一ひらの桜の花弁が入った薄紅色の便箋

文字数 1,895文字


 麗らかな春風が頬を撫でる季節と為りました。私と貴方が出会って四度目の春、この御手紙は十三通目です。貴方の故郷は桜梅桃李押し並べて秀麗に咲き誇り、春風駘蕩草花が香り立っています。この季節になると土間でも縁側でもどうもうつらうつらして参りません。このやりとりももう一年経ったのだと思うと、夢幻泡影邯鄲の夢、この世の儚さを思い知ります。そちらでは桜花は見られたのでしょうか。草木も人も萎れて泣く泣く立てなくなってしまうのが都会と聞きます。
 さて、一年間縷縷と続けてきたこの文通ですが、私はこの十三通目を貴方へと送る最後の手紙にすることとしました。決して毎月の文通を倦んだからではありません。きっとその理由は貴方御自身が最も理解していることでしょう。どうにも私の想い面瘡は治りそうにはありません。ですから、この終通では、けじめの意をこめて、最後に貴方との想い出でも書き認めることとします。
 私たちの出会いを懐古すると、私の頭には鮮烈な映像が射映されます。校門の前、桜の降る校内にて、未だ着け慣れず風に飛ばされたスカーフを貴方は親切に拾ってくれました。そして剰え、上手く着けられない私を見かねて、結び方を教えてくれさえしました。本来赤っ恥も良いところなのですが、やはり私の中ではその思い出が鈍色に褪せることなくいつまでも輝いているのです。親しくなるにつれ私の好意は貴方に寄ってしまうのでした。あの頃は少しでも貴方に振り向いてもらいたくて、柄にもなく御洒落や品行身振りを母に訊ねたものです。そんな稚拙な努力もあってなのか、私の恋は成就することができました。
 覚えていますでしょうか。初めて貴方がお出かけへ誘ってくれた時、外は青天白日、貴方は私の手を取って山麓を歩き、小丘の上、清流を臨める叢に横臥するのでした。其処は、どこまでも広がる田畑や田舎道を歩き続けるお遍路さん、其の先には大きな河川、此方と彼方の隔たりを具象したかのような高く聳え立った建物、この世の全てが一望できる美しい場所でした。きっと此処であればどんな極悪人でも情操に駆られたことでしょう。二人はここで唯蕭条たる時を過ごしました。
 十六の貴方は歳の頃に似合わず泰然自若としていて、知的であれども決して衒学的ではなく、朴訥であれども必ず篤実で、好事的であってもどこか洒脱としたとても不思議な方でした。貴方はよく自身の文芸観だとかポエジーを私に語ってくれて、其の日も藝術のための藝術とは何かを教授くださいました。魯鈍な私には半分とてわからなかったけれども、そんな私を貴方は微笑んで許容してくれました。そして、私は其の笑みに益々女子になってしまうのでした。夕暮れ時、帰り道もやはり、闃として洗練された畦道を二人は歩いていました。
 初めての文通は貴方が行ってしまった旧年の四月。私が書き綴った手紙は十三通。返書は初めの三ヶ月の三通のみ。二度はない終通です。詩が玄妙かつ厳荘でわからない私には分かり兼ねると云った時、貴方は「難解なことは考えず唯自分の思いの丈を表出すれば良い。言葉の重みが言葉の難解さで決まることは相関こそあれど因果では無い」と仰いました。せっかくなので貴方は好きだった詩に想いを乗せてみることにします。

「迎春日和」 堤防にて
 坐してふりさく四つ国の
 山峰々はなお遠し
 足元海は冬めいて
 牡蠣筏こそさんざめけ
 紫陽花変はるは秋桜
 冷や風吹いて小春日和
 迎える春を数ふれど
 我の心はつゆ知らず
 かへすがへす春の折
 留むる我の冷えた手を
 率い連れ立つ者の誰ぞ

 詩作は初めてなのですが、存外楽しいものですね。どうでしょうか。評価は貴方の胸の内に取っていただいて構いません。願うらくは貴方への最上の餞となれば嬉しいです。
 取留めのない言葉を書き連ねても便箋が足りそうにありませんね。私の部屋には未だに貴方の贈ってくれた質素な書皮と薄藍色の栞があります。当然捨てられるはずもありません。そして、私の心の部屋には貴方への愛惜が住み着いて、これもまた離れる予兆はないようです。私たちの縁故には何の運命か、二人を断ち分つ不思議な力が働いているのは間違いないでしょう。ありぞかねつるも極まれりですが、これ以上私からあれやこれやと求めるのは節度がないものと感じます。なので、ここらで仕舞いにします。
 私は、野山を一緒に歩き回り、麦畑の前のバス停で二人座り、堤防に座って海を眺める貴方の隣がとても好きでした。揺らいでしまう私の弱さを承知で、もう一度貴方に会いたい。流るる粒を拭うハンカチーフが欲しいものです。
 これからもお身体にはお気をつけて。

 かしこ
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