Magnolia denudata 白木蓮-1

文字数 4,089文字

「谷口さん、お早うございます」
 須藤が主人を見つけた子犬のように駆けてきた。生徒玄関の柱に凭れて郁也を待っていたらしい。
 辺りは登校してきた生徒でごった返し、教室へ向かう群れに逆らうのは面倒であった。逆らったとて、今来た玄関を戻るしかない。朝がそんなに得意でない郁也は、ぎりぎりの二歩手前くらいのタイミングで学院へ着く。こんな奴のために遅刻してしまうのは馬鹿らしい。郁也は須藤の前を無言で通り過ぎようとした。
「谷口さん! 返事くらい、して下さいよ」
 須藤は郁也の歩く速度に合わせてついてきた。郁也が女のコの姿で街を歩くとき、しつこく食い下がってくる不躾なナンパ野郎のようだ。郁也は彼らを無視するときのように、真っ直ぐ前を見たまま歩き続けた。
「昨日僕、研究のために、寮の先輩の秘蔵ビデオ見せて貰いました。何が映ってたと思います?」
 須藤はそう言って楽しそうに笑った。朗らかなその様子は、故意とらしい無邪気さに溢れていた。郁也は階段に足をかけた。

姿の谷口さん」
 郁也はびくとその声に振り返った。須藤は手摺りに肘を載せて、郁也の顔をのぞき込むように見上げていた。それまで須藤の顔を見もしなかった郁也は、そうして一瞬須藤と目を合わせた。須藤の目は、郁也がその瞳の奥の隠したものを見透してやろうとでもするように、挑戦的にぎらついていた。
 郁也はつい足を止め、振り返ってしまった己れに、心の中で舌打ちした。再び階段を上り始めた郁也の前に回り込んで、須藤は尚も続けた。
「ほらあの、『白雪姫』ですよ、去年の。パレードの間中、ずっと谷口さんを撮ってるんです。どうやって撮ったんでしょうねえ。みんな当日は自分のクラスの仕事で、手なんて空いていないのに。誰か他校のひとにでも頼んだんでしょうか」
 得意のポーカーフェイスを崩さぬよう気をつけながらも、郁也は自分の心の中が泡立っていくのを感じていた。そんな映像が保存されているとは。日々失われてゆく、自分の姿が。
「キレイでしたよお。姿形も美しいけど、何ていうのかな、立ち居振る舞いが何とも可憐で。まるでほんとの女のコが動いてるみたい」
 郁也の顔からすうっと血の気が引いた。思わずその場に立ち止まっていた。
「どうやったらあんな可愛らしい仕草が出来るんでしょうねえ。僕、溜息出ちゃいましたよ。クラスのみんなのためにも、ここは是非とも谷口さんについて、しっかり勉強しなくっちゃ」
 マルデホントノ女ノこガ動イテルミタイ。
「ねえ、谷口さん。谷口さん? ねえ、どうしたんですか、谷口さん」
 須藤の言葉は呪文のように、郁也の記憶を抽き出した。核内に収納されたDNAが一斉に解けてバラバラになる、アポトーシスを迎えた細胞のように、圧縮されて折り畳まれていたこれまでの記憶の無数の破片が、郁也の中に噴き上がり、溢れかえった。

