炎恨

文字数 7,715文字

「うぃ~、ひっく……いや、今日はしこたま飲んだなぁ」
「そうっすね、兄ぃ……ごっそさんで」
「なぁに、ちょいとあぶく銭が入ったからよ、たまにゃ憂さ晴らしもしねぇとな……おや? どうしたい?」
「……兄ぃ……俺、目がかすんでるみてぇだ」
「へへ、ちょいと飲みすぎたか?」
「……前を歩いてる女……なんだか ぼうっとかすんでるみてぇで……」
「ばか言ってるんじゃ……お? 確かにかすんでるみてぇだな、俺にもそう見えるぜ……それにしてもこんな夜更けに女の一人歩きはいけねぇや……ちょいと意見してやろうじゃねぇか…………うわぁ!」
「あ、兄ぃ……こいつは……」
「目も鼻もありゃあしねぇ……ばけもんだ、よく見りゃこいつ、綿埃の塊じゃねぇか」
「でも確かに歩いて……わぁっ!」

 酔っ払い二人が腰を抜かすのを尻目に、女は埃の筋に形を変えて近くの商家の中に吸い込まれるように消えて行った。

「うん? なんだ? これは……わっ! ばけもの!」
 一方、この屋敷の主人の寝間……一筋の縄となって入り込んで来た綿埃はみるみる女の姿になると『ぼっ』とばかりに火に包まれた。
 元より正体は綿埃、女はあっという間に燃え上がり、もがき苦しむように断末魔の舞を舞うと、火は障子に燃え移り、あっという間に天井を舐め始める。
「誰か! 誰か来ておくれ! 火事だ! 火事だ!」
 主人の叫び声を聞きつけて飛び込んで来た店の者、必死の火消しで火事は小火で収められた……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「先生、馬曲先生、いらっしゃいますかい?」
「ここにいるよ……おお、誰かと思えば親分じゃないか、そちらから来てくれるとは嬉しいね」
 読み本書きの柳沢馬曲。 怪異現象や猟奇的な事件、謎の多い事件を書くことを得意としている売れっ子だ。
 彼を訪ねて来たのは岡っ引きの平八、馬曲は普段から平八に酒を奢ってはネタになりそうな話を聞きだしてはその話を膨らませ、脚色して読み本に仕上げることがあるのだが、今日は珍しく平八の方から訪ねて来たのだ。
「何か面白い話でもあるのかい?」
「いや、今日は先生のお考えを聞かせてもらおうと思いやしてね」
「ほう? 私の意見を? 余程不可解な事件らしいね」
「そうなんで……『埃女』の噂をお聞きになったことは?」
「いや、知らないね、面白そうじゃないか、ぜひ聞かせておくれ」
「へぇ……夜道を歩いてますとね、何やらぼうっとした影のようなものが前を歩いてる、近寄って行くとそれは人の形をしてるんですがね、見つかるとひと筋の縄のようにになって手近の家に吸い込まれて行くんだそうで」
「ほう……もののけの類か」
「へぇ……その縄ってのは実は綿埃の筋でしてね、家の中に入り込むとまた人の姿になって燃え出すんだそうで……何せ綿埃の塊がいっぺんに燃え出すんですからたまりませんや、あっという間に火事になるらしいんで……家の者が早く気付けば小火で済みますがね、ちょっとでも遅れりゃ火事になる、そう言う話なんで……」
「その埃女を見た者がいるんだね?」
「へぇ、そりゃ何人も……道端で出くわした者もいますし、埃女に火を付けられた家の者も見ておりますよ……あっしも最初は火付けの言い逃れかとも思ったんですがね、火を付けられた家のもんもそう言ってますし、火の用心の夜回りにも見られてるんでさぁ、町役人がいっぺんに何人も見てたとあっちゃ、そういうばけもんが本当にいるとしか思えねぇんで……火付けはお縄になりゃ火あぶりが免れない大罪ですがね、相手がもののけじゃねぇ……そう言うもののけの文献とか言い伝えとかご存じないかと思いやしてね」
「あいにく読んだことも聞いたこともないねぇ……でも面白いじゃないか……時に親分、そいつは綿埃の塊なんだろう?」
「へぇ」
「それなのにどうして女とわかる? 着物は着ていないんだろう? 島田でも結ってるのかい?」
「いえ……そう言やぁそうですねぇ、ただ何となく人の形をしているってだけで、言ってみりゃ丸坊主でのっぺらぼうの木偶人形のようだったと……」
「でも見た者は口をそろえてそれは女だったと言うんだろう? 丸坊主ならむしろ男と思っても不思議はないと思うんだがね、それとも立派な乳でもついてるのかい?」
「いえ、そこを突っ込んで訊いたこたぁないんですがね、そう話した者はおりやせんね……本当にただの木偶みてぇらしいんで……なるほど、言われてみれば妙だ、なんでそれで女とわかるんでしょうね」
「まあ、あたしの思うに、歩き方や立ち振る舞い、しぐさからそう思い込むんだろうね」
「そう言や、滑るように歩いてたと話してた者もおりますね、その者は振り返った時にこう……胸に手を当てるようにしてたとも」
「男はそう言う仕草をしないからね、女と思うのは当たり前かもしれないね」
「なるほど、そうですな……でも、そのもののけが男か女かってのはどっちでもいい話で」
「いや、意外と肝心なことかも知れないよ……火を付けられた家に何か共通のことがらはないのかい?」
「商家だったり武家だったりですけどね、大きな家ってとこだけは決まってますね、そもそも見つかると手近にある大きな家へ消えて行くんだそうですからね」
「大きな家ね……で、見つからなかったこともあったんだろうね」
「おそらくあったでしょうね……何しろ出るのはたいてい子の刻辺りですんで、その頃にゃさすがに人通りも少ないですからね」
「見つからなけりゃあらかじめ狙っていた家に入り込んで火をつけるのかも知れないよ」
「確かに……最初に見かけられた晩からの火事をしらみつぶしに調べ直してみやしょう」
「それより少し前から始めた方が良いだろうね」
「へぇ、見つからずに火付けしてたかも知れませんからな」
「帳面を調べたら教えておくれ、良い酒と旨い肴を用意して待ってるよ、あたしもそれまで色々と考えておこう」

