。パスカルから見れば、デカルトの理論では神は便宜的な存在にすぎないというわけだ。しかし、デカルトにとって、パスカルとは異なった意味で、その方法上、神が不可欠である。

 デカルトの方法は演繹法である。それは、解析幾何を例にすれば、次の通りである。最初に、その問題が解けたと仮定し、必要な未知ならびに既知の線分に記号を与える。次に、その線分の関係式、方程式を求める。この場合、同一の未知線分が二通りで表わせるようにする。方程式の間から未知の線分を消去していき、ただ一つの未知線分を含む式を取り出し、それを解けばよい。

 寺坂英孝編『現代数学小事典』はデカルトの解析幾何学について次のように解説している。

 この量の代数学では単位eの存在ということが重要な意味をもっている。2量の積、商の定義で単位eが大きな役割をもっているがこの結果として、量の基本的要請である『同次性』が自然にみたされることになる。(略)『幾何学』第2巻は「曲線の性質について」という章であるが、ここで曲線Cの各点には方程式E(x,y)=0をみたす一組の未定量(x,y)が対応し、これによって曲線という図形が方程式という代数学の概念によって特徴づけられることになる。この点を重視して、人々はこれを解析幾何学の始源といったのである。『実数』は実際19世紀になって、はじめて論理的にも数学的にも明らかになったものである。デカルトが単位の設定によって一般量から一様に線分とみなし得る量を取出したことは、いままではあまり注意されなかったところであるが。実数を基礎におく代数学にはいま一歩というところまできていたのである。

 デカルトは単位eの設定によって一般量から線分と見なし得る量を取り出している。線分をa,b,c,…と規定する。線分における和a+bや差a-bが、そうすれば、考えられる。次に、任意の線をとり、これを「単位」と呼び、eと表わす。単位eに関連させて、積や商をこう記す。つまり、e:a=b:xにより定められる第四比例項xはaとbの積、a・bと表わされ、また、y:e=a:bはaとbの商、a/bとなる。こうした比例を使うことにより、線分全体が四則に閉じられていることになる。従来、次元の制約があったため、単位を導入できなかったが、これはベキ乗にも応用ができ、それにより、次元差の問題も解消される。しかも、曲線も、直線同様、方程式で表わすことができる。結果として、いかなる図形も方程式で扱えるようになる。

 デカルトは曲線を、それを生み出すさまざまな等式に従って分類しようとした最初の数学者である。デカルトの名前に由来するカルテジアン座標によって、図形であれば、すべて式で表わすことができる。あらゆる方程式は幾何学的図形に変えられる。幾何学的図形は方程式を持っている。図形も方程式もグラフ化できるというわけだ。方程式のグラフをつくるには、xに任意の数を与え、その方程式を解いてyを求める。このxとyの値に応じて、紙上に一つの点を位置づける。次に、xをほかの数に置き換え、再度yを求め、この点を紙上に書く。こうして得たいくつかの点を結んだ線が方程式グラフとなる。デカルトは、同様に、N次元の方程式の解を求める際に、想像上の数、すなわち「虚数」を導入している。この虚数の認識は19世紀的な意識=無意識から現代のジオメトリック・アルジェブラに至るまで有効である。以上の通り、単位eは、論理上、デカルトにおいては、不可欠である。

 デカルトは、『方法序説』において、疑うことを通じた「私」の確立には「現実に私より完全である何らかの存在者」がなければならないと次のように述べている。

 それに基づいて、私は、疑っているということ、従って私の存在はあらゆる点で完全なのではないということ(と言うのは、疑うことよりも認識することの方が、より大いなる完全性で存在することを私は明晰に見るから)を反省し、私自身を超える完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるかを探求することに向った。そして、それが現実に私より完全である何らかの存在者からでなければならないということを明証的に知った。

 「コギト・エルゴ・スム」の論証は、それだけでは、完全には成立しない。彼以前の世界ではコギトはスムに変身できない。すべては、ヒエラルキーに応じて、異なった次元に属しているからだ。ヒエラルキーを解体して、記号化を導入しなければならない。彼の神の存在証明とその企てはまったく矛盾しない。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」の後、「完全性(perfectio)」の概念から「人性論的証明」と呼ばれる方法で神の存在証明を行う。

 デカルトは、『方法序説』において完全な存在者としての神について、次のように述べている。

 完全な存在者の観念の中には現存ということが含まれており、それはあたかも三角形の観念にはその三つの角の和が三角形に等しいことが含まれ、球の観念の中にはその各部分が中心から等距離にあることが含まれるのと同様であり、あるいはむしろいっそう明証的であるということを私は見出した。従って、完全な存在者なる神は存在し、現存するということは、少なくとも、幾何学のどの論証にも劣らず、確実であることを私は見出したのである。

 プラトンがイデアの説明を数学で譬えていたように、デカルトは「完全性」を数学の比喩によって語っている。とは言うものの、両者の間には大きな隔たりがある。プラトンには記号化への意志がないからだ。先のデカルトの演繹法を見れば明らかなように、神は「コギト・エルゴ・スム」を成立するために、必要とされている。つまり、神は単位eである。

 神はモーゼに自分自身について次のように告げる。

ait Moses ad Deum ecce ego vadam ad filios Israhel et dicam eis Deus patrum vestrorum misit me ad vos si dixerint mihi quod est nomen eius quid dicam eis.
dixit Deus ad Mosen ego sum qui sum ait sic dices filiis Israhel qui est misit me ad vos.
(“Exodus”3:13-14)

 神はモーゼに「我は在りて在る者なり(ego sum, qui sum)」と言う。神にはコギトはない。スムである。人間は、コギトを通じて、スムに達する。スムは単位eである。単位は在るのであって、疑うものではない。デカルトによれば、神の保証する観念、すなわち精神に「明晰かつ判明」に直観として与えられる観念は「生得観念」であり、その他の感覚によってつくりあげる経験的な観念、すなわち「外来観念」やその外来的観念を元にして構成する想像上の動物などの「作為観念」は含まれない。これは単位eから見た世界観である。

 デカルトは、『方法序説』において、コギトと神の関係について次のように述べている。

 まず第一に、先に私が規則として定めたこと、すなわち私たちが極めて明晰判明に理解するものはすべて真であるということすらも、神が存在し、現存するということ、神が完全な存在者であること、および私たちのうちにあるすべては神に由来しているということのゆえに確実なのである。そして、このことから、私たちの観念や概念は、それらの明晰判明な部分のすべてにおいて、ある実在性を有しかつ神に由来するからこそ、その点において真ならざるを得ないのだということである。

 神が単位eとして、この議論に関連させれば、「コギト・エルゴ・スム」は記号的に扱うことができる。そうなれば、これはあらゆる思考に応用できるようになる。デカルトは「できることなら神なしですませたい」のではない。それがなければ、最も重要な「コギト・エルゴ・スム」が成り立たなくなる。
 
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