あの日の僕ら

文字数 11,495文字

 あの日の僕らは、まだその本当の意味を知らなかった。
その言葉の持つ苦しみも、切なさも、耐え難い絶望も。

そして君の与えてくれる絶対的な幸福も、まだ何も知らなかった。





 何でこのメンバー?とよく聞かれたし、自分たちでも何でこの面子でつるむのかよくわからなかった。ひとりひとりはそれぞれ全然違うコミュニティに所属して毛色も趣味も違って。なのに不思議と6人で集まると落ち着いた。何でかなんてわからない。きっかけは多分席だ。その全然毛色の違う6人が偶然近くに集まった。でも席が近いから仲良くなるなんてのは幻想だ。実際あの時以外、席からつるむようになった奴なんかいない。だからそれがきっかけだったとしても、なんでつるむようになったのかはよくわからない。

 「奥田ぁ〜!!消しゴム無くしたぁ〜!!」

突然、後ろから肩を掴まれガタガタ揺すられる。相手は誰かはわかっている。奥田は面倒そうに振り返った。そこにいたのはいかにも今時女子と言うか、普段の奥田なら絶対に関わる事などないチャラい感じの女子生徒が「ぴえん」といった趣きで立っていた。

「……いや……俺に言われても……。」
「古文、小テストじゃん!!ないと困る!!」
「いやだから、俺に言われても……。」
「確かに困るだろうが……消しゴムがあったからって点数変わるのか?中川?」
「小笠原には言ってない!!」

そこに冷めた調子で奥田の友人である小笠原がツッコむ。悪気はない。気心が知れている故に容赦ない本音を明かしたに過ぎない。しかしその言葉に中川は少しムッとして奥田の背中をバンバン叩いた。とばっちりである。

「痛っ!!なんで俺を叩くわけ?!」
「消しゴム無くしたぁ〜!!」
「話聞いて?!ねぇ?!」

我が道を突き進む中川に奥田はタジタジである。いつもの事。特に代わり映えのない日常。奥田が中川に絡まれるのはいつもの事だった。

「……あ、あの!!」

そこに新たな声が加わる。三人の視線がそちらに向けられる。そこにはちまっこくて黒髪で、いかにも擦れてない真面目そうな女子がアワアワした様子で立っていた。

「あ!狭山っち!!どした?!誰かにイジメられたん?!」
「いえ!大丈夫です!ありがとうございます!!」
「そか!良かったぁ〜!!」

狭山と呼ばれたその生真面目そうな生徒の頭をチャラい中川がよしよしと撫でる。馬鹿にしている訳ではない。中川はこう見えて年下の兄弟がいるせいか面倒みが良いのだ。

「……消しゴムか?」

状況を見ていた小笠原がサクッと結論を口にする。小笠原にはそういう所があった。話や状況の流れを飛び越して結論を口にする。本人は別に変な事だと思っていないのだが、会話が吹っ飛ぶ為、そんな彼を「会話にならない」「つまらない」と敬遠する者も少なからず居た。しかし人見知りなのかぴよぴよ慌てていた狭山はその言葉にコクコクと頷き激しく同意した。

「2つ持っているので、良かったら使って下さい!中川さん!」
「おお〜さすが優等生〜。」
「いえ!たまたまで!!」
「ありがとぉ〜!凄い助かるぅ〜!」
「お役に立ててよかったです。」

ホッとした狭山が微笑む。その小動物っぽい笑顔に他の三人は妙に和んだ。しかし、そんな感じで話が平和にまとまろうとした時、不穏な影が彼らに忍び寄り、狭山が中川に差し出した消しゴムがヒョイッと奪われる。

「あ!コラ!和泉!!返せ!」
「……返せって、オメェのじゃねぇじゃん。中川。」

そこにいたのはイケメン。真性イケメンだ。ちょっと悪ぶった擦れた感じの今時男子。ツンっと突っぱねた雰囲気で狭山の消しゴムを奪って澄ましている。

「あ、あの……っ?!」
「……これは俺が借りるから。」
「え?!和泉君も消しゴムを無くされたんですか?!」
「……失くしてはねぇけど。」

その様子を、奥田・小笠原・中川は遠い目で見守る。いつもの事。ここでは日常風景だ。

「怖……。」
「……嫉妬深……。」
「執着凄……。」

ボソボソっと呟かれた声にギロリと和泉が睨みを効かす。

「……なんか言ったか?!」
「いや?」
「何も?」
「言ってないよん?」

そして視線を反らしため息をつく。別に狭山と和泉は付き合っていない。付き合ってはいないのだが、お察しの通り真性イケメン君はキョドる優等生にご執心だ。しかも質が悪い事に、和泉はその執着が周囲にバレていないと思っているのだ。それは天然な狭山が和泉の積極的だが不器用なアピールに全く気づかない事から来る悪循環でもある。狭山が気づかない=他の人も気づいていないと思っているのだ。

