Sorbus commixta  ナナカマド-4

文字数 3,554文字

 シャワーを浴びてシチューを食べて、ふたりはそのまま台所で問題集を拡げていた。食卓には佑輔の母のクッキー。
 郁也も何度か会った彼女は、きっちりした真面目な雰囲気のひとだった。こちらから頼んだことであっても、息子が数日泊まり込むなら手ぶらではやれない。相手先の負担にならないように重い食材ではなくせめてお菓子を、と焼いたのだろう。
 佑輔は自分の母のことだからああ言ったが、郁也には彼女の心遣いが良く分かる。優しいひとだと郁也は思った。そんな優しいひとが育てた男のコ。郁也は心の中でこっそり、佑輔の母に「ごめんなさい」と詫びた。
(ごめんなさい。佑輔クンのお母さん。佑輔クンは、ボクと……)
(ボク、女のコじゃないから、佑輔クンに、普通の家庭とか、子供とか、あげられないんです。でも)
(ボクの身体が女のコじゃないのは、ボクのせいじゃない)
(ボクが悪いんじゃないんだ)
(ボクも、誰も、悪くない。そういうことじゃ、ないんです。上手く言えないけど)
 郁也の耳に淳子の言葉が蘇る。ここぞってときには絶対引いちゃダメよ。押すのよ。あなたってば肝腎なときに引っ込み思案だから心配だわ。そう。郁也の母も郁也の幸せを願っている。きっと父も。そして誰より佑輔がそれを願っていた。自分だけが諦めればいい。もうそんな場合じゃない。
(ボク、諦めません。ボクのことだから、また色んなことで、悲しくなったり、悩んだりすると思います。でも、ボク佑輔クンを諦めることはもうしない)
(優しいあなたを傷つけることになっても)
(あなたが願う佑輔クンの幸せを、壊してしまうことになっても)
(ごめんなさい。でも。ボクは止めない)
 佑輔と一緒にいることを。佑輔を愛することを。
 だって、ボクが側で幸せに笑っていることが、佑輔クンの幸せだって言うんなら。
 郁也は全力で幸せにならなければならない。

 食卓の角を挟んで隣に佑輔が座っている。淳子もいないので、郁也は椅子をずらしてこの位置に自分の席を作った。郁也はこの位置が一番好き。佑輔の手許が良く見える。佑輔の身体が近くなる。去年の夏、夏休み期間限定だと思って、毎日せっせと佑輔と図書館に通った、あのときから。
 郁也は夏休みが終わったら全てが終わると諦めていた。だが、二学期が始まっても諦められなかった。だって佑輔が優しかったから。学ランを着た郁也にまで。
 もうじき今年も夏休みが来る。学院祭が終わったら。もうすぐだ。
「どうした。難しいのか」
 佑輔は顔を上げた。郁也のシャーペンは動いていなかった。
「あ、ううん。そうじゃないんだ」
「そうか」
 佑輔はまた問題集に戻った。
「佑輔クン」
「ん?」
 佑輔は顔を上げずに返事だけした。
「ボクが女のコだったらよかったのにね」
「うーん」
 佑輔は手を止めた。
「でも、それじゃ出会えなかったろ」
 当然のようにそれだけ答えて、佑輔はまた問題に取りかかった。
 何とあっさりした言葉であることか。
 佑輔の中で、もう答えは出ていたのだ。


 ふたりは抱き合って新しい朝を迎えた。
 陽光に揺れるカーテン、賑やかな小鳥たちのさえずり。
 郁也は温かな腕からそうっと抜け出した。眠る恋人を起こさぬように。
 こんな早くにすっきり目覚められたのは初めてだ。
 朝食の用意をして置こうか。
 佑輔は大食漢だから、きっと朝も沢山食べる。
 そんなに食べたものはどこへ行くのかと、郁也が不思議に思うほどだ。
 去年の八月、学院の外で佑輔と二度目に会ったとき、ご飯を食べないと家で心配されたと佑輔は言っていた。兄に「恋煩い」だと見抜かれたと。そのとき郁也は、佑輔が誰か可愛い女のコとつき合ってるんだとがっくり落ち込んだ。佑輔が食欲が落ちるほど想っていた相手は、他の誰でもない、郁也自身だったのに。今では笑い話だ。
 郁也はその頃を思い出し、声を立てないようにくすりと笑った。
 
