蕾と微睡み

文字数 3,444文字

 蕾と微睡み

 美和子のもとにネガティヴが訪ねて来たのは、今年の春がこちらにくる旅支度をしている、日差しが眠る桜の蕾を優しく揺り起こしている三月の始めの頃だった。新年があけて仕事が始まり、もこもこ靴下をパンプスに履き替えて、転がるように仕事に出てなんとかようやく今年も普段のペースが掴めて来た、そんな頃のこと。
 それは最初は遠くの国の、小さな悲鳴からはじまった。今となっては暢気というか、残酷というか、なんとも言い難いが、その時の美和子は特に大したニュースとは思わなかった。
 遠くの国でミサイルが発射されたとか、戦争で何千人が亡くなったとか、そういうニュースと同じで、悲しいことだけれど対岸の火事だった。美和子にとってはそんなニュースよりも、最近別れてしまった同じ職場の元恋人を吹っ切れない自分の方が大きな問題だったから。夜は眠れないし、彼のものが家にありすぎて家にも帰りたくない。職場にいけば、彼そのものがいる。
 だがそんな美和子の思惑を無視して、遠くの国で聞こえた小さな悲鳴は段々と大きくなり、あっという間に世界に広がってしまう。
 その事態について、多くの人が多くの意見を述べた。その大半は恐ろしいことで、生物兵器に因るバイオテロだとか、世界的経済危機が起きるだとか、増え過ぎた老人の間引きだとか、そういった類いの事柄。
 そしてそこから更に、もっと多くの目を覆いたくなるような厭なニュースが飛び交った。どこかの国で自宅待機命令が出た、医療崩壊が起きた、買い占めに次ぐ買い占め、それから高額転売。
 世界は一ヶ月ほどですっかり疲弊し、政治への不満や将来への不安が人々を苛立たせ、普通の日常は多くの人々から奪われていく。
 だが同時にいつも通り、飲み歩いている若者もいるし、週末には多くの人が都心近くに集まるという。それは良いことか悪いことか、美和子にはわからない。ただ、恐ろしいことが起きませんように、と美和子は心の片隅で祈り、あとはこの問題をなるべく考えないようにした。情報処理能力のキャパシティをオーバーし過ぎていたから。
 普通の振りをする。別に、これってたいしたことじゃないわ。

 仕事の途中でいつも寄る喫茶店は、古くからある小さな店構えで五十をとうに過ぎたであろう女性店主が一人で切り盛りする、気っ風のいい清潔な店だ。そこにはいつも近所の老婆や独身の中年男性などがたむろし、ああでもないこうでもないと世間話に華を咲かせている。
 一月の末頃に美和子が来た時にはまだそこにはお客さんが結構いて、駅前の薬局にはマスクはないとか、私はネットで買ったから分けてあげるわとか、そういった会話が甥の成長や、孫の反抗期の話と同列で話されていた。
 しかしそこから、あれよあれよとネガティヴは感染し続けた。人々は恐慌に陥り、恐慌に陥らない人々は楽観的で自己中心的だと罵られ、恐慌に陥り過ぎている人々は臆病者だと嘲笑われた。人々は政府に対して感染者が増えれば頼りないと非難し、感染者の増加を防ぐ為に教育機関や外出の制限をすれば国民のことを考えていないと非難した。
 きっと政府は普段から、国民の反感をうっすら買っていたのだろう。それが今このタイミングで、こういう形で噴出しているのだろう。だがそのうちに誰も彼もが怒る事にも、自粛することにも、疲れ果ててしまった。疲弊と憎しみが状況を更に悪化させた。
 ネガティヴは疲弊と憎悪が大の好物だから、もっともっと元気になり人々の玄関の戸を叩き続けた。
 「もっと疲弊してくれ、もっと疲れてくれ、もっとお互いを貶し、憎しみ、俺たちに力を与えてくれ」
 美和子にとってもそれは同じことだった。仕事の時間や出勤日は減り、だが仕事量は減らない。納期や支払い日は当然やってくるし、それに対して様々な意見が飛び交う。パンプスが足をしめつけるし、元恋人のことも美和子の胸を締め付けていく。
 美和子は膿み疲れた気持ちで、いつもの喫茶店に入る。入ろうかどうかも少し悩んだが、疲れとストレスでぼうっとなった頭をカフェインでどうしてもすっきりさせたかった。
 一日中つけているマスクを外してテーブルに置くと、マスクが途端に穢らわしいウイルス塗れの汚染物質に見え始めて、彼女はマスクを鞄にこそこそと隠すように入れた。
 「何にします?」
 五十路の女性店主も少し疲れているようで、いつもより顔に元気がなく見える。ブレンドを、と美和子が言うと、かしこまりました、とカウンターの奥に入っていった。
 マスクとずっと触れている箇所が、擦れて肌荒れを起こしている。なんとか化粧で隠してはいるが、それも美和子のストレスの一因だ。
 いつになれば、マスクをしないで良い生活が来るのだろう?
 店の中には気の利いたジャズが流れている。誰の何という曲かは知らないが、とても良い曲だと美和子は聞き入る。
 ブレンドです、と声がして目をあけると女性店主が湯気の立つ珈琲を手に、美和子の横に立っていた。女性店主の口許にも白いマスクが目立つ。なんとなく、目を閉じていた姿を見られたのが気恥ずかしく、美和子は言い訳をするように店主に話しかけた。
 「良い曲ですね。思わず聞き入っちゃった」
 「お好き? Keith JarrettのMUNICH 2016というアルバムなの。ご存知かしら」
 「Keith Jarrettっていう名前だけは……」
 珈琲の馨りが、美和子の鼻をくすぐる。白いカップと対照的な漆黒の液体。水面に浮いた油分、上昇志向の強い湯気、ソーサーに置かれたスプーンに映る丸く歪んだ美和子と女性店主の虚像。
 
