第一話 いきなりの脱線と教頭先生からのお下知

文字数 7,095文字

「とりあえず創世記から始めっか」
 僕はそう言い、ででーんと革表紙の聖書を置く。
「うわあ難しそう」
「なんでまだいるんだよおまえ」
 当たり前みたいに聖書研究会の部室にいる尚美は、勝手に備品のしるこサンドをかじっている。それ、僕が個人的に用意してストックしているやつなのだが。
「だって伊作と義也に面白くても他の人に面白くなかったら意味ナッシンじゃん」
 ぐうの音も出ない正論である。だがしるこサンドは取り上げる。
「あっひどい。なんか食べるものないの」
「「ない!」」
「むう、仕方あるまい……」
 尚美は当たり前みたいに自分のグロかわいいキャラクターのリュックサックから、毒々しい色のグミを取り出してモグモグしはじめた。
「「あるのかよ!」」
「あげないよ?」
「「いらんわ!」」
 そんな化学着色料どっちゃりのグミ、食べたら絶対からだによくないと思う。だが尚美はご機嫌でグミをモグモグし続けている。まあ本人が気にしていないならいいのだろうが……。
「で、聖書に最初に出てくるヘンな人ってだれ?」
「エバだな」
 僕がそう言うと横で義也も頷いている。
「エバってイブ? アダムとイブのひと?」
「そうだ。エバはな、元祖「人の話を聞いてない女」だ」
 義也がそう言い、尚美はよくわかっていない顔をしている。
「人の話を聞いてない女って、神様に食べちゃダメだよーって言われてるもの食べただけじゃん。なんで人の話を聞いてない女なの」
 尚美にしては知的な意見が飛び出した。確かにこれが普通の認識だろう。
 僕が補足する。
「アダムは、神様に「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」って言われてるんだ。「必ず死ぬ」な。ここ大事だぞ」
 尚美は真面目な顔で聞いている。僕は続ける。
「で、エバは蛇にたぶらかされたとき、神様に「あなたがたが死ぬといけないからだ」って言われてると答えた。必ず死ぬ、って言われてるのに、死なないかもしれないことになってるんだよ」
 僕がそう言うと、尚美は首をこきりと傾け、
「それってアダムが言われたことでしょ。アダムからエバへのホウレンソウがおかしかったってことでしょ。それだけで「元祖人の話を聞いてない女」扱いって」
 と、難しい顔をしている。いやしかしホウレンソウて。新入社員か。
 毒々しいグミを口に入れてむぐむぐ食べながら、尚美はさらに続ける。
「それにさあ、実際死んでないじゃん、むしろ生まれたままの姿なのに気づいて進歩したじゃん」
「死んだのは肉体じゃなくて霊なんだよ。人間は霊と肉体と魂で出来てて、そのうちの霊が死んでしまったんだ」
「霊が死んだ」
「そう。霊が死んだから、男女は体を隠した関係になってしまったし、神様から隠れる関係になってしまった。人間同士、人間と神様の間柄も、あるがままの愛が失われたんだ」
「うーん……よくわかんないや。人間と神様……は、なんとなくわかるけど、人間同士の、ってどゆこと?」
「ええと。たとえばだ、いきなり男に「朝までコースで遊びたい」って言われたらどうする?」
「……見た目と人格による」
「要するに命を即増やそうとは思わないよな? 神様は「生めよ増えよ地に満ちよ」って言って生き物を作ったわけだけど、それに背くことになるよな? ……この辺の解釈はちょっと分かりづらいと僕も思うよ。ただ読むだけじゃわからないし。さて、エバが元祖「人の話を聞いてない女」というのはわかってもらえた?」
 尚美はまた首をこきりと曲げて、
「わかったけど特に面白くなかった」
 と、ごくごく正直に感想を述べた。うん、それは僕も自覚している。
「なんかいないの? 木久扇師匠みたいに面白いひと」
 尚美よ、聖書に演芸番組みたいな面白さを求めんでくれ。
「じゃあこれもつまんねぇかな……カインとアベルって知ってるか?」
 義也が尚美にそう尋ねた。
「あれでしょ、「汝、目を逸らすなかれ!」ってキャッチフレーズで、ヴァンパイアの血を吸う……バチルス・クルースニクとか……」
「そんな偉大なライトノベルを例に出すのはやめてくれよ……確かにあれは傑作で作者が亡くなられたのは残念だが……」