 物心ついてから、自分が好むのは静かなひとり遊びやピンクのリボンであったこと。
 何とはなしに身体から滲み出る違和感が、標的にされいじめ抜かれた小学校でのこと。
 周囲の人間をリセットしようと入った東栄学院では、そうした自分をひた隠しに隠してきたこと。
 成長するに従いより美しくなった自分の顔形を、従姉の真志穂が喜んでくれたこと。彼女の部屋を訪れると、いつも彼女は郁也を可愛いお嬢さんの姿に仕立ててくれた。鏡に映る、キレイな郁也。
 それが本当の自分なのだと、郁也は確信することが出来なかった。
 本来の自分に戻る、そう言い切ってしまうだけの勇気を持たなかった。
 どちらが本当の自分なのか。そんなこと、簡単に決められることと違う。
 違和感を抱えたままでも、誰からも注目を浴びずに静かに暮らせる。
 違和感を是正して心のままに生きれば、ひとの好奇の視線が怖い。
 郁也が悩んでいるうちに、時間はどんどん過ぎて。
 キレイな一瞬は、失われて往くのだ。 
 日々、学ランを着るのが辛くなった。そんなものを身につけて、男子校の中へ入っていくのが、悲しくて惨めで、馬鹿みたいに思えてきた。
 それでも郁也が学院に通ったのは。
 佑輔がいたからだ。
 郁也は教室を横切るとき、呼びかけられて振り向くとき、彼の姿が視界に入るのを心の支えに登校した。自分の視線は決して気づかれぬよう細心の注意を払って、佑輔を見た。佑輔の声を聞こうとした。
 誰にも知られぬ身体の奥底に、鍵をかけて仕舞っておくことにした、自分の気持ち。それでいいと思っていた。そうする他を、郁也は知らなかった。
「白雪姫」の扮装をした郁也に佑輔は、その姿は別にカッコ悪くないし、その証拠に自分は「お姫さま」の郁也と、街を歩いても平気だと言った。それを証明してみせると、佑輔は郁也を女のコの姿で街に連れ出した。
 そして、佑輔から貰った、初めてのキス。
 佑輔は優しかった。
 佑輔の部屋に呼ばれた、秋。雨音の中、郁也が漏らした切ない吐息。
 信じられなかった。
 佑輔は。……優しかった。
 郁也は怖くなった。佑輔の優しさに有頂天になりながら、それが佑輔の気紛れだったらと、いつか彼の前に本物の女のコが現れたら、自分は絶対敵わない、と、毎日気が狂いそうに怖れた。佑輔が優しければ優しい程、佑輔を好きになれば好きになる程、郁也は佑輔を失うことが怖かった。
 そして。佑輔は本物の女のコに出会ってしまった。
 郁也と佑輔が、秋の夕暮れを歩いていたときに偶然出会った佑輔の知り合い。一緒にいたぽっちゃりした女のコは、佑輔に興味を持ったようだった。
 ふっくらした柔らかな身体付き。か細くごつごつした郁也の男のコの身体とは正反対で。
 その日から、佑輔は郁也から一定の距離を保つようになった。郁也に触れなくなった。一週間後の日曜日、郁也の電話に出なかった彼は。
 郁也は何があったのか分かってしまった。
 次の日。嫉妬と絶望に凍りつく自分の顔を佑輔に見られたくなくて、教室へは行けなかった。理科室へと足を向けた郁也は、窓の外に、佑輔の笑顔を見た。
 夏の始め。学院全体が学祭準備へと邁進していた頃、初めて郁也が佑輔と口を利いた、そのときと同じ場所で。
 笑って郁也に腕を拡げる佑輔を、郁也は見た。
 郁也が失ってしまった佑輔の手。それがもう一度郁也に向けられるなら。郁也に迷いはなかった。郁也はそこへ飛び込んだ。
 気がついたとき、そこは病室だった。転落事故を起こしたと知らされた。
 母淳子の監視がつき、精神科の医者に面談され、それでも郁也は、何が起こったか誰にも言わなかった。
 とても言えなかったのだ。
 郁也は佑輔を忘れようとした。毎晩泣いた。泣いても泣いても、忘れられなかった。それでも彼の存在しない生活をすることを決めた。
 退院間近の日曜日、佑輔は現れた。
 佑輔は言った。「怖かった」と。
 自分が本物の女のコでないことを、いつか現れる女のコに自分は敵わないことを怖れる郁也の悲し気な表情は、そのまま佑輔を脅かしていた。佑輔に、男にこんなことをされているのが、本当は嫌なのではないか。郁也の優しさがそれを許しているだけなのではないか、と怖れていたことを口にした。佑輔も苦しんでいたのだった。
 目の前に現れた少女を支えに郁也を忘れようと、佑輔はしたのだ。
「でも駄目だった」と佑輔は言った。
 もう郁也を諦めない、ときっぱり言った佑輔の澄んだ瞳。初めて郁也の事を「好きだよ」と言ってくれた暖かな声。
 そして、佑輔は言ったのだ。「そのままの郁がいい」と。
 もしボクが女のコだったら、ボクが本当の女のコになったら、ずっと側にいてくれる?
 震えてそう尋ねた郁也に。笑って。事もなげに。
 その言葉で充分だった。
 それで、郁也は生きていける。そう思った。
 復帰した学院では、事情の片鱗を知る友人たちも助けてくれて、郁也は何とか、辛い男子校を卒業まで耐えられるかも知れない。
 これまでの長い長い記憶が、圧縮された濃度のままに到来した。断片断片が高い密度で郁也に振り注いだ。圧倒的に多い、悲しくて孤独な記憶。その中で眩しいほど輝く幸せな記憶。佑輔の姿が見える。郁也が出会った初めての、たったひとつの、それは希望だ。もしまたそれを失うことがあれば、今度こそ生きられないと郁也はぼんやりと思う。記憶の洪水に郁也はただ立ちすくんでいた。

「おい! 何をしてる」
「いえ、僕は何も。ただ話してただけで」
「こいつに何を言ったんだ」
「別に大したことは」
 ふらついてくずおれそうになっていた郁也を、佑輔が抱き止めていた。側でおろおろしている須藤を、佑輔は厳しく追及した。
「大したことかそうでないかはお前が決めることじゃない」
 須藤はいつも松山や矢口の後ろで黙っている佑輔が、矢継ぎ早に問い質すので驚いたようだった。佑輔に抱えられた郁也は、青い顔をしてぐったりしている。
「ええとその。僕が去年の谷口さんの仮装パレードを撮ったビデオを観た話をして、キレイだったですって言って。僕も勉強しようって言ったんです。まるでほんとの女のコが動いているみたいって」
 佑輔は親知らずが痛んだように顔を顰めた。
(本当の女のコ)
 その言葉が、どんなに鋭く郁也の柔らかいところを抉ったか。佑輔は腹の底からの怒りをこめて須藤を睨んだ。須藤は脅えたように口を噤んだ。佑輔はひと呼吸置いてから、静かに言った。
「よし分かった。次にこういうことがあったら、その時はもう俺たちはお前を許さない。いいな。もう行け」
 それだけ言うと佑輔は須藤に興味を失い、郁也の介抱に専念した。
「どうだ、歩けるか。頭が痛いのか」
「う……ん。平気。どこも痛くないよ。ちょっと眩暈がして」
「無理するな。保健室連れていこうか」
「大丈夫。教室、行く」
「そうか。肩貸すか」
「ふふふ、ダメだよそんなの」
 郁也は手摺りに把まりながらゆっくり階段を上り、佑輔はいつ郁也がふらついても支えられるよう、腕を伸ばしてその数段下をついていった。須藤はふたりを見送るしかなかった。しばらく彼らの姿を眺めていたが、やがてくるりと身を翻し、須藤は階下の自分の教室へと駆け出した。
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