第18話  月下にて

文字数 3,215文字

「うむ、これでもう大丈夫なはずだ。この者は助かるぞ」

王の間にてその大きな肉厚の手を重成にかざしながら神王ヴィーザルは言った。

「申し訳ございません、ヴィーザル様。一人のエインフェリアの為に御手をわずらわせてしまって・・・・」

恐縮し、頭を深々と下げるブリュンヒルデにヴィーザルは鷹揚に頷いた。

「いや、良いのだ。見事に任務を果たしてくれた者に対して、王としての当然の責務であろう。それにしても・・・・」

そう言って、ヴィーザルは苦悶から解放されて安らかに寝息を立てている重成の秀麗な顔を凝視した。

「未だ神格の低いエインフェリアが雷神トールが身にまとっていた強力な神器を用い、その力に耐えたのは、奇蹟と言うしかない」

「・・・・」

「本来ならばあり得ぬことだ。この者が持つ神気が偶然、トールの神気と親和性を持っていたと言う事なのだろうが・・・・」

ブリュンヒルデはヴィーザルの言葉が耳に入っているのかどうか。その蛾眉をひそめて双眸に深い色を湛えながら重成をじっと見つめている。
戦乙女の中でも特に感情が希薄なはずのブリュンヒルデがいかなる思いを抱いているのか、神王の目をもってしても分からなかった。

「・・・・この者を大事にせよ、ブリュンヒルデよ」

ヴィーザルは厳かに告げた。

「ひょっとするとこの者、来るべきラグナロクの行く末を左右する存在なのやも知れん」


重成は天蓋つきの寝台で目を覚ました。かつて北畠顕家との決闘の後に寝ていた寝台と同じものである。

「・・・・」

メギンギョルズの帯を締めた後、己がどのように動いたのか、全く記憶が無い。だが、とてつもない力が体内で駆け巡ったのと、未知の光景が映像となって断片的に脳裏に浮かんだのは鮮明に覚えていた。

(あれはもしかしたら、雷神トールの記憶なのでは・・・・?)

何せ悠久の時を生きた強大な力を持つ神の記憶なのである。今の重成では到底理解が追い付けずにいた。
それと同時に、トールと神器の力の一部が己の体内に溶け込んだ感覚があった。
重成はそれとなく己の指先を見つめ、そこに意識を集中した。するとそこに青い電流が走ったのである。
ルーン魔術ではない。重成は己の武勇でのみ戦うことを誓い、ルーン魔術の習得は一切行わなかった。
図らずも雷神トールの力の一部を受け継いでしまったのは明らかであった。
重成は喜びの感情は生じず、むしろ不快感を抱きながら扉を開け放ち、バルコニーへと出た。
天は星はまばらであり、銀盤の如き見事な月が清らかな光を投げかけている。
重成は無心にその身を夜風に晒し、月を眺めた。

「重成、もう体の方は大丈夫なのですか?」

甲冑を解いたドレス姿のブリュンヒルデが入室し、近づいて来た。歩むその足は地に着いていないが如く軽やかであり、その腰の細さといい、輝く白金の髪といい、現実離れした美しさであった。

「あ、ああ。もう何ともない」

一瞬、ブリュンヒルデの姿に見とれた重成であったが、慌てて視線をそらした。

「それにしても・・・・」

ブリュンヒルデは重成の側までやって来て、バルコニーに置いてあった椅子に腰を下ろした。

「あの時私が制止したにも関わらず、貴方は神器を用いましたね。何故あのような無謀なことをしたのですか?貴方はローランなどと違ってもう少し思慮深い人物だと思っていたのですが・・・・」

あの時ああいう行動をとったのは、明らかに雷神トールの意思に動かされたからだろう。だが重成はそのことを口にする気は無い。
己の行動を言い訳するようなことは重成が最も恥とするところである。