 某傑作ライトノベルの話はともかく、義也はカインとアベルの説明を始めた。人類初の殺人がカインによる弟殺しであることを尚美に説明すると、
「ちっともたのしくない」
 と、尚美はあっさり言った。
……やっぱり聖書を面白く楽しく紹介するのは難しい。どうやら尚美はスナック感覚で面白い話を期待しているようだ。
 聖書をスナック感覚で説明するって難しいぞ……どうしたもんだろう……。
「なんかすんごい笑える話ないの」
「聖書はギャグ漫画じゃないんだってば」
 僕がそう言うと尚美はがっかりした顔をした。グミの袋に手をつっこみ、
「グミ終了のお知らせ」
 と呟いてため息をついた。そして当たり前みたいにまたしるこサンドに手を伸ばしたので、
「それはうちの部員のために用意したやつだぞ」
 と、ガツンと言ってやる。
「だってそれじゃ食べきる前に廃部になっちゃうよ?」
「縁起でもないこと言うなよ……廃部にしないためにきてるんだろおまえ……」
「ねーねー、なんで伊作と義也は聖書研究会に入部したの? お家の人、キリシタンなの?」
 噎せた。
 義也も噎せてゲホゲホ言っている。
「「キリシタンていつ時代だ!」」
 噎せながら二人して言い返す。
「僕んとこも義也んとこもノンクリスチャンだよ……単純に先輩が美人ばっかりだったから入部したんだ」
「へえー。じゃあなんでそんな熱く語るほど聖書にハマったの?」
 ……言われてみればなんでだろう。
「聖書が面白いからだ」
 義也がそうハッキリと言った。
「いまんとこあたしが聞くぶんにはちっとも面白くないんだけど」
 ……これまたぐうの音も出ない。
「あのさ、向かいのコンビニでグミとコーラ買ってきてよ。ちゃんと払うから」
 尚美はいきなり僕にそう言った。勝手に部室に入ってきたうえに僕を使いっ走りにするつもりだ。なんだこいつ。サイコパスか。
 しかしつまらない話を聞かせてしまった手前、僕は渋々立ち上がって学校の向かいにあるコンビニに行くことにした。部室棟を出て廊下に出て、玄関ホールに降りると、なにやらざわついている。
「今年も聖書研究会、逆に攻めてるな……」
「聖書研究会、部員増やす気あるのか……?」
 部活の勧誘ポスターは先生に提出して、先生の決めた場所に貼られる。今年の聖書研究会のポスターは、玄関ホールのいちばん目立つところに貼られていた。これじゃ公開処刑だ。ゴルゴタの丘を、十字架を担いで登るのとあんまり変わらないではないか……。
 とりあえず無視して向かいのコンビニに歩いていく。棚から尚美のよく食べているグミを取るが、思ったより高い。それからコーラも買う。
 学校に戻り、玄関ホールにデカデカと貼られてしまったリアル黒歴史ポスターをチラッと見て、部室に戻る。
「ほれ! グミとコーラ! これレシート!」
「ありがてえ。オツリはいらねえ」
 変な口調でそう言って、尚美は僕に500円硬貨を握らせた。いや、足りないんですけど。オツリ出ないどころかマイナス収支なんですけど……。 
 そこを指摘すると、
「男がそんな細かいこと気にしてどうする」
 と、不条理な反撃を受けた。
 尚美は早速グミをモグモグ食べながら、狭い聖書研究会の部室をぐるーっと見回して、
「きたないよね」
 と呟いた。
「汚いってなにがだよ」
「聖書研究会の部室。百合さんと桜さんと葵さんいたときはきちんと片付いてたけど、伊作と義也だけになったとたんとっちらかったよね。なんかこの汚さ、男の一人暮らしみたいで入りづらいよ」
 いきなりそんなことを言いながら尚美は山積みの聖書の注釈書や資料を片付け始めた。ありがた迷惑というやつだ。
 ……でも入り易くなったら部員増えるかな……そんなことを考えつつ、僕と義也も部室の片付けをする。
「およ?」
 尚美がなにかに気付いた。ノアの方舟の模型だ。縮尺を正確に作ってあって、真ん中からパカっと開けられるようになっている、桜先輩のイスラエル旅行のお土産だ。
「なにこれ」
 そう言って尚美はそれをひっくり返した。中に入っている動物の模型がガチャガチャ言っている。
「ノアの方舟だよ」
「あーそれ知ってる!世の中の生き物を全種類ゲットして船で大洪水からサバイブするやつだ!」
 何故ちょいちょい英語を挟むのかは分からないが、尚美は少し考えて、