 数日後。
「馬曲先生、いらっしゃいますか?」
「ああ、親分、調べてくれたのかい?」
「へぇ、絵図に落として来やした」
「おお、これはわかりやすいね、赤いバツ印の隣に書いてあるのが順番だね?」
「別の紙にいつ火を付けられたかもまとめてありやす」
「至れり尽くせりだね……ほう、隣町も調べてあるんだね?」
「埃女が出てるのはむしろ隣町が多いんでさぁ、まぁ、もののけには町境なんぞ関係ないでしょうけどね」
「そうかい……この三番だけど、たしか隣町の同心の家じゃないか?」
「へぇ、山本様の家で……本宅は八丁堀ですがね、そこはまぁ、妾宅ってやつで……ほとんどそっちに入りびたりですがね」
「山本様は療養中で、代わりの者がお役を務めてるって聞いてるけど」
「ええ、大火傷で……本宅の方なら助けもいたんでしょうがね、なにせ妾とばあやだけではね、なんとか自力で這い出したは良いが、一時はかなり危なかったらしいですぜ」
「あまり評判の良くない同心だったからね」
「へぇ……こっちの同心の中村様も『あいつは強引でいけねぇ』って仰ってましてね、下手人を早く挙げたいばっかりに決めつけが早いんですわ、調べも甘いそうでしてね」
「なるほど……で、山本様は今どこに?」
「それがわからねぇんで……山本様の妾宅と知ってて火を付けられたんなら狙われたのかも知れませんからね、大きな声じゃ言えませんが、恨みを持ってる者も多いでしょうし……どこか縁故のある商家や武家に匿われて療養中だって聞いてますが、また狙われるといけねぇんでそれがどこかは秘密になってるとかで、中村様でさえ知らないんだそうですよ」
「なるほど…………いや、あたしも色々調べてみたんだけど、埃女や埃男の文献は見つからないんだ」
「そうですか……」
「あたしは、これは生霊の仕業かも知れないと睨んでるんだけどね」
「生霊……ってのは?」
「恨みとか憎しみとかに取りつかれたようになった人間の強い負の思いが、相手の者に害をなす事さ」
「はぁ……呪いの藁人形みたいなもんですか?」
「ちょっと違うけど遠くはないよ、この場合、同心を恨む生霊が人の形をした綿埃になって火をつけて回ってるんだろう、おそらく山本様を焼き殺したいんだろうね」
「だからどこにでもあって燃えやすい綿埃なんですね?」
「それと、生霊となっているのが女だから仕草や何かが女に見えるんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
「同心に濡れ衣を着せられて火あぶりにされた男の女房、それが生霊になって埃女騒動を起こしている……そんなところじゃないかと思うんだ」
「なるほど……最近の火あぶりを調べてみましょう」
「あたしの推測に過ぎないけどね、でも調べてみる価値はあると思うよ」
「ええ、充分でさ、早速……」
「おいおい、親分、酒と肴は? 今用意させてるんだけどね」
「埃女の正体を突き止めたら祝い酒に頂きます……じゃ、あっしはこれで!」