 食料を少し買いに出た他、ふたりは一日家の中で過ごした。
 問題集を解いたり、キスをしたり。その合間に食事を摂った。いつもなら短くはない一日が、ふたりならあっという間だ。
 夕食の後、食卓で隣合って勉強していると、佑輔が時計を見て言った。
「早いなあ。もう九時過ぎかあ」
「ほんと。あっという間だね。でも、勉強は捗ったかな」
 郁也も小首を傾げてにこっと笑う。
「いつもなら終バスの時間だね」
「ああ、もう急いで出なくちゃならないな」
「時間になっても帰らなくていいのって、いいね」
 郁也は呟くようにそう言った。再びノートに目を落とした郁也に、佑輔が尋ねた。
「郁、志望校って、もう決めた?」
「うーん。模試のときにはいつも同じようなとこ書いてるけど、決めたって程じゃないなあ。母にも学士はどこでもいいって言われてるし。院で何をやったかの方が問題視されるって」
「へえ、じゃあ郁は大学院まで進むって決めてるんだ」 
「決めてるっていうか。ボクの性格じゃあ、出来ることって限られてると思うし。母はそういうとこ見抜いてるから、研究者がいいんじゃないって。まあ、他に知ってる職業がないだけかも知れないけどね」
 そう言って郁也は笑った。郁也の両親は大学院の先輩後輩、父弘人は今でも研究一筋だ。
「だからそうだなあ。あんまり考えてなかったよ。面倒だから、大学院のあるところがいいなあ、くらいにしか」
 佑輔クンは? と郁也は首を傾げた。
 佑輔はシャーペンをくるくる回して黙っていた。佑輔の右手の上でくるっくるっと勢いよくシャーペンは回り続けた。それはしばらく同じリズムで旋回したあと、バランスを崩して佑輔の手から落ちた。
「一緒に住まないか、俺たち」
 唐突な佑輔の言葉に郁也は「え」と言ったきり、佑輔の次の言葉を待った。佑輔はひと呼吸置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「俺が郁と同じとこに入るのはさすがに無理だと思うけどさ。大学が複数あるようなそこそこの都会なら、俺の入れるところもあるかも知れないだろ。同じ街の大学に行って、そこでふたりで一緒に住もう」
「え、ちょ、ちょっと待って」
「大丈夫。俺たちなら、貧乏学生が部屋をシェアしてるとしか思われないさ。貧乏なのは俺だけだけどな」
 そこで佑輔はちょっと笑った。
「佑輔クン……」
「郁、今言ったろ。『時間になっても帰らなくていいって、いいね』って」
「……うん」
「一緒に住んじゃえば、毎日帰らなくていいんだぜ。終バスの時間が過ぎても、ずっと」
 佑輔は言葉を切った。エヘンと咳払いをして、少し顔を赤らめた。
「ずっと一緒にいられるよ」
 それは考えたことがなかった。
 郁也はこれまでの習慣から、未来のことを考えるのが苦手だ。絶望と二人三脚だった郁也のこれまでの生活には、明るい未来の入る余地はなかった。先のことはなるべく考えないようにして何とかやってきたのだ。
 だが、佑輔は違う。その焦茶の澄んだ目は、真っ直ぐ将来を見据えている。
 佑輔の見つめる未来には、もう、郁也が映り込んでいた。
 どこまでも、一緒に行けるんだ。
「駄目か? 郁?」
 郁也は返事の替わりに佑輔の頬を両手で挟み、今日何回目かのキスをした。


 いつもと変わらない朝の喧噪。
 ここのところ煩い須藤も、今朝は郁也の邪魔をしに現れない。
 いい朝だ。
 廊下で松山に出会った。
「お早う」の挨拶を交わすより先に、松山は「おいおいおい」と廊下の隅へ手招きした。
「何? 松山君」
「『何』じゃねえよ。お前らそうやって、ふたりでお手々繋いで来たのかよ」
「繋いでないよ」
 郁也と佑輔は、自分たちの手を拡げて見せた。
「そうじゃなくってよぉ」と松山は頭を掻く。
 松山はパッと手を頭から放してこう言った。
「ま、いいか。考えてもしようがないもんな」
「じゃな」と松山はそのまますたすたと歩いていった。
「何だろね」
「さあな」
 郁也は松山の後ろ姿をちらっと見遣り、分からないまま教室へ向かった。揃って現れたふたりの姿に、教室の一部がしんとした。だがそれもふたりがそれぞれの席へ着く頃には、朝の空気に紛れてしまった。
 郁也は横田と水上に、土曜の礼を言った。水上は今日も筋肉痛だと苦笑した。
 横田が難しい顔で首を捻った。
「それにしても、何であいつ、谷口を目の敵にするんだろうな」
「目の敵って、好きなんじゃないの」
「んな訳ないって。嫌がらせだよ」
「そうかなあ」と水上は肩を落とす。
 郁也はおとといの須藤との遣り取りを思い出した。あんまり幸せでそんなことすっかり忘れていたが、何だか鬱陶しい流れになったような気がする。
 だがそんなこと、どうだっていい小さなことだ。
「ありがとう。心配してくれて」
 郁也はふたりに感謝した。そして、首を傾げてつけ足した。
「君たちがいてくれて、良かった」
 横田と水上はふたりとも少し顔を赤くして、下を向いた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み