狂いだす

文字数 1,576文字

 あれから一ヶ月経ったが、彼女に動きはない。
 悟られないように警戒を続けるも、ただただ社畜の女らしい日常を見せられるだけだ。
 仕事を片付けると同時に仕事を増やされ、ときおり上司からのセクハラを受け、夜遅くまで働いた後、クタクタになりながら帰宅。家では大雑把な夕食を作り、あるいはコンビニで買ってきた夕食を食べ、風呂に入り、あとは寝る。俺は定時で帰れる優秀且つ容量の良い男なので詳しくはないが、恐らく彼女のような人間にとっては平凡であろう日常だ。特別気になることはない。
 いや、セクハラは気になる。俺には気配一つ感じさせないような隙の無い女が、何故他の男に対してはあんなにも隙だらけなのか。もしや、わざとなのだろうか。あれらの男が彼女の仲間なのだとしたら、一方的な接触に見せかけてあのふれあいで何らかの情報を交換している可能性もある。
 あるいはあの男どもも彼女のターゲットで、俺にしてみせたようにああした接触で敵を探っているのだろうか。なるほど。あのたわわな乳を存分に活用しない手はない。つまり俺は彼女の十八番にまんまと騙されたわけだ。
「……いや、そんなはずはないか」
 あの日彼女は確かに処女であった。演技などでは偽れないほどに正真正銘だ。よく知っている。あんな男どもと違い、俺はあの夜確かに彼女を抱いたのだから。


 あれが夢でなければの話だが。
 あの日以降彼女に動きはない。そう。こちらに接触を図る素振りも見せない。廊下で偶にすれ違うとき『お疲れ様です』と目も合わせず当たり障りない挨拶を交わすのみである。普通だ。普通に他部署の良く知らない相手への対応だ。
 なんだあの女は。感情がないのか。嘗て無情と言われた俺がこんなに心を乱しているというのに。寧ろ俺にはこんなに感情があったのか。彼女を抱いてからすっかり振り回されて、おかしくなっていつ
 別に彼女面してほしいとか、そういうことではないのだが。普通はもっと気まずくなるとか、そういった変化があるものではないだろうか。やはり彼女はただ者ではない。



□□□



 憧れの先輩と一夜を過ごしてから一ヶ月。どんなに幸せな夢を見たところで無情にも朝は訪れ、月日は経つ。
 ありふれた日常に戻り、社会にあらゆる物を搾取される日々だが、私は経った一夜の思い出だけを原動力に働き続けていた。
 部署が違うとはいえ、職場にいれば彼とすれ違うこともあるが、私はあの日のことなどまるでなかったようにふるまっている。あれは私だけの思い出だ。私が見た夢に彼を巻き込んではいけない。その辺りは弁えている。
 今までの“碌にいいことがない人生”に鍛え上げられた私の心は伊達じゃない。彼の前でも暴走することなく、他部署の良く知らない社畜らしい振る舞いを、心得た振る舞いをしてくれるのであった。
 そんな私の最近の日課は彼を陰から見つめて、ひとり頬を緩めることだ。仕事を押し付けられ、セクハラを受け、踏んだり蹴ったりな毎日の唯一の癒しである。もちろん彼には気づかれないようにひっそりと行っている。こんなこと傍から見れば気色が悪い光景であるし、そんな姿を増してや矛先にいる彼に気取られたらいったいどう思われるか、想像するだけで恐ろしい。
 とにかくこれは私だけの秘密なのだ。当たり前のように不幸ばかり降り注ぐ人生の唯一の光。



 ……そういえば最近、珍しくいいことが起こった。
 なんと私の部署のセクハラ上司がいなくなったのである。理由は誰も知らないようだが、そんなことはどうでもいい。
 つまりこの状況は“ラッキー”という奴であろう。まさか私が一生のうちにこの言葉をつかえるだなんて思ってもみなかった。
 世界も存外見捨てたものではない。神様ありがとう。

 彼に抱かれてから、私は小さな幸せを噛締める生き方を知った。私の不幸しかなかった人生はあの日から狂い始めたのだ。
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