両利きの彼

文字数 1,987文字

 彼は両利きで、手先が器用で、落ち着きがなく、どこか無神経で、食事のマナーがたいへん悪かった。
 食べるとき、彼は右手にお箸、左手にもお箸という、二刀流のスタイルだ。一方の箸は白米に伸び、もう片方は野菜に伸びと、常にかちゃかちゃかちゃかちゃせわしなく動く。それぞれ別の対象を狙うとは限らず、皿に盛られた多量の豆を両方の箸がせっせと素早く片づけていったりするときもある。その箸さばきは熟練の域に達していて、高速で獲物を(ついば)む双頭の鳥のようですらある。あるいは選別作業に勤しむ工場機械か。まあ、およそ情緒のある食事風景とはいえない。
 こんなことがあった。彼と一緒に家で食事をしているときに、間の悪いことに、不運なことに、わたしが大の苦手としている、名前を呼べないあの虫が、どこからともなく食卓の近くに現れた。しかも、そのいやしんぼの、くいしんぼの、名前を呼べないあの虫は、わたしがもっとも怖れている行為、飛行による接近を試みようとしてきた。万事休す! 脳裏を一瞬、死神がよぎった。
 そのとき、なんと、彼は左手の箸で蓮根をつまみながら、右手の箸で名前を呼べないあの虫を捕えた。がっちりと挟んだのだ。お箸に捕えられてもがくように微動する名前を呼べないあの虫は、飛行の姿とは別の様相を呈している蠱惑的な姿態によって、わたしを恐怖のどん底に叩き落とした。悲鳴があがった。わたしの悲鳴だった。
「なんだ、これくらいもよけられないのか。それでも虫か? おまえ、もっと必死で生きろよ。じゃないと殺されちゃうぞ」
 彼は澄ました顔でそんなことを言った。悲鳴があがった。わたしの悲鳴だった。箸でつまんだ名前を呼べないあの虫を、彼がそのままぱくりと食べてしまうのではないかと、そんな想像をしてしまったための、恐怖の絶叫であった。
 それ、どうにかして、どうにかして、早くどっかやって、わたしに近づけないで、わたしに見せないで、わたしから離れて!
 半狂乱でまくしたてるわたしに、怪訝な目つきを投げてくる彼。殺生は嫌いだから、と言って、彼は箸を手にしたままどこかへ出ていった。名前を呼べないあの虫をどこかに逃がしに行ったらしい。まあ、それはいいのだが、名前を呼べないあの虫を捕えたその箸は、即座に厳重に処分してもらった。別に、名前を呼べないあの虫に、特段の罪があるわけではないけれど、苦手なものはしょうがない。
 彼は本を読むときも二刀流だった。右手には外国語で書かれた小説、左手には自国語で書かれた歴史書。宇宙についての本だったり、お料理レシピだったり、神学書だったりすることもある。
 そして、なんというか、手だけではなく、彼は眼も両利きなのだ。いや、この言い方で合ってるのかよくわからないが。つまり、彼の右眼は右手の本に、彼の左眼は左手の本に、それぞれじろりと向けられて、それぞれに同時進行で読んでいるのだ。
 なんでそんな読み方するの? とあるとき訊いてみた。できるから、という答えだった。シンプル極まりない。
「それに、脳がシェイクされる感覚が好きなんだ」
 彼は脳も両利きなのか、などと考えたが、右脳と左脳をいかなる風に駆使すれば両利きと言えるのか、わたしは寡聞にして知らない。いや、シェイクされるということは、脳は両利きではないということか? よくわからない。彼の頭のなかなど知ったことではない。
 しかし、彼の両手も彼の両眼も、いつも必ず双方が熱心に動いているというわけではなかった。ときどき、片方が休憩しているように見える。虚空を撫でまわしたり、虚空を見つめたり。それはなにか、わたしを落ち着かない気分にさせる、不可解な動きだった。わたしの友人に言わせれば、そもそも彼の存在自体が不可解だったそうであるが。まあ、そうかもしれない。
 あのとき、彼の片手はなにを触っていたのだろう。彼の片眼はなにを見ていたのだろう。彼の片脳はなにを感じていたのだろう。不可解な、もう決してわかることのない疑問。どうでもいいといえばどうでもいいし、気になるといえば、死ぬまで気になってしまうような疑問。
 別れを告げたときも、彼の片手と片眼と片脳は、どこかぼんやりしていたように思う。最後に握手していいかな、と彼は言った。いいよ、とわたしは答えた。
 彼の右手がわたしの右手を握った。もう触れることはないだろう手。彼の感触。彼との別れ。
 ふと見ると、空いている彼の左手も、握手をするようになにもない空間を握っていた。彼の右眼はわたしを見つめていて、彼の左眼はなにもない空間を見つめている。
 あなたのもう片方は、なにをしているの? 最後にわたしはそう訊いた。
「もうひとりのきみと握手しているんだよ」
 そう言って彼は、左右非対称に微笑んだ。あれ以来、わたしは両利きの彼と会うことはないが、もうひとりのわたしがどうなのかは、定かではない。
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