「・・・・切羽詰まった故、軽率な真似をしてしまった。申し訳ない」

重成は余計なことは言わず、率直に頭を下げた。

「・・・・まあ、いいでしょう。結果的には無事任務を果たすことが出来たのです。ですが、もう二度と私の指示に背くことは無いように。よいですね」

重成は無言で頷いた。
いつものブリュンヒルデならば、必要なことを伝えれば、即座に席を立つはずである。だがこの時の彼女はそこにとどまり、無言で夜空を見つめていた。
重成はそんな彼女の横顔を喜びと困惑が混じった複雑な思いを抱きながら密かに観察した。
月の光が流れ落ちたブリュンヒルデの美しさは、かつてラグナロクで落命した神々の中で最も美しいと言われたフレイ神の双子の妹である女神フレイヤにも匹敵すると言って良いだろう。
彼女の肉体的な年齢は十八歳か十九歳ぐらいに思えるが、数百年生きてきたかのような賢明さと、物心がついたばかりの幼子のような無垢さが同時に存在しているかのような不可思議な気配を有している。
その気配によって、彼女の美貌はさらに神秘的な光彩を得ているようである。

「噂があるんだよ。あんたは前世で、つまり先のラグナロクで何か罪を犯し、牢獄に閉じ込められていたんじゃないかって。そして今世で記憶を消されてから再生された存在じゃないかってね」

重成はフロックの言葉を思い出した。と、同時に流れ込んできたトールの記憶の中に、燃え盛る炎の檻に閉じ込められているブリュンヒルデの姿が一瞬映ったことも・・・・。

「美しい夜空ですね・・・・」

うっとりと呟くブリュンヒルデの声を聞き、重成は輝く月に視線を移した。

「うむ。こうしていると、かつて大坂城で秀頼君が催した観月の宴を思い出す」

「月を見ながらの宴ですか。騒がしそうですね。私は静かに夜空を見上げるほうが好きなのですが・・・・」

「もちろん静かに鑑賞するのも良いが、酒を飲み、和歌を詠じながらの宴というのも良いものだよ。ここでも新たに得た仲間たちと月下で酒を飲みかわしたいな」

「前にも言いましたが、私は他の戦乙女とは違います。貴方達に酌などしませんよ?」

眉を顰めながら言うブリュンヒルデを見て重成は苦笑を浮かべた。

「酌などする必要はないさ。ただ酒を飲みながら語り合えばいい」

「語り合うとは、どのようなことを?」

「そうだな、例えば風流について、それから恋についても・・・・」

「・・・・」

「まあ、戦に生きる者が恋や風流について語るなど、惰弱だと貴方は言うかも知れないし、私もそう思わぬでもない。だが平安の時代より伝わる雅な心を解せぬようでは一人前の武士とは言えぬというのが我が主君のお考えでね」

「・・・・」

「ブリュンヒルデ・・・・?」

重成は黙り込んだブリュンヒルデに声をかけた。彼女は呆然自失となっていたようだが、すぐに我に帰った。

「・・・・恋や風流といったものは戦乙女は解しません。私たちが語れるのは戦のことのみです」

ブリュンヒルデはそう言って慌てて席を立ち、この場から去ろうとした。

「待ってくれ、ブリュンヒルデ。貴方は一体・・・・」

重成の声に応じず、ブリュンヒルデは足早に去っていった。その背中には己に生じた不可解な混乱に対する苛立ちと悲しみがにじみ出ていた。
その姿を見て重成は確信した。やはりブリュンヒルデはかつて大罪を犯した身なのだろう。おそらくそれは男女の恋愛に関する罪なのだ。
その記憶は消されているはずなのに、ふとしたことがきっかけで脳裏にかすかに浮かび、肉体に反応が出てしまうのだろう。
戦乙女が犯した恋愛に関する罪とは、どのような罪なのか。重成には想像もできないし、また知りたいとも思わない。
だが、ブリュンヒルデを守らねばと思った。恋慕の情からではない。妻以外の女性は愛さぬという誓いは今も微塵も揺らいではいない。
それが己の使命であると悟ったからである。過去の罪と未来への希望を同時に背負ったブリュンヒルデを守る為に己はヴァルハラに招かれたのだと。そしてそれがラグナロクに勝利することにつながるのだと重成は確信した。

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