第58話 風の歌は雲の彼方に

文字数 2,669文字

 長すぎた戦争は終わった。ルーシャたち志願兵を含め、多くの犠牲があってこの長すぎた戦争は終わりを迎えたのだった。

 一部では戦争を終わらせる大きな要因となった志願兵たちを英雄視する動きもあるという。魔族にとっての英雄になることなど、ルーシャたちは決して望んでいなかっただろう。彼らは国や魔族のためではなく、家族を含めた周りの人たちのために死んだのだろうから。

 もっと言えば、三等国民というどうしようもないこの国の制度に殺されたのだ。そんな彼らが死して魔族の英雄になることを望んでいるはずがなかった。

 結局、自分は最初から最後まで何も出来なかったのだとボルドは改めて思う。彼らに相応しい死に場所。それですら与えられたのかも定かではなかった。

 いや、そもそも人にとって相応しい死に場所などあるのだろうか。あるはずがなかった。

 ボルドの両膝が力なく折れる。両膝を大地につけながら立ちあがろうとする。だが、情けないことに足に力が入らない。

 こうして生き残ったからこそ、自分がしなくてはいけないこと。頭では分かっているが、感情がついていかなかった。
 後悔や自責の念で全身が押しつぶされそうだった。

 ボルドの両頬を涙が伝う。

 何のための涙だろうか。自分のためか。それとも若くして死んでいくしかなかったルーシャたち志願兵のための涙か。志願兵を支えて死んでいった兵士たちのための涙か。

 所詮は戦争だ。皆が傷つかず、皆が死なない方法などあるはずもない。そんなことはボルドも理解している。だが、それでも彼らには死んでほしくなかったし、自分だけが生き残りたくもなかった。

 これは大きな矛盾なのだろうか?

 両頬を伝う涙が途切れることがない。ボルドは歯を食いしばるが、それでも嗚咽が漏れてくる。

 何のための涙か?
 ボルドはもう一度思う。だが、答えが出ることはない。

 僅かな風がボルドの周囲を駆け抜けて行った。

 この匂いは……。
 ボルドは大地に両膝をつけたままで、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。

 そこには懐かしい顔があった。
 少女は少しだけ微笑んでいるようだった。

 ボルドは少女に頭を下げた。

「すまなかった。俺は誰一人として守れなかった。救えなかった。お前たちだけじゃない。隊の皆も……そして、また俺は生き残った。本当にすまない……」

 ボルドの言葉に少女は首を左右にゆっくりと振った。それに合わせて明るい茶色の髪が左右に揺れる。

 そして少女はボルドに合わせて両膝をつくと、頭を下げるボルドの首に両手を回して自分の頬とボルドの頬とを重ねる。

 温かな少女の温もりがボルドの頬に伝わってくる。その温もりは少しだけボルドを落ち着かせてくれた。

「少尉。少尉は何も悪くないんです。だから自分をもう責めないで下さい……」
「違う……」
「少尉が生きていてよかった。それだけでもよかった。私は本当にそう思っています。本当にあの時は凄く心配したんですよ」

 少女が少しだけ怒ったような声を出した。

「少尉、もう泣き止んで。ほら、しっかりして下さい。さあ、立ち上がって」

 少女はまるで子供を軽く叱りつけるかのように言う。
 ボルドは無言で明るい灰色の頭を左右に振った。立ち上がれるようなそんな気力など、今はボルドのどこにも見当たらなかった。

「少尉、皆の思いがあります。皆の思いを繋いで私たちは最後まで戦場に立っていたんです。だから少尉、少尉もその思いを繋いで下さい」

 ……皆の思い。
 ボルドは心の中でルーシャの言葉を呟いた。

 そう。確かに皆の思いはここにあった。自分の中に。

 少女はボルドの首に回していた両腕をそっと外した。そして、涙で濡れたボルドの顔を正面から見つめる。

「皆の思いはある。確かに受け取っている。だけど、もう俺は疲れたんだ。ルーシャ、俺も皆のところに連れて行ってくれ……」

 その言葉にボルドの目の前にある少女の顔が左右に振られた。

「少尉、生きて、生きて下さい。それだけです。それが私の願いなんです。死んでしまった皆のために、皆の代わりに。そんなことではなくて、そんなことには関係がなくて、少尉には生きていてほしい。それが私の……私の最後のお願いです」

 少女はそう言って笑顔を浮かべる。
 
 あの戦場で何度もボルドはこの笑顔を見てきた。他人を元気づけることができるあの不思議な笑顔だった。

 やがて少女の体全体が薄く透け始める。そしてボルドが声を上げる間もなく、僅かな風と共にそれは跡を残すこともなく霧散してしまう。

 ボルドは霧散したものを掬うかのように片手を差し伸べた。しかしその手は虚しく宙を掴むだけだった。

 いつもそうだとボルドは思う。大切な何かを捕まえようと手を伸ばすのだが、いつもそれは指の隙間からこぼれ落ちてしまう。

 ボルドがそうはならないようにと、どれだけ努力してもこぼれ落ちてしまうのだ。

 ……俺は皆を死なせたくなかった。
 ボルドは心の中でそう叫ぶ。

 そんなことができるはずもないことは最初から分かっていたはずだった。
 それに何よりもボルドは、皆にこれから死んできてくれと命じる立場にいた。
 そんな解消されるはずがない大きな矛盾。それがボルドを今も責め続けていた、

 幻覚、幻聴、夢でも何でもよかった。もう一度少女を感じたかった。もっと謝りたかった。そして、もっと話がしたかった。

 だが……。

 彼女は言っていた。
 思いを繋いでくれと。
 生きてくれと……。

 震える両足を叱咤しながらボルドは辛うじて立ち上がる。

 ……ほら、ルーシャ、見てくれ。
 俺は立ったぞ。きっと今はまだ人に見せられないような情けない顔なのだろうが、俺は立ち上がった。

 涙はまだ止めることができない。足だって情けないことにまだ震えている。だけど立ち上がった。きっともう少しすれば、また歩き出せる。

 そう。それがルーシャの望みだった。だから俺は立ち上がる。俺はまた歩き出す。
 ボルドは乱暴に涙を拭った。ボルドの胸には最後に少女が見せてくれた笑顔がある。

 ボルドの周囲を風が吹き抜けていった。涙で濡れる視界の先に大きな白い雲がある。

 この風はどこまで吹いていくのだろうかとボルドは思う。あの大きな雲まで吹いていくのだろうか。

 遠く、どこまでも遠く自由に吹いていけばいいのにと思う。
 いや、きっと自由にどこまでも吹いていくのだろう。もう誰にも何にも縛られることなどなく自由に。

 まるで歌を奏でるような風の音と共に、どこまでも自由に様々な思いを乗せて吹いていくのだろう。

 そう。きっと……。
 あの雲の彼方まで……。
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