「……ここまでバレバレなのに。」
「何とかは盲目とはいえ……。」
「てかさぁ〜?ここまでするならサッサッと告れってのぉ〜。変なところで優柔不断なんだよぉ〜あの駄目イケメン〜。」

とはいえ和泉がおかしな行動を取るのは決まってこのメンバーが集まった時なのだ。和泉自身、自分がモテる自覚のある男だ。自分が想いを寄せる事で狭山がイビられたりしない様かなり気を使っている。なので実際のところ、その異常性に気づいているのは何故かつるむようになったチグハグな面子ぐらいなのだ。

「ちょっと、和泉。狭山が困ってるじゃない。」
「あ、飯田さん。」

そこにまた一人このおかしな状況に入り込んできた。全く毛色の違う面子の最後の一人、少しボーイッシュな雰囲気の運動部女子、飯田だ。背の高い飯田は斜に構えた和泉を前にしても微塵も動じない。

「ほら、さっさと消しゴム返して?」
「うっせぇ。……ほら、これ使えよ、狭山。」
「え?!」

ぶぅ垂れた和泉はポケットから別の消しゴムを出して狭山に渡す。自分の消しゴムではないものを渡され狭山はまたもあわあわしている。

「え?えぇ?!」
「それはお前が使えよ?中川に貸すなよ?」
「えええぇぇぇ?!」

そう言うと和泉はさっさと自分の席に戻ってしまう。困ってキョドる狭山。

「仕方ないなぁ〜。」
「って!オイ!!」
「ありかとぉ〜奥田ぁ〜!!」
「ちょっと待て!!貸すなんて言ってない!!」

そんな様子に呆然としていると、いつの間にか奥田のペンケースを漁っていた中川が消しゴムを取り出し持っていってしまう。突然の展開に対応できない奥田。小笠原は我関せずだ。

「あ、あの……すみません!こんなのしかないんですけど!!」
「うぅ……ありがとう、狭山……。」
「こんなのでごめんなさい!差し上げます!返さないで使い切ってしまって大丈夫ですので!!」

その状況に慌てた狭山が、もう一つあると言っていた消しゴムを奥田に渡す。それは使い終わりの角のない丸っこい小さな消しゴムだった。それでもないよりはありがたいと奥田は感謝した。

「……やっぱりね。」
「何がだよ?」
「和泉がなんでこんな事したか、よ。」

慌てて席に戻っていく狭山を見送り、飯田はふぅとため息をついた。その含みのある言い方に小笠原は飯田に目を向ける。

「……消しゴム。」
「は?」
「あの子の性格的に、2つ持ってたら良い方を相手に貸すでしょ?」
「……なるほどな。」

飯田の言わんとしている事を理解し、小笠原もため息をついた。そこまで読んで行動を起こした和泉の思いの丈に感心するしかない。だが状況は理解したが、狭山の意図は理解できなかった。消しゴムの良し悪しは自分のテストの点数に関わる可能性がある。なのに何故、狭山は良い方を相手に貸そうとしたのか。自分が万全の体制をきちんと作っていたのに、何故、相手の為に自分のコンディションを悪くさせるのか。

「俺にはできんな。」
「やってみたら何かわかるかもよ?」
「……は?」

飯田の言った言葉の意味を考えあぐねる間もなく、小笠原のペンケースから飯田が消しゴムを取り出す。ギョッとする小笠原に飯田がニッと笑った。

「安心しなさいよ。私の消しゴムはちゃんとしてるから。」
「って!オイッ?!」

そう言って投げられた消しゴムを小笠原はキャッチする。それは確かにまだ普通に使える消しゴムで、しかも小笠原のお気に入りのメーカーの物だった。

「これ……変える意味、あんのか??」
「あるんじゃない?」
「どんな?」
「そうね?ここぞという時の神頼み的に、小笠原の消しゴム持ってたらあやかれそうじゃない?」
「俺は理系だ。古文じゃ俺の知識は役に立たないぞ?」
「あやかれるって部分は否定しないのね?」
「あのな〜。」

