第1話

文字数 1,993文字

 父方の祖父が他界してもう10年以上経つ。
 粗暴で口数が少なく、酒をきこしめしては祖母を殴っていたアルコール中毒一歩手前の老人。徴兵されて中国大陸へ派兵されたとは聞いていたものの、自分のことは黙して語らなかった。
 先日、いまや無人となった祖父母の家を清掃しにいったおり、わたしは偶然あるものを見つけた。それは衣装箪笥の奥深くに眠っていた。糸綴じで製本されたぼろぼろのノートで、表紙に〈支那日記〉と書いてある。以下に記すのはそれからの抜粋である。
※日づけや記述から推察するに、祖父は蒋介石率いる国民党討伐作戦に従事し、中支那方面軍のいずれかの師団に所属していたと思われる。なお簡便のため年号は皇紀を和暦に改めた。

     *     *     *

昭和12年11月5日
 上海に上陸す。敵兵の攻撃散発的なり。発砲されるも的はずれること多く、照準の狂った粗製乱造品である由。隊の雰囲気、楽観的なり。

昭和12年11月9日
 攻略速度めまぐるしく、帝国陸軍の実力を再認識するにいたる。支那軍、上海からことごとく遁走す。上海は陥落、祝賀会が開かれる。羽目を外して痛飲しすぎる者多数。自分も明日の朝、二日酔いは必定なりと覚悟す。

昭和12年11月11日
 遁走した国民党軍の処遇について、隊で意見が噴出す。追撃を敢行し、国民党軍を完膚なきまでに叩きのめすのを信条とする支那膺懲派、あくまで不拡大方針に忠実な穏健派。自分は前者に与して激論を戦わせた。いやしくも帝国軍人であるならば、無辜の日本人を殺害した支那人を許すなどとうてい考えられぬ。

昭和12年11月25日
 戦闘に参加しており、日記を書くのが遅れてしまった。われわれは支那軍を追って南京を攻略すべく動き出している。無錫市攻略では壮絶な市街戦となったが敵の大多数はすでに退却、町は徹底的に略奪されていた。同胞の物資を奪う神経が自分にはわからぬ。

昭和12年12月1日
 南京攻略決定す。隊の雰囲気目に見えて活性せり。同日早速進軍始まるも、行軍ははなはだ辛く、38式の重さが堪える。食料は乏しく、冷雨に降られて体調を崩す者続出せり。

昭和12年12月7日
 前日、句容攻略完了す。まれにみる大会戦であった。自分の隊からもついに死者が出る。支那兵は状況不利と見るや即座に投降する傾向大なり。句容戦でも帝国陸軍は多数の捕虜と装備の鹵獲を得た。鹵獲品のなかにはロシア製の火器が相当数混じっており、支那共産化の懸念を新たにす。

昭和12年12月8日
 南京城包囲。辛い行軍もここが最終だと部隊長が喝を入れられる。12月10日はほかの部隊と共同で総攻撃をかける由。武者震いで目が冴えてしまう。今夜は眠れそうにない。

昭和12年12月9日
 陣地構築。塹壕を掘り、穴ぐらのなかで1日中待機する。支那軍が近隣の村を焼いているとの報せ多数。無辜の支那人民のためにも明日の総攻撃は成功させねばならぬ。

昭和12年12月14日
 多忙を極め、近々の日記を怠ってしまった。総攻撃は成功裏に終わり、南京は陥落せり。城内に入場するも、すでに主力部隊は遁走したあとであった。わが隊は城内の治安維持にあたり、民間人への略奪は厳に慎むべしと命令を受ける。

昭和12年12月18日
 祝賀会も終わり、隊は治安維持活動に専念す。多くの家屋が支那軍によって焼き払われたため、それらの復興にも尽力す。今日は倒壊した井戸の掘削に精を出す。明日も引き続き井戸の掘削を続ける予定なり。

昭和12年12月19日
 井戸の掘削の折、面妖なるものを掘り当てる。半径六尺ほどの球形、質感は柔らかな肉質、二寸五分ほどもある多数の目玉が掘削者である支那人の男を睨んでいた由。それは金切声で絶叫し、ものすごい速さで地中を掘り進んで消えてしまった。いまのはなんだったのかと呆気にとられていると、掘り当てた支那人が何事かをしきりに叫び始めた。いまのは太歳だ、という。太歳を掘り当ててしまったのだと。

昭和13年1月15日
 関東軍への転属が決定す。

     *     *     *

 太歳(たいさい)とは中国に古くから伝わる物の怪である。
 この物体は非常に不吉なものだとされ、むかしから中国人に恐れられてきた。太歳を掘り当ててしまうと爾後、たいへんな災厄に見舞われるという。
 祖父たちが掘り当てた奇妙な生物は太歳だったのだろうか。祖父の日記は唐突に翌年の記録に飛んでいる。記録の抜けている期間、すなわち12月中旬から下旬までのあいだは南京大虐殺が起きたとされている期間とおりしも一致する。
 日記の文面から読み取れる祖父像は、わたしの知っている粗暴な男とは似ても似つかない。どう考えても大酒を食らって妻を殴るような人間には思われない。祖父がああなってしまったのは、なにか理由があるはずだ。
 祖父は太歳を掘り当てたことで、南京大虐殺を引き起こしてしまったのだろうか。
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