 店内には、いつものような老婆たちや男たちはいなかった。静かに流れる音楽が美和子の手元の珈琲の湯気を揺らしている。
 「一連の騒動で、どうですか? お客様、減ってるのじゃないかしら」
 息苦しいというのとも違うのだけれど、美和子はなんとなくそう口にした。普段は店員と世間話などしないで、仕事をしたり本を読んだりするのが好きなのだが、やはり不安が心に溜まっていたのだろうか。なんとなく、そんな言葉を口にしてしまったのだった。
 「ええ、やっぱりね。うちのお客さんは高齢の方も多いし、皆さん豆を買っていかれておうちで飲まれるって方も多いです」
 「経営、大変なんじゃないですか?」
 美和子は親身になっているような声を出す自分に、ふと嫌気がさす。店主の心配をしているように見せかけて、自分は自分の不安を解消する切っ掛けをどこかに見つけようと探しているだけだ。目の前のこの老年にさしかかっている女性店主が、今のもやもやに何か答えを提示してくれるのではないだろうかと。
 そんなことは、ある筈がないのに。
 「大変ですけれど、大変な時期は今までも沢山ありましたからね。今は皆さんの安全第一ですよ。こうして一応、店はあけてありますけれど」
 「そうですね、本当にそうだわ……」
 机の上を沈黙が川のように流れる。美和子は流れる透き通った沈黙の川底に沈む、小さな石たちを見つめた。
 石たちは、きっと最初は尖ってお互いを傷つけ合っていたのだろうが、長い年月をかけて沈黙という水の流れに研磨されて丸く美しくなっている。
 「生きていると、色々なことがあるわね」
 女性主人はにっこりと微笑んだ。彼女は沈黙の底に沈んだ、角がとれて美しくなった石と良く似ていると美和子は思った。
 「少しお話しても良いかしら」
 どうぞ、と美和子が言うと、女性主人は訥々と話し始めた。
 彼女は絹田ゆりと言い、美和子には五十過ぎに見えたが、実際は六十を超えているのだそうだ。とっても見た目がお若くいらっしゃるのですね、と言うとゆりは年をとると若作りが上手になるのよと笑った。
 ゆりは静岡の生まれで、造園業を営む両親のもとに産まれた。兄弟は五人いて、長男は若くして亡くなった。息子を失ったゆりの母の悲しみはとても激しく、その反面父はじっと何も言わず押し黙っていた。ゆりは父をとても薄情な人間だと思った。明るく勉強もできとても優しかった兄の葬儀の最中、悲しむ大勢の人々に混じって黙って淡々と役割を果たす父の背中を見て。きっと母もそう思っているだろう、この冷酷な鬼に失望しているのだろうと若いゆりは悲しみと怒りに震えたのだった。
 だが、その父も鬼籍に入り数年が経ったある日ゆりが母に、兄が亡くなった時の父の反応にはなんと薄情な人だろうと失望した、とその時の話をすると、母は急に血相を変えてゆりを
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