ふふっと笑う飯田。小笠原はそれ以上何も言わなかった。やがて予鈴がなり、皆が席についていく。

「……で?結局、変な貧乏くじを引くのは俺なんだよなぁ〜。」

小さくてコロリとした消しゴムを前に、奥田はがっくりと肩を落としたのだった。










 結局のところ、狭山と和泉が互いの消しゴムを持ち、狭山の使い終わりの消しゴムを奥田がもらい、奥田の消しゴムを中川が持っていった。そして何故か小笠原と飯田も消しゴムを交換した。

「何だったんだろうな……あれは……。」

次の日、まだ誰もいないような廊下を歩きながら奥田は首を捻った。今ひとつ理解できない。と言うか、奥田は狭山からもらってしまったので返す必要はないが、他のメンバーはあの後どうしたのだろう?謎か残った。

「って言うか、中川、あれ、返す気ないよな??」

当然のように自分のペンケースに奥田の消しゴムをしまっているのを見て、奥田はもう消しゴムが帰ってくる事はないだろうと思った。

「あ!来た来た!!」
「は?!中川?!早くない?!」

ガラリと教室のドアを開けると、そこには何故か件の中川がいた。バスの時間の関係で常に一番乗り状態の奥田。しかしそれより早く中川が教室に来ていたのだ。遅刻ギリギリで駆け込んでくるイメージの中川がそこにいる事に驚いて、奥田はぽかんとその場に立ち尽くした。

「え?えぇ?!どうしたんだよ?!お前?!」
「えへへ〜。ちょっとねぇ〜。」

にこにこ笑う中川は立ち尽くす奥田に近づくと有無を言わさず引っ張った。何だかわからずともいつもの条件反射で無抵抗に引っ張られる奥田。

「……え?!」
「昨日のお礼!!皆には内緒だぞぉ〜?!」

引っ張られた先。奥田の机の上には小さな包みがあった。そこからはまだ温かそうないい匂いがしている。中川はその見た目とは裏腹に家庭的で、よくお菓子やらを作ってきては周りの皆に分けてくれていた。しかし皆に配るお菓子とこれとは訳が違う。驚いた奥田は中川の顔を見つめる。

「奥田、いつも朝が早いからお腹すいたって早弁してるじゃん?!だからミニ弁当作ってきた!!」
「ウッソ?!ありがとう!!マジで嬉しい!!」
「ついでだし、いいって事よぉ〜。」

中川の家は両親共働きで兄弟も多い。だから中川は毎日じゃないが弁当を作ったり夕飯なんかも作ったりしているようだ。奥田にくれたこのミニ弁当はおそらく家族の弁当を作りながら作ってくれたものなのだろう。

「……なぁ、これ、今食ってもいい?!」
「あはは!別にいいよ?!」
「やった!いただきます!!」

いい匂いに負けた奥田は包みを開く。ミニ弁当というだけありこじんまりとしたお弁当。メインはおにぎり2つと卵焼き、そしてソーセージ。まだほんのりと温かく、目で見てしまった事から我慢できなくなった奥田は夢中でそれを頬張った。中川は向かいの席に座り、食べる奥田を見つめる。

「旨い!!マジ旨い!!」
「あはは!そりゃどうもぉ〜。」
「卵焼き旨え……っ!!何これ?!チーズ?!」
「うん、今日はヒロのリクエストでチーズにした!!」
「甘じょっぱくて旨え……。」
「奥田ん家も卵焼き甘い?!」
「弁当の卵焼きは甘いやつだな〜。おかずとして出てくるのはだし巻きだけど。」
「そっか〜。前に弁当あげた人はさぁ〜、卵が甘いってキレられてびっくりしたんだよぉ〜。ウチ、それまで卵焼きは甘いもんだと思ってたからさぁ〜。」