 おそらくはこれだろう、という記録はすぐに見つかった。
 ひと月ほど前に火あぶりにされた与助と言う男、罪状はもちろん火付けだが、与助自身は足元に火をかけられるまで濡れ衣だと叫び続けていて、遠巻きにしていた見物の間にも『本当に濡れ衣なんじゃないのか?』と言うひそひそ声が流れるほどだったと言う。
 もっとも、それは同心のひと睨みで静まらざるを得なかったが……。
「お調べ中、与助は『門から走り出て来た若い男にぶつかられた、火付けはおそらくその男だ』と言い張ってたらしいですがね、山本様の拷問にかけられちゃひとたまりもありやせんや、結局はやってもいない罪を白状して火付けに仕立て上げられた……誰もがそう思ってるようでしたよ、普段の与助は真面目で折り目正しい男で、奴を知るものにとっちゃ火付けするなんぞ考えられなかったらしいんですわ」
「与助の不運はただそこに居合わせたこと……そう言うことのようだね」
「へぇ、しかも与助にぶつかって来た男ってのがですね……」
「ほう? 誰なんだい?」
「与力の旦那の息子がその近くで青い顔をして走ってるところを見られてるんでさぁ、火付けしたって証拠はありやせんがね」
「与力の息子か……仮にそいつが下手人だとして、何か証拠を残していても揉み消されそうだね」
「へぇ、それに下手人が挙がっちまえばもうお調べは終い、疑いをかけられるようなこともなくなる……本当のところはわかりやせんがね、同心が与力に恩を着せておいて損するこたぁありやせんからね」
「なるほど……酷い話だけどありそうな話ではあるな……で、与助には女房が居たんだね?」
「へぇ……お清って女で、夫婦仲も大層良かったそうですよ、与助が火あぶりになってからってもの、ろくに物も食わねぇで閉じこもりっきりだそうでしてね、長屋のおかみさんたちが随分と心配してるらしいんですわ」
「そりゃそうもなるだろうね……」
「先生の睨んだ通り、埃女がお清の生霊の仕業だとすれば……」
「そうだね、山本様の妾宅は調べりゃわかる……でも仕損じちまって……」
「潜んでいそうなところを片っ端から……」
「山本様は生きているんだろうね?」
「おそらくは……もし亡くなりゃ番屋には知れ渡りまさぁ」
「お清さんには同情するがね、このまま放っておくわけにもいかない、火事が続くことになるからね、大火にでもなったらコトだ……山本様が潜んでいそうなところは他にあるかな?」
「一番怪しい所が残ってまさぁ」
「それは?」
 平八が指さした場所を見て、馬曲も大きく頷いた。


