書けない日々を生き抜く
文字数 2,223文字
にんげんなので、誰もが、いつも朗らか、希望に満ち溢れ、明るく爽やか、というわけには、いきません。
生活、仕事、恋愛、病気、家族、お金、etc。
私たちは、現実社会でなんらかの悩みを抱えて、生きています。
小さな悩み、中くらいの悩み、抱えきれないくらい、大きな悩み。
孤独感に苛まれ、目の前の暗さに絶望する。
それは、誰かに愚痴を言ったり、話を聞いてもらったりしてスッキリすることもありますが、コロナ禍で、誰にも、話せなかったり相談できなかったり、という場合もあると思います。
あるいは、コロナ禍にあって、相手もつらい状況もあると思います。
誰かに愚痴を言うことは、そのひとに、ある意味で負担を強いることになる。
マイナスな感情を、引き受けてもらうことになる。
相手が聖母か菩薩ならば、寛容な、広い海のようなこころで、受け止めてもらえますが、私見として現状、世の中の皆さんが、なんらかのフラストレーションを抱えて、生きていると思います。
つまり、新常態では、マイナスな感情を抱えすぎてしまい、かといって誰かに頼りすぎても、その人にも負担をかけてしまいます。
(本職のカウンセラーさんや、医師を別として…)
こういうとき、わたしの場合は、文章や物語をひたすらに書くと、気持ちが浄化されます。
世界は、いま、生きている現実だけではない。
いま、わたしによって語られ、描かれている言葉から、立ち上がる世界。
文章や物語ることは、誰かに読まれることによってその価値を付与されるように錯覚、思われがちですが、それは、自分自身を癒し、鼓舞し、生き抜くための行為でもあると、わたしは思います。
何かを書く行為は、人目に触れる場所でつぶやいたり、発信するのも良いですが、個人的な日記、あるいは、意味をなさないかたちを、書き殴るのも良いと思います。
日記、チラシの裏、デジタルデバイス、なんにでも。
あるいは、マインドマップを書いてみる。自分の内面を俯瞰してみる。
結構、すっきりしてきます。
しかし、ときに、文章を読むのも書くのも困難なときがあります。満身創痍。
そんなときは、やはりおいしいものを食べて、眠るのがいちばんです。
あるいは、わたしの場合は、だいすきなサンリオキャラクターについて考えたり、音楽を聴きます。
自分のご機嫌は、自分で取る。
これが、大事かもしれません。
それで、元気が戻ったら、また文章を書きます。
ここで、わたしが気をつけているのは、webで発信する文章に、1時の感情をぶつけすぎないことです。
赤裸々かつ、全てを開示することは、ともすれば危険だと、わたしは考えています。
自分自身が擦り切れて、すっからかんになる可能性を危惧しています。
和辻哲郎の文章を、引用します。
-告白の欲望はともすれば直ちに製作衝動と間違えられる。もとより体験の告白を地盤としない製作は無意義であるが、しかし告白は直ちに製作ではない。告白として露骨であることが製作の高い価値を定めると思ってはいけない。けれどもまた告白が不純である所には芸術の真実は栄えない。私の苦しむのは真に嘘をまじえない告白の困難である。この困難に打ち克った時には人はかなり鋭い心理家になっているだろう。今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。
自分自身を描くこと、文章を書くことは、生みの困難を伴います。
言葉は、書かれた瞬間に、嘘を伴う。
また、日々を生きていると、自分自身のやりたいこと、持っている(かもしれない)才能にも、懐疑的になります。
-私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫のよいうぬぼれでない証拠はどこにあるのだ。
そこで私は考える。――私には物に食い入るかなりに鋭い眼がある。一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。
そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる。何という鈍さと貧弱さだろう。私は差恥と絶望とで首を垂れる。
-要するに私は要求と現実とを混同する夢想家に過ぎなかった。
こうして私は自分の才能に失望してかなりに苦しむ。しかし私は思う。私の問題は与えられた物が何であるかに――私の Was にあるのではなかった。私はただ与えられた物を愛し育てるために生きているのであった。私はただ自分の愛の力の弱らないように、また与えられた物の発育の止まらないように心配していればよい。私の苦しみと愛とで恐らく私の生活の価値は徐々に築かれて行くだろう。
運命を愛せよ。与えられた物を呪うな。生は開展の努力である。生の重点はこの努力にあって、与えられた物にあるのではない。呪詛は生を傷い、愛は生を高める。ただ愛せよ、そしてすべてを最もよく生かせよ。――こうして私は喜悦と勇気とに充たされる。天分の疑懼はしばらくの間私の心を苦しめなくなる。
-そして私は自分に聞く。――お前は誠実か。お前の努力は最大限まで行っているか。それが自欺でない証拠はどこにあるのだ。
『偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集』講談社文芸文庫より
自分のいまある状態を、愛し育て、誠実に、文章が書けたら。