何気なく言われたその言葉に、奥田は喉を詰まらせかけた。妙な重さが胸の中に残る。

「……それって……カレシ??」
「元だよぉ、元!!もうとっくに別れたぁ!!」
「そう……なんだ。」
「だいたいタダでご飯作ってもらって!ありがとうも言わずにあれが不味いこれが不味いって文句言う奴、信じらんないっしょ!!そりゃ口に合わない事もあるだろうけどさぁ〜!!だからってキレるかっての!!」
「は、ははは……。」
「奥田みたいに旨い旨いって夢中で食べてくれるのが一番嬉しい!!」
「!!」

そしてまた中川の何気ない一言に奥田はドキリとする。顔を上げると、朝の太陽の日差しをバックに中川が微笑んでいた。風に揺れるカーテンのせいか、視界の全てがどこか全体的にキラキラして見える。その中で中川は少し頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んでいた。

「ありがと、奥田。」
「……へっ?!」
「奥田、いつもウチがして欲しい反応してくれるし、考えなしにワガママ押し付けても、困りながらも最終的に受け入れてくれるじゃん?!だからなんか奥田にはワガママ言ってもいいって感覚になっちゃうんだよねぇ〜。」
「そ、そうなんだ……。」
「でもさぁ〜、昨日の消しゴムの事とか弟たちに話したらぁ〜「ねぇちゃん、ソレあり得ない」「非常識すぎ!」って言われちゃってぇ〜。」
「あはは……。」
「考えてみたら……ウチ、奥田には甘えすぎてるのかなぁってぇ〜。そのうち愛想つかされて……嫌われちゃうのかなぁって……思ったら…さぁ〜……っ。」
「な?!中川?!」

それまでにこにこ話していた中川は突然、ポロポロと涙を零した。今時チャラ系女子が唐突に泣き始め奥田は焦った。

「中川?!どうしたんだよ?!らしくないぞ?!」
「ご、ごめん。自分でもよくわかんないんだよぉ〜!!」

突然泣き出した中川に奥田はオロオロする事しかできない。でも中川の説明のできない切なさが奥田にも伝わり胸の奥がキュウッと軋んだ。それは切なく、でも暖かく、とても不思議な感覚だった。

「泣くなよ……な?」
「わかってるよぉ〜。わかってるんだけどぉ〜。」

せっかくメイクした顔をぐちゃぐちゃにして泣く中川。奥田はその時気づいた。そんな中川を可愛いと自分が思っている事に。メイクが崩れ不細工なはずなのにいつもの何倍も可愛い。中川はチャラい今時の女子で、自分とは住む世界が違うタイプだと思っていた。でも、それでも……。

「……泣くなよ。」

奥田は自覚した。振り回されて困惑してばかりだったが、どうして拒絶したり嫌な気分になったりしなかったのか理解した。でも同時にきっと叶わないものだとも思った。自分では駄目だと、不釣り合いだとわかっていた。だから無防備に泣く中川を前にしても何もできず、奥田はポケットティッシュを渡す。

「……ありがとな、中川。弁当凄い旨かった。」
「へ、へへっ……。いいって事よぉ〜。」

 まだ人の少ない早朝の教室には中川の鼻を啜る音と、朝練をしている運動部の声が遠く聞こえていた。








 ぼーっとしている奥田を小笠原はけったいなものを見るように見ていた。何があったか知らないがおそらく中川絡みだろう。中川の方もいつものように躊躇なく奥田に絡んで来ない。

「ケンカでもしたのか?」
「ケンカすると思うか?」
「しないな。お前が完全に言いなりだもんな。」
「言いなりは言いすぎだろ?!」
「なら言い換える。お前に主導権はない。」
「……まぁ……ないな……。確かに……。」

理由は知らないが、心ここにあらずの奥田には何を言っても無駄だろうと小笠原は判断した。自分で何らかの結論を出して自分から動き出すまでは放っておくしかないと思った小笠原は奥田の側を離れる。
 昨日までいつも通りだったのに何があったと言うのか?相手を嫌っているとか怒っているとかそういう雰囲気はない。言い表すなら「戸惑っている」という言葉が一番しっくり来るだろう。二人ともいつも通りにしているつもりらしいが、昨日までとは違い、気を使いすぎてどこか遠慮しあっている部分がある。

「え?小笠原??……こんなところで会うとか珍しい。」
「……よう。」

 静かに過ごせる場所を探していた小笠原はばったり飯田と顔を合わせた。教室にいても仕方ないと図書室に行くも思ったより人がおり、科学部の部室に向かったがあいにく鍵も開いていない。それで人のいなそうな体育館方面をぷらぷら歩いていたところだった。