「お清ちゃんかい? そこの三軒目だけど……閉じこもりっきりで出て来ないんだよ、あたしらも心配でね、煮物やおにぎりを差し入れてやるんだけどめったに食べないし……できればそっとしておいて欲しいんだけどね」
 お清の長屋を訪ねたのは馬曲、岡っ引きが出入りするのを見られるのは差し障りがあるが、読み本書きとして名は知れていても馬曲の顔を知る者は多くはない、長屋のおかみさんたちなら問題ないだろう、と言うことで馬曲が訪ねたのだ。
「いや、悪いようにはしないよ、ちょっと知らせてやりたいことがあるだけでね」
「そうかい?……締まりはしてないと思うけどね……お清ちゃん、あんたに会いたいって人がいるんだけどね、身なりの良い男の人さ、開けてもいいかい?」
「誰にも会いたくない……」
 中からは力のない声が帰って来る……。
「ちょっとあんたに教えてあげたいことがあるんだけどね、それだけだよ、手間は取らせない」
「……」
「いいかい?」
「……教えてくれるって、何を?」
「そいつは直にしか言えないな」
「……いいよ……入っても……」

「これは八丁堀の絵図だ……ここが山本様のお屋敷……そしてここが与力の吉田様のお屋敷だ」
「与力の……?」
「西のはずれに離れがある、病人を匿っておくのにちょうど良いくらいのね」
「離れ……」
「あんたの探し人はおそらくそこにいる、確かとは言えないが十中八九そこだ」
「……あたしは探し人なんぞ……」
「いや、それならそれで良いんだ……あたしはただあんたにこれだけ教えてあげようと思ってやって来ただけでね……絵図はここに置いて行くわけには行かないんだ、憶えられるね?」
「…………」
 お清は絵図を穴のあくほど見つめると馬曲の方へと滑らせ、丁寧に頭を下げた……。


「とうとう見つけたぁ……山本ぉぉぉぉ」
「な、なんだ、お前は!」
 部屋の中に入って来た一筋の綿埃の縄が見る見るうちに人の形になる、と、それまでのっぺらぼうだった顔に、血走った大きく吊り上がった目が開き、真っ赤な口が裂けるように現れた。
 まだ身体は万全ではない、火傷そのものは概ね良くなって来てはいるが、火ぶくれになった皮膚が引き攣れている上に、長い間寝込んでいたために身体に力が戻っていない。
 だがそこは武士の端くれ、枕元の刀を引っ掴むと埃女に斬りつける……確かに斬ったはず……だが手応えはなく真っ二つになったはずの胴体もすぐに元通りにくっついてしまう。
「おのれ!」
 山本は何度も何度も斬りつけるが相手は綿埃の塊、刃は虚しく宙を切るばかり。
「しまった……」
 埃女の腕が伸びたかと思うと、刀を握った腕に絡みつかれてしまう。
「山本ぉぉぉぉ……よくも与助に濡れ衣を……」
 埃女の身体はみるみる縄となり山本の身体の自由を奪う、そして目の前には血走った眼と真っ赤な口が……。
「与助だと?……すると、お前はお清か!」
「お前がそれを知ってどうなる? 今から死ぬのだから」
「ま、待て、お清、お前の暮らし向きの面倒は見る、悪いようにはせん」
「そのようなことは望んでおらぬ」
「仕方がなかったのだ、誰かを下手人に仕立てねばこの家の跡取りが……」
「そのようなことは知ったことではない……願わくば吉田も息子も道連れにして焼き殺してくれる」
「ま、待て!」
 埃女は蛇のようになった身体の尻尾を使って自分もろとも山本の身体を夜具で器用に包み込む。
「与助の無念、与助の苦しみ……味わうが良い」
 ボッ。
「やめろ、やめてく……うわぁぁぁぁっ!」
 埃女が火に包まれると、たちまち夜具が燃え上がり、身動きの取れない山本はさながら火あぶりのように生きながら焼かれて行く……。

