サバンナすずめvs.バリアーマン
文字数 3,567文字
レジの女の声には隠しきれない困惑の色があった。兵団から支給された新宿の地域通貨――クマーダをひとつかみ、支払い皿に置くとほとんどそのまま返された。
半額シールを数十枚も貼り付けられた豚バラ肉パックをポリ袋に突っ込み、女はスーパーを出た。彼女の名はサバンナすずめ。
じっとりと汚れた新宿の夜気。肺が真っ黒になりそうな排気ガスの臭い。すずめは参宮橋方面に足を向ける。教えられたアパートの住所だ。
サバンナすずめは動物保護兵団のエージェントである。ある男――「バリアーマン」の抹殺任務のため、この街にやってきた。今日が赴任初日であり、豚バラ購入は彼女が人間社会に順応できることを確認するためのファースト・ミッションであった。
猥雑な町並み。清潔すぎるパック肉。胸が悪くなった。
人気のない路地に足を踏み入れたとき、背後から男の声。
人の顔ならだいたい同じに見えるすずめにも見分けられる。丸っこい顔に落書きのような目鼻。頭に突き刺さっているものは髪なのかマチ針なのかわからない。しかし首から下はごく普通のシルエットなので、これは人なのだろう。すごく特徴的な顔の人なのだろう。相手が人ならば呵責はない。
瞬間、すずめの右フックが空を削った。凶悪なウニトゲが敵の腹を直撃――していない! 見えない壁が、ウニを食い止めている!
すずめはレジ袋を振り回して牽制しつつ飛び下がる。敵との距離、目算で七メートル。
にゅるんと伸びたすずめの右腕、右肘から先に長い尻尾が伸び、なめらかなカナヘビの胴体に続いていく。ムチのように振り回す。届かない――いや!
自切したカナヘビはバリアーマンの眼前で停止。構うものか、一気に距離を詰める!
タカ! トラ! バッタ! バリアーマンに猛然と襲いかかる動物たち! すべて中空で停止!
墨はバリアーに阻まれる、しかし同じだ、バリアーマンの視界を封じた。逸る心を抑えてタコ足を伸ばし、胸に構えた敵の手首に絡ませる。
力任せに手首を引く。全身の体重を使い、ビルの壁にバリアーマンを押し付けた。
がん、と音がした。
銃声であった。
すずめは見た。右手側、路地の奥、銃を構える男の姿があった。
銃の音、銃の音、大嫌いな銃の音――
バリアーマンはおそらく左の太股を撃たれていた。体がぐらりと傾ぎ、彼はその場に身を横たえる。
倒れていくゾウを、頭を踏みつけられたニシキヘビを、すずめはそこに見ていた……。
……弱肉強食です。納得します。でも、ひとつだけわからない……この男は攻撃をしてきませんでした。事前に聞いた情報では、やつのバリアーには反射能力があるはず。それを使わず、防御しかしようとしませんでした。
男は高層ビル街の高みを見上げる。
やつは今じゃ、この魔都の王様だ。熊田興業って言やあ誰でも知ってる。そのシノギに噛み付いたのがこのバリアー男。偽造半額シールとヤフオクを利用したインテリジェントビジネス、別に誰も困りゃあしないと思うんだがね? 調べたところじゃ、女相手には奥の手の「反射」を使わない。根が甘いからな。そこでお前を起用したわけだ。
すずめの拳はすずめだけのものではない。あるときはハチドリの、あるときはクリオネの、あるときはアノマロカリスの力。すずめの愛する生命の力。暴力団の銃と同列に扱われるなど、納得できるはずがなかった。それだけではない。外道クマの話が本当だとするなら、是非がわからなくなる。私のしていることは正しいのか? っていうかそいつは本当にクマなのか? 人間とは、動物とは一体――
次の瞬間、男が動いた。すずめはまともに頬を張られた。
目にも留まらぬ往復ビンタ! すずめの頬には瞬く間に、何百枚もの半額シールが貼られていく!
商品ならば価格! 武器ならば攻撃力! 対象の価値・能力を半減させる! お前の場合は何かなぁ?
ほほう、動物への愛――さすがだ、だが気に食わん! その甘さ、矯正してやる!
半額! 半額! また半額ゥ! 愛の価格を言ってみろォ~!
張り飛ばされた勢いで地に倒れる。地蔵のように整列したポリバケツの群れに受け止められて、すずめは猛獣の眼差しで身を起こす。食らえ――今度はこちらが食らってやる。
ときめかない。動物たちを想うとき、胸に去来するあのぬくもりを感じられない! 右手に目を落とす。変化したメガネザルの腕に、グロテスクな嫌悪しか感じない!
しかしそのとき――すずめの体中のシールが剥がれていく。シールは見えない壁に押しやられるように浮き上がり、五十丸を襲う!
瞬間、すずめの眼前が晴れ渡った。
これは、この胸を照らすのは、遠きあの故郷、サバンナの陽光!
直後、キリンの後足に変じたすずめの腕がシールまみれの男を襲った。蹴りを受けた男は数メートルを吹き飛び、ボロクズのように車道に転がり、通りがかったトラックに轢かれた。
バリアーマンは壁に手をついて立ち上がる。
ドボン! すずめはバリアーマンの腹に右ストレートを叩き込んだ。バリアーマンは泡を吹いて倒れた。
故郷のサバンナと同じ月が、ふたりを照らしていた。