「何してる訳?こんなところで??」
「お前こそこんなところで何してんだよ、飯田?」
「私は午後練の準備しに行くだけだけど??」
「ふ〜ん。」
「で??小笠原は??」
「静かにボーとできる所を捜索中。」
「なるほどね。」

そこまで聞いて、飯田はニッと小笠原に笑いかけた。
その手にはジャラリと鍵の束が握られている。

「いい場所がありますよ?お兄さん?」
「……良いのかよ?」
「私は午後練の準備をする必要があってこの鍵を借りた訳で。鍵を開けて閉めるまでの間なら別に良いんじゃない?それとも手伝ってくれるの?」
「……遠慮しとく。」

自分でも冷めた返事だなと小笠原は思った。しかし飯田は気にするでもなく歩き出す。その後ろを少し距離を取ってついて行った。飯田は多くの事は言わない。必要な事は言うし普通に友達と話もしているが、基本的にあまり多くの事は言わない。色々言うよりも黙々と自分にできる事をしていく。そういう奴だと小笠原は思っていた。

「だからってなんで一人であれをやるんだ?部活の事だろ??」

飯田は午後練で使う物のコンディションをチェックし、グループで使うものをグループの数で分ける。大したことのない作業。別にやらなくてもいいとも言える。でもスムーズに練習が進むように飯田はそれをする。

「おまたせ。」
「いや、待ってねぇし。」
「そうだった、そうだった。まだボーとする?」
「いや……それじゃ迷惑だろ?」
「別に?まだ休み時間残ってるし、私もボーとしてもいいかなって。」
「ふ〜ん。」

飯田はそう言うと、小笠原とは少し離れた場所に座って本当にぼんやりし始めた。それをちらりと見やって小笠原はゴロンと寝っ転がる。

「……なぁ。」
「ん〜??」
「アレ、何なんだ??」
「奥田の事??」
「まぁそうと言うか両方というか。」

飯田なら中川側の事を何か知っているかと思い小笠原は尋ねた。飯田は少し考えるように上を見上げて足をブラブラさせた後、笑った。

「知らない。」
「はぁ?!何だそれ?!」
「本当に知らないよ?中川とも話してないし。」
「そうかよ……。」
「ただ……。」
「ただ?」
「何があったのかは知らない。でも気づいたんだろうなぁって思った。」
「気づいた??」
「そ。多分だけどね。」

何に、と言おうとして小笠原はやめた。聞いても仕方がない事だったからだ。だから黙って殺風景な天井を見上げる。

「案外、和泉は先を越されるんじゃないかな?」
「確かにな。」
「それがいい発破になれば……あるいは……。」
「発破になってもなぁ……。狭山だぞ?!」
「それでも今のままより良くない?」
「まぁな。」

二人はしばらく何も言わなかった。お互い思うところが何かあったのかもしれない。小笠原は寝転んだまま、ちらりと飯田を見た。

「なんで一人で準備してんだ?」
「え?!」
「部活の事だろ?」
「まぁ……そうなんだけど……。」
「昼休みにやっておかないとならない事でもないだろ?」
「……心配症なのよ、私。」
「知ってる。」
「……皆にはさ、頼りになるとか何があっても動じないとか思われてるけどさ……。」
「繊細なんだよな、お前。」
「……えっ?!」
「見てりゃわかる。表向きには細かい事には拘らないように見えるけど、前もってあちこちに気を配ってあるんだよ。この準備だってそういう事だろ?しかもその気遣いが何気に凄く細やかでさ。」
「ちょっと!やめてよ!!違うから!!」
「……疲れねぇのかなぁって思うよ。」

飯田は言葉に詰まった。茶化して誤魔化そうとしたがそれができなかった。そう言った小笠原の顔はどこか自分を責めているように見えた。ズキンと胸の奥が痛む。どうして小笠原のそんな顔に胸を痛めるのか、飯田は半ばわかっていた。それを悟られないよう胸を押さえる。

「俺はさ、そういうのから逃げた。疲れるから。他人の事なんてほっぽりだして、自分の事だけに集中した。他人に気を使って自分がガタガタになるのに耐えられなかった。だから狭山が良い方を人に貸して悪い方を自分で使おうとするのとか理解できないし、お前が練習の為に一人で道具のコンディションを整えておくのとか理解できない。」

