第1話 はじまり

エピソード文字数 2,481文字

はじまり
 
「時代が変わっても、ちっともいいことはないねえ」
 ご隠居は、焼き鳥を口にほおばった。口いっぱいに、焦げた醤油の味がひろがる。パタパタと、炭を熾すうちわの風。強烈な、鶏の焼ける匂いも食欲をそそった。こんな場合ではなかったが、話の内容よりも鳥のほうに意識が行ってしまう自分に愛想をつかしながら、八っつあんは、同意をするように急いでうなずいた。

 ここはあやかし横町の焼き鳥屋である。八っつあんは、ご隠居といっしょに酒を飲んでいた。朝っぱらからと目くじらを立てる人間はいない。八っつあんの女房トメは、友だちのヨネと連れだって、市場まで買い物である。八っつあんが飲んでいるのは、将来に対する不安のためだった。
「なんか、あっしらも、町人じゃなくて、平民ってやつになったらしいや。やだね平民なんて。軽薄軽佻(けいはくけいちょう)な調子でさ、ごめんこうむりたいや」

 八っつあんは、深刻ぶって頭を振っている。自分たちの問題は、口にしないのである。ほんとうになったら、困るではないか。
 江戸から、この町にやってきて五十年。言葉を直さないのは、やせ我慢の意地である。言葉は国の手形という。手形をなくしたら、江戸っ子とは言えねえ、と八っつあんは思っている。
「昔は良かった。毛唐がこの町を歩き回ったりしなかったし、年よりはもっと大切にされてきた。いまはどうだ。人を人とも思わん連中ばかりじゃないかい」

 ため息をついたご隠居は、そっと着物の袖で目を拭いた。帰ったら直面しなければならない事態を思うと、飲んでいる場合ではない。しかし飲まずにいられない。
 八っつあんは、しわだらけの手を組んだ。人生五十年、オレはもう六十。長生きしすぎたのかもしれねえな。いやいやこの八兵衛、若い者には負けやせんわ。

「そろそろ、帰ったらどうですかね。長屋の人たちも、心配してるでしょう」
 焼き鳥屋のおやじが、やさしい顔で言った。
「おまえさんは、権三の手先かよ」
 八っつあんが、おやじにくってかかった。
「やだねえ、酔っ払いは見境がなくて。権三は、新しい時代を切り拓こうとしてるだけじゃないですか」

 焼き鳥屋のおやじが笑い飛ばすと、
「新しけりゃ、なんでもいいのかよ!」
 八っつあんは、吐き捨てるように言い捨てる。焼き鳥屋のおやじは、なだめるように笑みを浮かべた。

「そういうわけじゃねえが、時代はもう明治だよ。昔を懐かしんでも、仕方ないでしょう」
 言ってることが正論だったので、八っつあんは、なおさら腹が立ってきた。串に残った肉を、そのままそばの野良犬に投げ与えると、席を立ってまくしたてる。
「あんたの言い分を聞いてると、こっちが辛気くさくなっちまう。ご隠居、こんなところに長居は無用だ。さっさと出ましょうぜ」

 江戸っ子らしく、ちゃきちゃきとした語調だが、ご隠居は地元民らしく、のんびりとしている。当年とって七十六、まだまだかくしゃくとしているご老体だ。
「ん? いや、ワシはまだまだ――」
「河岸を変えようってんだ!」
 八っつあんが気炎をあげたとき、トメを連れたヨネが帰ってきた。手に野菜をいっぱい抱えている。年は七十。人の良さそうな笑顔を見せ、ふっくらした頬はおたふくのようだ。色白で、昔はその辺の男をたらし込んでいたといううわさ。となりにいるのはトメである。女房は、今日はサンマが安かったわね、とズレたことをブツブツ言っている。ヨネは八っつあんに気づくと、親しげに話しかけてきた。

「あら、こんなところにいたのね。八っつあん。五郎がまた……」
「その名を口にするなと言ったろ!」
 八っつあんは、怒りに燃えてわめいた。
「穢らわしいヤツめ。人を人とも思わぬ冷血漢め!」

「もう帰ろうかの」
 ご隠居は、ひとこと言って、焼き鳥屋に、八っつあんの分も勘定を払った。焼き鳥屋の主は気の毒そうだったが、なにも言わずにそれを受け取った。

 長屋の周囲は、すでに取り壊されていた。荒れ果てた瓦礫のただなかにある長屋は、そこだけ頑固に現状のままである。
 まるで今のあっしみたいだなあ。
 八っつあんは、ちらりと空を見あげた。キラキラと、太陽が輝いている。その太陽に照らされて、歯が抜けたような荒廃が、長屋通りにひろがっている。

 いまの長屋は、引退した建物というよりは、現役の廃墟であった。陰気なじめじめした木製の建物。朽ちていくのを待つよりは、新しい旅籠に建て直すという不動産業界のドン、大隅権三の計画は、外面から考えるなら、常識的な意見であった。
 長屋の仲間たちの愛着を、度外視していることを除けば。

 周囲の古い建物が、工事によって瓦礫と化していく中、あさざだけが地に生えている。みんなは長屋の前で立ち止まる。ここはしかし、廃墟とはちがう。朽ちかけた扉のむこうに、人の息づかいがたしかにある。
 五郎が待ち構えていた。いかにもチンピラめいた身なりで、着崩れした着物に、派手な鼻緒の下駄を履いていた。八っつあんとご隠居と、ヨネがにらみつける。ひとりトメだけが五郎を見て、
「まあ、三太。いったいどうしちゃったのそんなところで」

 親しげな口調で近づこうとするので、八っつあんは袖を引っ張って止めた。
「あれはあっしらの息子じゃない。権三の手先でチンピラの五郎だ。おい、五郎。おまえが何をしようと、ここから出て行く気はないからな!」
 五郎はそれを聞くと、ニタリと笑った。
「ちゃーんと立ち退き料は払うって言ってるじゃねーかよ。おまえらがそんな態度なら、オレたちにだって考えがある」

「へえ、どんな?」
 八っつあんが鼻息荒く口走る。とたん、バラバラっとチンピラが瓦礫の物陰から現れた。五人いる。みんな、とりつかれたように、長屋に向かって駆け込んでいく。
「あっ、なにをする!」
 八っつあんが叫ぶ。ヨネが悲鳴を上げる。ご隠居が息を飲んだ。
 がちゃん、どしん、ばたん。
 陶器の砕ける音、地鳴りのような足音、ふっとぶふすま。
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