「ハダカデバネズミも乗ったの?」
 と尋ねてきた。僕は頷く。
「そうだ」
「ハシビロコウも?」
「そうだな」
「スベスベマンジュウガニも?」
「……そうだと思うぞ」
 僕がそう言っていると義也が言い放った。
「神様がやってんだから不可能はないんだ」
 まさにその通りである。
「不可能はない」
「そうだ。主に不可能はない」
「じゃあ伊作と義也は神様を信じてるの?」
 二人して顔を見合わせ、しばし黙ってから、
「……いつか信じようとは思うよ。今はまだ高校生だから、親の同意は簡単にとれないだろうし」
「俺も。聖書研究会に入るって言ったら『信心しない』って条件つけられたしな」
 と、僕らは答えた。
「いつか信じるてどゆこと? いま信じればいいんじゃないの?」
「……尚美は、洗礼って知ってるか?」
 義也は真面目な口調でそう言った。尚美は、
「イャンクックのこと?」
 とよく分からない返事をした。
「うんまあなんつうか、洗礼を受けなきゃキリスト教徒にはなれないわけだ。頭に水をたらしたり、おでこに水をつけたり、浴槽に沈められたり」
「洗うから洗礼なんだ」
「そうだ。洗礼を受けないと聖餐にあずかることはできない。聖餐っていうのはパンとワイン……百合先輩の行ってる教会はぶどうジュースだったそうだが。ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります、ってやつだ」
「え、うちのおとーさんワインとフランスパン大好きなんだけどそれって罪なの」
「そりゃ食事のパンとワインはなんの問題もないよ……」
「そうかそれはよかった」
 変なことに納得している尚美をみてため息をつく。
「話は戻るけど、ノアの方舟ってすべての生き物が乗ってるんだよね?」
「お、おう」
 意表を突かれた。義也が答えた。
「植物は?」
「……植物?」
「そう植物。あたしエアープランツが好きでさ、エアープランツって水に浸けてやって水遣りするわけなんだけど、たまあに水遣り忘れてシワシワになるのね。そーゆーときはソーキングっていって、バケツに三時間浸けるのね。そーするとシワシワ治るんだけど、あんまり長時間浸けるとエアープランツが窒息すんの」
「エアープランツって窒息すんのか」
 義也がしみじみとそう言う。しみじみするところなんだろうか。
「うん。エアープランツに限らず何十日も水の中だったら枯れちゃうよ」
「……神に不可能はない。よって枯れない」
「……なかなか強引」
「とにかく神に不可能はないんだ。全知全能。アフリカで奉仕してる人が戦闘に巻き込まれて腕がちょん切れて、翌朝生えてた、ってことがあるらしい」
「え、それすごい。神様すごい」
 目をキラキラさせる尚美。たぶんこいつ、腕がちょん切れるっていうスプラッタ展開が面白かったのだと思う……。
「ねえねえもっと聖書の話してよ。変な人の話に戻ろうよ」
「聖書の話、面白い……のか?」
 僕が恐る恐る尋ねると、
「聖書っていうか伊作と義也が面白い」
 というひどい扱いをされた。
「変な人……っていうとソドムとゴモラとかかな。人じゃないけど」
「ソドムとゴモラって、手塚治虫の三つ目がとおるに出てきた三つ目人の超兵器?」
 なんでそんなマニアックなネタを知っているんだ尚美よ。
「ちがう。町の名前だよ」
「町。三つ目人の超兵器が滅ぼしたんだよね」
 だから尚美よ、手塚治虫ファンなのかよ。
「ちがうよ……悪いことをいっぱいやって、結果神様の怒りに触れて、硫黄の火で滅ぼされたんだ。神様を信じるロトっていうひとが脱出させてもらって助かるんだけど、ロトの奥さんは脱出するとき町のほうを振り返ってしまって、塩の柱にされてしまうんだ」
「悪いことって、神様が怒るくらいの悪いことってなに?」
「挙げるなら男色だよ。ソドミーって言い方があるくらいだ」
「男色って、よーするにホモ?」
「ざっくり言えばそうだね」
「じゃあロトの妻って腐女子だったの?」
 僕と義也は「ぶえっ」と噴いた。
「ああっ推しが……推しが硫黄の火で焼かれて……ってなったから振り返ったんでしょ?」
「……ちがうと思う……ぞ……」
 聖書に腐女子の概念を持ち込む尚美に驚くあまり、僕は酸欠の金魚みたいな顔になった。義也も酸欠の金魚みたいな顔である。