そんな飯田に気づく事なく小笠原は淡々と続けた。普段ならそんな事を語るなど無意味だと思っていたのに、その時は何故か言葉を止める事ができなかった。

「でも、お前も狭山もそうやっていてもちゃんとしてるから、凄えなって思うよ。馬鹿にしてる訳じゃない。本気で凄いと思う。……俺にはできない。」
「そんな事、ないよ……小笠原……。」
「いや、俺にはできない。俺はお前や狭山と違って心が狭いんだ。現に奥田の様子がおかしくても、奥田自身がどうにかする気になるまでどうにもできない。かと言って奥田がどうにかする気になったって、親身になってやったりもできない。俺は俺自身の事で精一杯だから。」

何を語ってるのかと頭のどこかで冷めた目で自分を見ていた。何を言っても自分の了見が狭い事には変わりない。言い訳じみた事を並べたって結果は変わらないのだ。女々しくみっともない言葉を並べたって何の意味もないと理解していた。飯田は黙って小笠原の言葉を聞いた。それはどこか悲しげな悲鳴のように聞こえる。飯田は真っ直ぐに前を見つめた。変な慰めも同情も小笠原には必要ない事を理解していた。

「……それ、何か悪いの?」
「は??」
「別にそれで良いじゃない?何か間違ってるの??」
「……いや……別に間違ってるとかじゃねぇよ……。ただ……。」
「人に気を使えるのは自分に余裕がある時だけだよ。私だって余裕がない時は無理。ムカムカして声を荒げちゃう事もあるし。許容量なんて人それぞれ違うんだから、それを他人にとやかく言われる必要はなくない??小笠原の言う通り、無理して人に気を使って自分をすり減らしたって仕方ないよ。それこそ本当に疲れちゃうよ。」

小笠原は少し呆気にとられた。ちらりと見やった凛とした目のスポーツ女子。小笠原の言い訳じみた言葉を馬鹿にするでもなく、かと言って変な同情をして安っぽい慰めの言葉を言うでもなく、ただ淡々と明日を見つめていた。小笠原はフッと笑った。そんな飯田といる今が心地よかったからだ。

「……だな。俺には無理。」
「そ、それでいいよ。」
「悪いな、変な事言って。」
「別に?むしろそんな事で今更小笠原が悩むんだってびっくりしたわよ。」
「何だよそれ?人を冷血漢みたいに言うな。」
「冷血漢とまでは思わないけど、常に合理主義的に納得して判断してるんだと思ってたから。」
「合理主義は否定しないけどよ。俺も別に機械じゃねぇから。」
「うん、知ってる。」
「……そっか。」
「うん。」

それ以上の言葉はいらなかった。その言葉のない時間が妙に居心地がいいと小笠原は思った。飯田は多くの事は言わない。ただ真っ直ぐに明日を見つめている。そんな横顔がとても綺麗だと思った。

「さて!そろそろ行きますか!」
「だな。」
「じゃ、私、職員室に鍵返してくるから。」
「おう。」
「……あれ?!」
「どうした?」
「ここ、たまに上手く閉まらなくて……。」
「ふ〜ん?ちょっと退いてろ。」

小笠原は飯田と場所を代わり、扉を弄りながら観察する。どうもレールが曲がっているのと、何度も無理やり閉めた事でローラーの軸がブレているのだと思った。

「……かと言って直してる時間もないしな。」

仕方ないとばかりに小笠原は腕まくりをし、力づくでローラーを動かして引き戸を閉めた。後で用務員に状況を報告しておけばそれなりに対応してくれるだろう。

「ほらよ。」
「……あ、うん。ありがと……。」
「??」

鍵をかけるよう促すと、飯田は何故か顔を赤らめ俯いていた。それまでの凛とした強さが引っ込んで妙に可愛らしい。

可愛い??
飯田が??