「火事だ!」
「早く消せ!」
「火消は呼んだのか!? 早くしろ!」
 離れが燃え上がると吉田の屋敷は上へ下への大騒ぎになる、すると、燃え上がっている離れから幾筋もの火がオロチの首のように炎の牙を剥いて屋敷へと向かって伸びて行く。
「いかん! 吉田様を早く助け出せ、奥方も、坊っちゃんもだ!」
 離れに集まっていた者どもが屋敷に向かう、だが、火の速度には敵わない。

「……火?……いかん、火事だ、誰か! 誰かおらぬか!」
 騒ぎに目を覚ました吉田だが、既に障子や襖に火がついている。
「いかん!」
 外へ走り出そうとするが、何かに脚を取られた、見れば一筋の火が蛇のように脚に絡みついている。
「な、なんだ、これは、わぁっ!」
 寝間着に火が付き、慌てて脱ごうとするが、火の蛇に巻き付かれて身体の自由を奪われて行く。
「誰か……」
 助けを呼ぶ声は燃え盛る炎にかき消されて行った、そして勢いを増した火の蛇は次なる獲物を求めて……。


 翌朝のこと。
「お清ちゃん……お清ちゃん……少しは食べないと体に毒だよ……起きてるかい?……」
 隣のおかみさんがお清の長屋の戸を開けると、菊の花のような匂いが部屋いっぱいに。
「お清ちゃん! 誰か! 誰か来ておくれ! お清ちゃんが……」
 このところいつもそうしていたように、お清は壁に背を預けて膝を抱えた格好のままこと切れていた……ただ、このところふさぎ込んで土気色にくすんでいたその顔はむしろ晴れ晴れとして、夫婦揃って幸せに暮らしていた頃のようにこぼれるような微笑みを浮かべていた……。


「そうかい……お清さんは最後の力を振り絞ったんだね……」
 平八の報告を聞いた馬曲は少し肩を落とした。
「あたしは良いことをしたのかね……それともお清さんの命を削ってしまったんだろうか……」
「お気持ちは察しやすが、先生のせいじゃありませんや……おかみさん連中の話だと、どのみち弱って死ぬのは目に見えていたそうですからね、お清は晴れ晴れとした顔で死んでいたそうですよ……先生は本懐を遂げるお手伝いをなさっただけで……お清もあの世で礼を言っていると思いやすよ」
「だと良いんだが……これでもう埃女は現れないだろうね」
「へぇ、心配していた大火にもなりませんでしたし……先生はこの話をお書きになるんで?」
「いや……どうもそんな気にはなれないね、確かに山本様のような同心や吉田様のような与力もいるけどね、中村様のように町民のためにしっかりと働いてくださっている同心もいるんだ、その中村様に使える親分のような岡っ引きもいることだしね、同心を悪者に仕立てた物は書かないよ、それに、お清さんのような貞女が悪霊になる場面も書きたくはないしね」
「そうですか……ありがとうございます」
「吉田様の息子はどうなった?」
「若いんで命だけは取り止めやしたが、恐ろしさのあまり気が触れちまったようでして、膝を抱えてぶるぶる震えていたかと思うと、狂ったように暴れ出す始末でして……座敷牢に閉じ込めておくほかないでしょうね」
「悪い夢にうなされるだけの生涯か……死んでしまうよりもある意味辛いかも知れないね」
「そうですな……」
 二人の間にはしばらく重い沈黙が流れた……。
 そして、その空気を振り払うように平八が務めて明るく切り出した。
「そうそう、風車の一味がまた現れたそうで」
「ほう! それは耳寄りだね、詳しく話を聞かせてくれると嬉しいんだが」
「ようがすよ、でもその前に……」
「その前に、何だい?」
「この間頂きそこねた良い酒と旨い肴と言うやつを頂けると嬉しいんですがね」
「おお、もちろんだとも、今夜はとことん飲みたい気分だよ、付き合ってくれるだろう?」
「願ったりでさぁ」
「どれだけ遅くなってももう埃女に出くわす心配はないしね」

 埃女はそれっきりぱったりと姿を現さなくなった。
 だが、人の心に闇がある限り、江戸の街の闇にはまだまだ怪異が潜んでいる。
 馬曲も平八も、それは嫌と言うほど知っているのだった……。
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