「神様はBLが地雷だったんだね」
「神様は、人間の感覚で測れるもんじゃないぞ?」
 義也がそう言う。尚美は難しい顔だ。
「人間の感覚で測れない」
「神様は計り知れないお方だ。常に人間が考えることよりずっとすごい事を計画されている」
「そっかあ……じゃああたし、神様信じたらご当地アイドルかアルファツイッタラーになれるかな?」
 またしても腰砕けになるセリフが出てきた。アルファツイッタラーて。ご当地アイドルて。
「そういう現世利益を望むのもな……でも神様は人間の思う事を超えて豊かに恵んでくださる方だ。ご当地アイドルどころか本物のアイドルになれるかも知れないし、アルファツイッタラーどころか評論家として大成するかもわからん。神様の御心にかなうなら」
「……人間にはわかんないんだね」
「神様は全てを超えておられるからね……」
「伊作と義也は、大人になったら、なんだっけ、洗礼を受けるの? 神様を信じるの?」
 僕らは黙ってから、
「そのつもりでいる」
「俺もだ」
 と答えた。
 そっかあ、と尚美はつぶやいた。
「神様を信じられるって素敵なことね」
 尚美はえげつないえくぼを見せて笑った。
「そうだな……」
 ちょっと赤面しながらそう答えて時計をみる。もうすぐ七時だ。尚美がお喋りに応じてくれたので楽しく話してしまった。
 だが聖書に出てくる変な人からだいぶ話題が逸れてしまった。
 なにかキャッチーな、聖書研究会に人を呼ぶ話題……。
 そんなことを考えていると、建て付けのよくないドアがぎっと空いて、顧問の立浪先生が入ってきた。
「おーい、まだやってんの? あれ? B級ホラー同好会の篠田さんじゃない」
 立浪先生は正式名称を立浪真菜という、上品な美人の先生だ。科目は音楽を教えている。美人だが色々残念な人でもある。
「どもです。聖書研究会を廃部にしないために、なにか策はないかと」
「おお、ありがたや。だがだな、教頭先生からのお下知があってな」
「お下知」
「お下知」
「お下知」
 立浪先生の言葉に、三人困惑する。時代劇か。
「この学校、基本的に宗教活動禁止なの知ってる?」
「……え。聖書研究会ってグレーゾーンだったの」
 尚美がアホの顔だ。
「グレーゾーンなんだよ。あくまで研究会。だから百合さん桜さん葵さんも信仰のためでなくあくまで研究だったんだ」
 僕がそう答えると、尚美は目をパシパシした。
「じゃあ教頭先生からのお下知って、お家お取りつぶし?」
「尚美よ、縁起でもないことを言ってくれるな。なんなんですか立浪先生」
「ええとだ。なんだっけ。……ちょっと待ってね」
 立浪先生は焦ったドラえもんみたいにポケットをひっくり返した。のど飴の個包装やチョコエッグのミニフィギュアやUSBメモリ、ゲーセンのコインなど雑多なものが出てくる。小学生か。ダンゴムシが出てこなかったぶんよかったと思うほかない。
「あ、こっちだ」
 反対のポケットに手を突っ込む。今度はツタヤで貰えるファミマの割引券やらコンビニのレシートやら、やっぱり雑多にいろいろ出てきて、その中からメモ帳を雑に破いたやつが出てきた。
「ええとだ。聖書研究会が宗教活動でなく、正当な聖書研究をしていることを、きちんと証明してほしいんだって。あぁ、平等にするために、他の、例えば運動部で試合前にお祓いしてもらうのも禁止するつもりなんだって。なにか質問は?」
 義也は黙り込んだ。
「あの、もし聖書研究会が宗教活動だと認識されたら」
「お家お取りつぶしだねえ」
「その場合運動部のお祓いは」
「どーなるだろ。宗教活動は禁止だから、学校からはお祓いの予算出ないとは思うけど。まあでも合唱部がキリスト教音楽やってんのはお咎めなしなんだよねえ。宗教活動と聖書研究の境界線がどこなのかは教頭先生の一存になるからねえ……」
 僕は教頭先生の顔を思い出していた。無心論者を絵に描いたような、いつも退屈そうな顔をしている先生だ。
 ……だが聖書研究会が聖書を真面目に研究していることを示さねばならない。しかも堅苦しくなく明るく分かりやすく高校生らしく。
 ……やるしかないのだ。
 その日は解散して、明日とあさって、休日返上で策を考えることにした。
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