小笠原は自分の感じたその感情に首を傾げた。飯田の真っ直ぐな強さを綺麗だと思ったばかりなのに、今度は可愛いと感じている。別にスポーツ女子で背が高いからと言って可愛いと思ったらおかしいなどと言うナンセンスな気持ちはない。ただ、自分のコロコロ変わる感情に小笠原は不思議さを感じていたのだ。これはいったいどういう事なのだろうと客観的に分析していく。

「……やっぱ、科学部とはいえ小笠原も男子だよね……。」
「そりゃな?」
「……ちょっと悔しい。」
「悔しい??俺の方が腕力があった事がか??」
「……違うわよ、バカ。」

飯田は俯き加減でそう言った。伏目がちな双眸とほんのり色付いた頬がさっぱり切られた髪の間から見えた。綺麗だった。そしてそれを見た時、小笠原は理屈抜きで現実をわからせられた。











 「あの……!和泉君……!!」

一匹狼よろしく単独行動していた和泉はその声にビクリとした。パタパタとらしくなく走ってくるその姿に走ってもいない心臓が早打ち始める。

「狭山、どうしたんだよ?何か用か?」
「い、いえ!あの……っ!!」

正直、自分を殴りたい。どうしてそんな突慳貪な態度しか取れないのかと。あわあわする狭山を見下ろしながら、和泉は泣きたくなった。

「わりぃ。別に脅してるつもりじゃ……。」
「わかってます!和泉君は優しい人ですから!!」
「?!」
「私こそいつも挙動不審でごめんなさい。」
「え、あ……いや……?!」

優しい?!聞き間違いか?!和泉は赤面した。だが和泉が狭山の言葉を聞き間違うなどという事はあり得ない。いつも狭山の小さな声でも聞き逃さないように気をつけているのだから。

「これ……。」
「あ〜、消しゴム。」
「返しそびれてしまってすみません。」
「いや、それは狭山が持ってろって。」
「でも!!」
「俺も返す気ないし。」

そう言われ、狭山は困った様にもじもじと手の中の消しゴムを見つめた。そして和泉を見つめ、梃子でも考えが変わらなそうな事を理解すると、和泉の物だったその消しゴムを大事そうに両手で包んだ。

「……私なんかが頂いてしまって良いんですか?」
「は?!頂いたって?!俺が押し付けてるだけだろうが?!」
「そう見せてるだけですよね?」
「ふぁっ?!」
「でもありがとうございます。……嬉しい。」

純朴に、嘘偽りなく嬉しそうに微笑む狭山。何が嬉しいのかは理解できないが、和泉の正気メーターはすでに振り切れてしまっていてまともに思考ができなくなっていた。何とか外面を保っているのが精一杯。

「……何が嬉しいんだよ……天使かよ……。」
「はい??」
「何でもねぇ!!」

思わず本音がダダ漏れになる口を押さえる。これ以上妙な事を口走らないよう細心の注意を払う。そんな和泉に気づく事もなく狭山はぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます。大事にします。」
「は?!いや?!」
「……ごめんなさい。本当は何も言わずに貰ってしまおうかとも思ったんです。和泉君の消しゴムがペンケースに入ってるのを見ると、いつも和泉君が「大丈夫、シャンとしろ!」って言ってくれてるみたいで心強くて……。」
「あ〜、うん……。」
「だからとても嬉しいです。ありがとうございました!!」

狭山はそう言うと足早に足し去っていく。それを見送りながら和泉は大きくため息をついた。

「謝んのもお礼を言うのも……むしろ俺の方なんだけどよ……。」

ポケットを探り、消しゴムを取り出して見つめる。有無を言わさず狭山と交換した消しゴムを。見つめてからギュッと握って祈る様に額に押し当てる。

「何やってんだよ……俺……。また何も言えずだよ……。」

和泉はずっと狭山に片想いをしている。周囲からイケメンだの何だの言われモテる事は自覚している。でも本当に振り向いて欲しい人は振り向かない。そんな外見的な見てくれになびいたりしない。それどころかいつだって隠している部分を純真な目で見抜いている。

「敵わなねぇなぁ〜。あんなにちっこいのに……。」

懐の大きさと見た目の大小は当たり前だが関係ない。それでも自分より小さい狭山が和泉にはいつだって大きく見えた。いつか狭山よりも大きな男になって自分の気持ちを伝えたい。なのに今のところうまく行っていなかった。だからといって諦める事もできない。今日もまた一つ、狭山を好きになってしまった。手の中の消しゴムを見つめる。そしてぎゅっと握ってからポケットに戻した。




 「恋」の本当の意味をいつ理解したのかは覚えていない。
でもそれを思い出す時、いつでも君が心の中ではにかんで笑う。

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