それは、書けない日々をも許容してくれるはずです。
生活、仕事、恋愛、病気、家族、お金、etc。
私たちは、現実社会でなんらかの悩みを抱えて、生きています。
小さな悩み、中くらいの悩み、抱えきれないくらい、大きな悩み。
孤独感に苛まれ、目の前の暗さに絶望する。
それは、誰かに愚痴を言ったり、話を聞いてもらったりしてスッキリすることもありますが、コロナ禍で、誰にも、話せなかったり相談できなかったり、という場合もあると思います。
あるいは、コロナ禍にあって、相手もつらい状況もあると思います。
誰かに愚痴を言うことは、そのひとに、ある意味で負担を強いることになる。
マイナスな感情を、引き受けてもらうことになる。
相手が聖母か菩薩ならば、寛容な、広い海のようなこころで、受け止めてもらえますが、私見として現状、世の中の皆さんが、なんらかのフラストレーションを抱えて、生きていると思います。
つまり、新常態では、マイナスな感情を抱えすぎてしまい、かといって誰かに頼りすぎても、その人にも負担をかけてしまいます。
(本職のカウンセラーさんや、医師を別として…)
こういうとき、わたしの場合は、文章や物語をひたすらに書くと、気持ちが浄化されます。
世界は、いま、生きている現実だけではない。
いま、わたしによって語られ、描かれている言葉から、立ち上がる世界。
文章や物語ることは、誰かに読まれることによってその価値を付与されるように錯覚、思われがちですが、それは、自分自身を癒し、鼓舞し、生き抜くための行為でもあると、わたしは思います。
何かを書く行為は、人目に触れる場所でつぶやいたり、発信するのも良いですが、個人的な日記、あるいは、意味をなさないかたちを、書き殴るのも良いと思います。
日記、チラシの裏、デジタルデバイス、なんにでも。
あるいは、マインドマップを書いてみる。自分の内面を俯瞰してみる。
結構、すっきりしてきます。
しかし、ときに、文章を読むのも書くのも困難なときがあります。満身創痍。
そんなときは、やはりおいしいものを食べて、眠るのがいちばんです。
あるいは、わたしの場合は、だいすきなサンリオキャラクターについて考えたり、音楽を聴きます。
自分のご機嫌は、自分で取る。
これが、大事かもしれません。
それで、元気が戻ったら、また文章を書きます。
ここで、わたしが気をつけているのは、webで発信する文章に、1時の感情をぶつけすぎないことです。
赤裸々かつ、全てを開示することは、ともすれば危険だと、わたしは考えています。
自分自身が擦り切れて、すっからかんになる可能性を危惧しています。
和辻哲郎の文章を、引用します。
-告白の欲望はともすれば直ちに製作衝動と間違えられる。もとより体験の告白を地盤としない製作は無意義であるが、しかし告白は直ちに製作ではない。告白として露骨であることが製作の高い価値を定めると思ってはいけない。けれどもまた告白が不純である所には芸術の真実は栄えない。私の苦しむのは真に嘘をまじえない告白の困難である。この困難に打ち克った時には人はかなり鋭い心理家になっているだろう。今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。
自分自身を描くこと、文章を書くことは、生みの困難を伴います。
言葉は、書かれた瞬間に、嘘を伴う。
また、日々を生きていると、自分自身のやりたいこと、持っている(かもしれない)才能にも、懐疑的になります。
-私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫のよいうぬぼれでない証拠はどこにあるのだ。
そこで私は考える。――私には物に食い入るかなりに鋭い眼がある。一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。
そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる。何という鈍さと貧弱さだろう。私は差恥と絶望とで首を垂れる。
-要するに私は要求と現実とを混同する夢想家に過ぎなかった。
こうして私は自分の才能に失望してかなりに苦しむ。しかし私は思う。私の問題は与えられた物が何であるかに――私の Was にあるのではなかった。私はただ与えられた物を愛し育てるために生きているのであった。私はただ自分の愛の力の弱らないように、また与えられた物の発育の止まらないように心配していればよい。私の苦しみと愛とで恐らく私の生活の価値は徐々に築かれて行くだろう。
運命を愛せよ。与えられた物を呪うな。生は開展の努力である。生の重点はこの努力にあって、与えられた物にあるのではない。呪詛は生を傷い、愛は生を高める。ただ愛せよ、そしてすべてを最もよく生かせよ。――こうして私は喜悦と勇気とに充たされる。天分の疑懼はしばらくの間私の心を苦しめなくなる。
-そして私は自分に聞く。――お前は誠実か。お前の努力は最大限まで行っているか。それが自欺でない証拠はどこにあるのだ。
『偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集』講談社文芸文庫より
自分のいまある状態を、愛し育て、誠実に、文章が書けたら。
それは、書けない日々をも許容してくれるはずです。